見出し画像

こうしたらああなる思考

フランス南部のモンペリエ近郊のガラルグルモンテュ村で、気温が45.9℃に達し、フランス史上最高気温の記録を更新したという。
まだ6月である。一方、僕がGWに行ったパリでは雹が降るくらい寒かった。
5月に雹、6月に40度越えの猛暑。もはや季節とは何かわからない。

毎年異常ともいえる猛暑が続くのはヨーロッパだけでなく、ここ数年の日本も含め、世界的な現象だ。もはや異常気象というより、温暖化がデフォルトである。しかも、単にデフォルトになったというよりも、どんどん進んでいる。

人間の活動が地球環境に与える影響が僕ら自身の生命と文化の継続を危機的なものにしていることは、もはや明らかになりすぎているといえる。
その観点に立てば、SDGsの環境負荷を減らす目標も単なる数字というよりも僕たち自身に課せられた責任そのもので、何をするにもそのことを考えて行動するしかなくなったのだと感じる。

仕事の目標として

こんな状況であるのに、その明確な行動目標が、個々人が仕事をする上での判断基準になっていないケースが多いのを不思議に思う。

ティモシー・モートンは『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』の中で、こう書いているが、「責任」を無視することはもはや問題というより、自殺行為である。

現在の破局において唯一確固とした倫理的な選択肢は、私が前に見たように、エコロジカルな破局をそのまったく無意味な偶然性において認め、「私たち自身」がそれに責任あるものとして証明されるかどうかはともかくとしても、それへの責任を土台なき状態で受け入れることである。

まあ、こうした責任を認めたとしても、すべての仕事を持続可能性の観点から考えるのはむずかしいだろう。
その一方、持続可能性の観点から仕事を考えるべき点はどこか?と考え、持続可能性を高める仕事の方向性を考えることは誰にだってすこしはできるし、もはやそういう時代だろうと思う。

消費者としての個人ではむずかしいことが、仕事ならできる。

たとえば、環境負荷を減らすということに関しても日々の暮らしの場面で個人ができることとなるとなかなか少ないだろう。昨日、G20でプラスチックごみを2050年までにゼロにすることが決まったが、これを個人単位で考えようとすると、結構きびしい。

だけど、仕事となれば別ではないか。
個人でできないことも企業という単位になれば、結構いろいろできるはずだ。企業であれば社会という単位にアクセスできることが多い。

しかも、そもそも多くの問題の要因が企業活動に端を発してもいるのだから、解決の方法へ活動をシフトするのも比較的自然にできるのでないかと思う。

先のG20の決定に関しても、すべての仕事がプラスチックを扱っているわけではないにせよ、そこそこの仕事がプラスチックの扱いがあるはずで、それをどうするか?と考えることはどこかの時点で必要になる。
であれば早く解決に向けて取り掛かった方がビジネス的にもメリットになることがありそうだ。

規制は今後どんどん厳しくなる。
投資家はESG投資の観点から企業を評価するようになっている。
責任を認め行動した方がビジネスもうまく行くことに気づいていないのは日本のビジネスマンくらいかもしれない。

また、世の中、今まで行っていないイノベーションに取り組めと言われている企業が多いと思うが、だったら、持続可能性について真剣に取り組んでみるのがいいのではないかと思う。
そういうことが誰もちゃんとやれていなから、こういう状況になっているわけである。なので、その誰もやっていないことに取り組事自体イノベーションであり、かつ世界的に解決のための方策が問われる持続可能性の問題に対するソリューションとして需要も見込めるわけで、ビジネス的にも成功につなげられるのではないかと思うから。

こうなったらああなるを思考に組み込む

とはいえ、ここで書きたかったのは必ずしも持続可能性という観点で自分の活動の影響を求められるということ自体でははない。

本当に書きたかったのは、そういう社会環境になったからこそ、「こうしたらああなる」ということをシミュレーション力を入れ駆使して行動することがものすごく大事なスキルになったということのほうだ。

問題を解決するにも、何か新しい価値を生み出すためにも、あるいは何がしかの計画をうまく進行させるためにも、とにかく何をしたら何が起こるかという想像を駆使して物事を推し進めることが欠かせない。
想像する思考力とシミュレーションを重ねて選んだプランを実行することとその結果生じたことに責任を持とうとする行動力が必要だ。

「何のために?」という問いがない仕事ほど無意味なものはない。
そして、持続可能性が問われるようになった以上、無意味なものは悪ですらある。やる意味のない仕事で資源を無駄にすること、作る意味のない商品を作り売れ残りをただ廃棄すること。
こうしたらああなるはずだということをちゃんと考えないから、意図せず無駄が生まれる。
そういう観点で、考えずに仕事をする人はもはや悪人と判断させる時が近づいている。

