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時間は存在しない/カルロ・ロヴェッリ

なにこのシンクロ感。

カルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』
一昨日の夜に読みはじめ昨夜読み終えた、量子重力理論を研究する理論物理学者の言うことが、1つ前に読んだ社会学者ブリュノ・ラトゥールの『社会的なものを組み直す』でのアクターネットワーク理論の主張とリンクしまくっていて、びっくりした。

この世界は、ただ1人の指揮官が刻むリズムに従って前進する小隊ではなく、互いに影響を及ぼし合う出来事のネットワークなのだ。

このロヴェッリによる「世界を出来事のネットワーク」として捉えた記述などは、ラトゥールが以下のように「エージェンシー郡の結び目を紐解く」必要性について記述するのと重なるように思う。

行為は、数々の驚くべきエージェンシー群の結節点、結び目、複合体として看取されるべきものであり、このエージェンシー群をゆっくりと紐解いていく必要がある。

ネットワーク、そして、その結び目。
かたや社会科学者の言説、かたや理論物理学者の言説が、互いに意識することなく、重なることの驚き。異なる領域を専門とする両者が同じように、何か1つの大きな秩序に動かされた世界ではなく、事物が互いに影響を及ぼし合いながら生まれる小さく流動的な秩序こそが現実の世界を動かしているのだと主張するのだから、おもしろい。

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時間とエントロピー

ラトゥールについては1つ前にしっかり書き上げたので、そちらを読んでいただくとして、ここではロヴェッリのとても刺激的で、おもしろい本について紹介したい。

何よりまずタイトルからして「時間は存在しない」と刺激的なものだ。

本書を読み進めると、ロヴェッリは「宇宙全体に共通な「今」は存在しない」だとか、「世界の出来事を統べる基本方程式に、過去と未来の違いは存在しない」だとか、はたまた「自分の周りで経過する時間の速度は、自分がどこにいるのか、どのような速さで動いているのかによって変わってくる」だなんて、非常識に感じられることをアインシュタインの相対性理論、クラウジウスやボルツマンのエントロピー論などをやさしく紐解きながら、それがこの世界における真実であることを教えてくれる。

よく、原因は結果に先んじるといわれるが、事物な基本的な原理では「原因」と「結果」の区別はつかない。この世界には、物理法則なるものによって表される規則性があり、異なる時間の出来事を結んでいるが、それらは未来と過去で対称だ。つまり、ミクロな記述では、いかなる意味でも過去と未来は違わない。
ここで重要なのが、落体との違いだ。ボールは落ちることができるだけでなく――たとえば跳ね返ることによって――勝手に戻ってくることができる。ところが熱は、そうはいかない。クラウジウスが発表したこの法則は、過去と未来を区別することができる、ただ1つの基本的物理法則なのだ。

物理法則の基本原理には、原因と結果の流れを不可逆なものにするものはないという。唯一、不可逆な状態がつくられるのが熱が絡んだ場合なのだそうだ。
いわゆるエントロピーは増大する方向に推移するだけで、エントロピーが高い状態から低い状態には遷移しない。この熱力学の第2法則だけが、原因と結果を非対称なものにする。

つまり、時間の不可逆性は、熱(あるいはエントロピー)と関係しているだろうと、ロヴェッリはいうのだ。
物理的な配置に特別な秩序があるエントロピーが低い状態があって、その秩序が何かのきっかけで崩壊して、エントロピーが増大する。その過程が時間をつくるのだ、と。

エントロピーがなければ時間は存在しない。

時間は存在しない

しかし、そのエントロピーさえもが本当は実在しないのだとしたら、どうだろう?

