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日常の味わい

学びと反省。

それらによって世の中の見え方はすこしずつ変わっていく。学びが世界の見え方を鮮明にしたり、反省によって世界の見え方は書き換えられる。
僕らは世界をそうやって味わっている。
2つの味はちょっと違って、前者はいろんな味のバリエーションはあれど美味しさとして、後者はほろ苦さとして感じたりするが、どちらも自分のなかに新しい何かが吸収されたシグナルなんだろう。

専門性ではなく日常的一般性で

引き続き八木雄二さんの『神の三位一体が人権を生んだ』を読んでいるが、この本、なにげなく本屋で見つけて買ったのだけど、いろいろ学びと反省があって有意義な読書体験が得られている。

たとえば、反省というのはこんな一文を読んだからだ。

哲学は本来、専門性を超えたものでなければならない。だから専門性をもつ哲学どというものは矛盾なのである。専門性をこえたところにあるのはむしろ市民の日常的一般性である。哲学の問いはすべての市民の心に起こる問いであり、市民がそれを忘れているなら、ソクラテスがしたように誰かがあえて問いかけなければならない。

この「専門性をこえたところにある」「市民の日常的一般性」において問うこと、という姿勢に出くわして、はっとした。自分はちゃんと「専門的」になりすぎずに「日常的」に問えているのだろうか?と。

ある程度まではYESといえる点もある。
いまのように、本からインスピレーションを受けることは多々あっても、それはいまもそうであるように、自分やまわりの人の日常と関連づけて考えることが僕の場合は多い。

ただ、自分でもNOな部分もあるなと思うのは、思考のなかに日常用語だけでなく専門用語が混ざることはよくあるからだ。
その部分が反省したところである。

知ったつもり

専門用語で考えることがよくないなと思うのは、それによって「わかっているつもり」になってしまうことがあるだろうからだ。専門的なキーワードを使うだけで何かそのことをわかったつもりになって、本当はわかっていない部分があるのも見過ごしてしまっていることが多分にあるはずだ。

ここに所謂ソクラテスの「無知の知」が関わってくる。

知らないのに知っていると(間違って)思っている者に何らかの問いを投げかけることによって、ソクラテスは、その人が自分が知らないということを認めざるをえない地点にまで追いつめる。つまり知らないことを知らないと自覚させる。それは相手に、無知を暴かれた怒りを引き起こすが、同時に、自分が何を知っているかについて無自覚な者に、それを自覚させる力をもっている。知らないと言っていながら内心悪いとわかっているのとについては、悪いと知っていると言わざるをえないと告白する結果(悪を暴かれた怒りの沈黙)を引き起こす。

知らないと意識してることを知ろうとするのは比較的簡単だ。
それはある程度の日々のルーティンに加えられる。
だから、冒頭書いた学びと反省の2つでは、実は前者の学びを得るほうが自分でコントロールしやすい。コツさえ分かれば、学びはある程度計画的に得ることができる。

けれど、反省のような、知ってるつもりになっている状態から自分自身で抜け出すのはなかなかむずかしい。知らないと認識できていれば知ろうとする行動も可能だが、知らないことに気づいていなくて、それに気づこうというのだから、無知の知は言葉にするのは簡単だが、実はこうすれば無知の知が得られるという確実な手はないのではないかと思う。

知っていると本人が思っていて、学ばないといけないという自覚はないわけだから、ふとしたきっかけでの反省などからの学びとなる。しかも、機会があったとしても、自分の思っていなかったことを認めないといけない、自分が間違っていたことを受け入れなくてはいけないから、ほろ苦い味のする学びになる。痛みをともなう学びとなる。

吟味なしの正当化

けれど、それでも無知の知が大事だと思うのは、専門性ではなく日常一般性が大事だということへという話に続く、一連の話の出だしがこんな投げかけからはじまっているからだ。

近年多発するテロ事件に基づいて、過激な信仰や極端な信仰がテロを産むといわれることがある。なるほど信仰は、集団のなかで共有されるものだから、あらためて吟味される機会が少ない。ヨーロッパでも信仰の吟味が起こったのは、古代ギリシアから哲学が到来したためである。また宗教において「よいことのためには敵対者を殺してもよい」という判断が公言されるときには、たいてい来世の信仰が正当化のためにもちだされる。自爆テロの場合など、天国を夢見ることで、他者の生命どころか、自分自身の生命すら捨てることが正当化される。来世もやはり人々に共有化された「普遍」であり、吟味を受けなければ、そのまま正当化(正義)の根拠になる。