エントロピーが特別な秩序の配置から、その秩序を失うことであるとすれば、では、なぜその特別な配置が先にあるのだろう?という疑問が生じる。秩序が一度壊れたら戻らない不可逆性をもっているとしたら、宇宙から秩序はひたすら失われていく一方だということになるからだ。

ある配置が別の配置より特別だという認識は、カードの特定の性質に注目したときにのみ意味をなす。あらゆるカードをとことん細かく区別していくと、すべての配置が同等になり、どれをとってもほかより特別とはいえなくなる。「特別」という概念は、宇宙を近似的なぼんやりした見方で眺めたときに、はじめて生まれてくるものなのだ。

ある配置が特別に思えるのは、それをみる僕ら人間がその配置に特殊さをみるからだ。
いや、逆にいえばこうなる。
本当はすべての配置が「特別」なのである。ただ、人間が規則性を理解できるものとそうでないものがあり、理解できるもののみを「特別」だと言っているにすぎない。ボルツマンのいう「ぼんやり見ている」というのはそういうことだ。

ボルツマンは、わたしたちが世界を曖昧な形で記述するからこそエントロピーが存在するということを示した。エントロピーが、じつは互いに異なっているのに、わたしたちのぼやけた視界ではその違いがわからないような配置の数を表す量であることを証明したのだ。

ようするに、エントロピーというものは、世界をぼんやりしか見ることができない人間がみた場合の物理法則でしかなく、本当の物理世界にそのような法則性はないことになる。
となると、エントロピーの不可逆性にともなって生じる、時間の不可逆性の根拠も失われる。時間もまた世界をぼんやりしか見ることができない人間がみた場合のみの法則性ということになる

だから、ロヴェッリはこういうのだ。

過去と未来が違うのは、ひとえにこの世界を見ているわたしたち自身の視界が曖昧だからである。

事物は存在しない、事物は起きる

アインシュタインは、同じ地球上でも低い場所にいる人の時計と、高い場所にいる人の時計では進み方が違うことを発見した。地球の重力に近い低地にいる人のほうが時間はゆっくり進み、高い山の上にいる人のほうが時計は早く進むというのだ。

この僕たちの直感からはおよそかけ離れた、場所の違いによる時間の相違は、とうぜんながらもはや物理学の世界では常識だ。
"物理学では、個別の現象を測定したときに個別の時計が示す時間のことを「固有時」と呼ぶ"のだそうだ。

場所によって時間の進み方が違うだけではなく、そもそも先に見たように時間の不可逆性も人間のぼんやりとした視界からくるものでしかない。

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また「今」というものもない

ロヴェッリはさらに踏み込んで「時間が流れるのは、重力場よって決まる」だとか、量子的にみれば「世界の基本原理は空間も時間もなく、ある物理量からほかの物理量へと変わっていく過程があるだけだ」ということにも触れている。

何光年も離れた惑星のことを考えるとよい。光ですら何年もかかる距離の隔たりがある2点間において同時ということは意味をなさず、それゆえ「今」というものは存在しなくなる。それぞれ異なる時間の軸のなかで、それぞれの「今」があるように感じられるだけだ。
はたまた、量子の不確定性に目を向けると、時間の連続性すら存在しなくなる。

僕らが知っているような時間は、この宇宙には存在しない

しかし、である。ロヴェッリはこうも書いている。

時間はすでに、1つでもなく、方向もなく、事物と切っても切り離せず、「今」もなく、連続でもないものとなったが、この世界が出来事のネットワークであるという事実に揺らぎはない。時間にさまざまな限定がある一方で、単純な事実が1つある。事物は「存在しない」。事物は「起きる」のだ。

と。

事物を「存在」という観点でみて、その存在が時間と空間のなかにあるという見方そのものが間違えているのだ。
事物は「起きる」。それは起きる事物そのものが時間的なものや空間的なもの、そのものといっしょに生成される/するという見方が必要だということになる。

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ネットワークの結び目として説明する

そう。ここで冒頭書いたようなラトゥールのアクターネットワーク理論に通じる、世界の見方が理論物理学者のロヴェッリから提示されるのだ。

モノなどの存在の外部に、「時間」など、そこから切り離された超越的な概念を置いて説明するのをやめること。目の前にある対象同士のふるまい、出来事のみから説明を行うこと。それがラトゥールとロヴェッリに共通する見方のように感じられた。この理論物理学と新しい社会学の共振。それが学問領域を超えて共通する、この21世紀的世界の見方なのだろうと思う。