この部分を読むと、この『神の三位一体が人権を生んだ』と名付けられた本のなかで、ソクラテスの「無知の知」のような話題がなされているかもなんとなくわかってくるのではないだろうか。

疑うことなく吟味されることもない普遍への信頼=正当化は、一歩間違えると、自分たちの信仰の外にいる者を極端な形で嫌悪して、度を超えた言動を誘発する。
それはいまこの国と隣の国で生じていることも同じだろう。

「普遍はつねに疑わしく、吟味されなければならない」という哲学の立場からすれば、普遍的理性が「神」を絶対化することはできない。たとえ「神」であろうと、それをどのように考えるべきか、理性はつねに相互に吟味をつづけなければならない。神は、そういう普遍の一種なのである。世界に続発する宗教的過激思想は、この吟味をやめてしまうことから生じている。

吟味するということは、自分たちが普遍だと信じて疑わないことが、実はその普遍性を可能にしているものが自分たちがそれを信じているということ以外の何ものでもないという、隠されてある秘密についての無知をちゃんと知ろうとする行動である。

疑わしい知を疑う

そして、僕が日々考えていること、言っていること、書いていることにも、自分でも気づかないうちに信じてしまっていることがありそうだとあらためて気づいたのである。
比較的、自分がいろんな常識に惑わされることなく、ちゃんと自分で吟味するほうのタイプだと思っていたが、ソクラテスは専門性を嫌い、日常一般性のことばで考えていたということを知って、自分の思考には日常の現実から離れた抽象的専門性のことばが多く混ざっていることに気づいて、はっとしたのだ。

日常的な仕事のなかでの会話では、人が話すちゃんと現実と結びついていないことばには敏感に反応して、「それは具体的には何を意味しているの?」と問うことはできる。
また、自分でも自分の計画や他人の計画に書かれたことばをみて「それって実際の現場ではどういうことが起こることを想定しているのか、想定されていないことはないか」と考えたりはできている。
だが、それでも、やっぱり「専門性」のことばでわかったつもりになって、ちゃんと吟味しない部分はあるはずだ。

「疑わしい知」とは、知っていると思い込んでいるが、本当に知っていると言えるかどうかを「吟味していない状態の知」であり、他方「確信できる知」とは、十分な吟味がなされ、当人が「知っているとしか言えない状態の知」を言うのである。

日常的に何かを考えたり、議論したりするとき、この「疑わしい知」を見過ごしてしまってはいけないのだとあらためて思うし、他人がそういう状態に陥っていたら相手に嫌がられるかもしれないが、ちゃんと指摘し、いっしょに吟味することが大事なんだろうと思った。

「幸福に生きる」ことを問題にするために

吟味すること、誰かといっしょに吟味すること。
それが必要だと思うのは、こんなことからもだ。

ソクラテスはひとりひとりが「幸福に生きる」ことを一番に問題にした。(中略)それゆえソクラテスは「善美な精神」=「美徳」の理解に努めたのである。そしてその理解にもとづいて人々に精神の善美に配慮するように親切に求めたのである。
そして、その答えをだれもがもたなければならない。だれかに任せていてよいことではない。他人にそれを任せることは、善悪の判断を他者に任せることであり、それは結局は、その人にあらゆることで指導を仰ぐ羽目に陥るからである。

中身のない「疑わしい知」に踊らされて、自分では何も判断できずに過ごす人生に幸福は訪れないだろうと思う。

だから、僕らはちゃんと自分で日常的に善悪の判断をして、自分自身で日常をちゃんと味わい、吟ずることが大事なんだろう。

それには、少なくともちゃんと知ろうとする姿勢、自分の知っていることが疑わしければちゃんと疑って更新しようとする姿勢が必要なんだと思う。

そして、それは日常的な意味ではもっと自分で物事を見極め、物事について自分であれこれ考えてみるという姿勢をちゃんと持ち続けるということなんだろう。


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