さて、話を戻そう。

「物理世界が物、つまり実体で構成されているとは思えない」とロヴェッリはいう。「それではうまくいかないのだ」と。

世界を「出来事のネットワーク」でみると「うまくいく」とロヴェッリはいう。
単純な出来事でも、複雑な出来事でも、それらが互いに「織り成すネットワーク」として世界をみはじめるとうまく説明がつくと考える。

いくつか例を挙げてみると、戦争は、物ではなく一連の出来事である。嵐は、ものではなく出来事の集まりだ。(中略)家族は物ではなく、関係や出来事や感情の集まりだ。では人間はどうだろう。無論、物ではない。人間は、山上の雲と同じように、食物や情報や光や言葉などが入っては出ていく複雑な過程であり……社会的な関係のネットワークの1つの結び目、化学反応のネットワークの1つの結び目、同類の間でやりとりされる感情のネットワークの1つの結び目なのだ。

この引用にあるように、出来事のネットワークであるのは、モノだけではない。動物や人間も同様に出来事のネットワークなのだ。

出来事のネットワークであるのだから、ラトゥールの社会学的な説明と類似するのは当然だろう。
そのネットワークの読み解き方が物理学的になるか、社会学的になるかの違いであり、それはある意味、将来的に統合可能だろう。なぜなら、それはともに人間のぼやけた視覚でみたものであり、ようするに、人間の思考や脳の認知機能についての記述になるのだから。

この世界の基礎的な理論

であれば、この結び目をどう捉えるか?という話になる。

いや、結び目を1つの形に決めてしまう必要はない。
なんでも結び目になりえるからだ。
ようは異なるもの同士のあいだで同期しうる変数をみつけさえすればよい。そして、「時間」も本来そうした変数の1つなのだ。

次の満月の3日後、太陽が空のいちばん高いところにあるときに落ち合おう。明日、時計の針が4時35分を指したときに、きみに会いたい。互いに十分同期している変数がいくつか見つかったら、それらをうまく使って「いつ」について語ればよい。その際に、どれか1つの変数を選んで「時間」という特別な名前をつける必要はない。

「この世界の基礎的な理論は、このように構成されるべきなのだ」とロヴェッリは言う。

その具体的な「構成」の方法もすでに考案されている。いや、ラトゥールのANTのことではない。ロヴェッリの提唱する「ループ量子重力理論」だ。

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ループ量子重力理論には、次のような方程式があるそうだ。

この世界の力学は1本の方程式で与えられ、その式は、そこに記述されているすべての変数の間の関係を確立している。すべては同じレベルにあるのだ。そしてその式は、起こりえる出来事とそれらの関係だけを記述している。

すべてを同じレベルにあるものとして、起こりえる出来事とそれらの関係性を記述すること。それはやはりラトゥールのアクターネットワーク理論がネットワークを「テクストの客観性の程度を表すもの」と捉え、「上手く書かれるテクストによって、書き手が、一連の翻訳として定義される一連の関係を描ける場合に、アクターのネットワークが明るみに出る」としていることにつながる。

「社会的」なのは、特定のアクターでもなければ、すべてのアクターの背後にあって一部のアクターを通して移送される力でもなく、いわば、諸々の変換を移送する結びつきであり、この結びつきを指し示すために翻訳という語を用いる―― 慎重を要する語である「ネットワーク」は、次章で、研究者の報告における報告によってたどられるものと定義される。したがって、今や「翻訳」という語は、やや特殊な意味をもつことになる。つまり、翻訳とは、ある原因を移送する関係ではなく、2つの媒介子の共存を引き起こす関係である。

こう、ラトゥールが書くとき、「アクターの背後にあって一部のアクターを通して移送される力」としての「時間」もないことが意識されているかはわからないが、そういうことなのである。

本当にあるのは、事物が起きる=翻訳が起こるためのネットワーク、結び目なのだろう。


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