モートンは、あの有名な曲「ウィー・アー・ザ・ワールド」をもじってこう言っている。

残念ながら、私たちは世界である」と。

私たちが悪に染まれば世界そのもの、地球そのものが悪化する。
そして、逆もそうで世界の悪化、地球の悪化はそのまま僕ら自身の悪化に直結している。

世界である自分として考える

だが、それは決定論的な話ではないだろう。
地球も世界も僕ら自身も悪化に向かっているのは確かだとしても、それは流れがそう向いてしまったといだけで、決定論的にそう決まってたわけではない。

むしろ、人新世という言葉が取り沙汰されるように、人間がその流れを作った。意識的に作ったのではなくても、考えずに行動したからできた。意図しなかったから責任がないなんて話はあり得ないのだから、責任は取る必要がある。

でも、一度動き始めた流れをなしにはできない。
だから、責任をとるとしたら、流れを変える方向に努力することだ。
責任がない人は努力をしない、何より努力のために何が必要かを考えず、もっと悪いのは何が努力を妨げる行為になるかを考えずに日々を過ごすことを続けることだろう。こうしたらああなるという思考をしようとしない。

なんて牧歌的な生き方だろうか?
しかし、世界そのものはそんな牧歌的な環境ではもはやなく普通に外を歩くだけで生命が危機に晒されるような灼熱の地獄と化している。

世界が穢れたのではない。
私たちが世界なのだから、僕ら丸ごと穢れている。

私たちは粘着性の汚物の中にいるというだけでなく、私たち自身が汚物なのだが、私たちはそこにひっつくやり方を見出すべきであり、思考をより汚いものにし、醜いものと一体化し、存在論ではなくてむしろ憑在論を実践すべきである。

このモートンが示すダークエコロジーの姿勢は、その他の「持続可能性」の問題にも直結してる。
さらに言えば、そもそも自分自身、環境と一体化したものとして思考し行動するということは、あらゆる仕事をうまく活かせるため、生活を幸福なものにするために必要な姿勢だと思う。
汚物と一体だろうと、もうすこしまともなものと一体だろうと、それは自分たち自身の姿勢と思考、行動そのものによる結果なのだから。

ダークエコロジーは、対象を理念的な形式へと消化するのを拒絶する、倒錯的で憂鬱な倫理である。

対象と自分のあいだに距離を置いて考えるのではない。
客観的にではなく、自分自身がそれに巻き込まれたものとして考える必要がある。
どう足掻こうとも「世界は残念ながら私たちである」ことを認識した上で、じゃあ、自分たちが「こうしたらああなる」ということをシミュレーションする思考、その結果を踏まえてしっかり行動する姿勢が問われているのだ。

プロとして、こうしたらああなるといヴィジョンを持つこと

環境であろうと資源であろうと人間同士、国や地域同士であろうと、人それぞれの活動は互いに影響を与えあうことがここまでシリアスなレベルで明らかになった時代は今までないだろう。

問題が可視化されやすくなったし、そもそも問題が世界規模でリンクしあうような相互依存性の高いネットワーク型の世界になったのだとも言える。
ここまで影響関係が見える化されてきて、その画素は今後ますます高精度になるのは必然、もはやそれぞれが自分の活動に明確な目的とその影響範囲に対する責任をもって行動する以外の選択肢はなくなるだろう。

それぞれが自分の活動に責任をもって行動しない限り、人間が生きる環境の厳しさは増していく。AIに仕事を奪われるなんて話以上に、自然環境や社会環境、労働環境のマイナスを与えることを少なくすることに努力しないものは、企業であろうと個人であろうと仕事を失うだろう。

その中で、こうすればああなるという思考を、悪影響を減らす観点でも、良いものを増やすという観点でも、常に展開する思考のくせができていないと結構これからは厳しいと思うのだ。

先に、仕事をする際に、「何のためになるのか」を問うているか?と書いた。無論、誰かに言われた仕事をしない言い訳として「何のため?」と問うのではない。そうではなく自分がしようとしている仕事が「何のためになる」のかをちゃんとイメージするための問いだ。

大袈裟に言うなら、ヴィジョンは持てているか?ということになる。
その結果が起こることは誰のどんな幸せにつながるのか?
本当に仕事が完遂できたら、その結果は生じるのか?
その仕事で失ってしまうものはあるか? その喪失は生み出そうとしているものの対価として妥当性があるのか?
失うことを回避する方策はあるか?
一時的に失ったものを再生する方法は考えられているのか?
こうしたことを考えた上で、それでも、その仕事はやるべきか、いや、そう考えると、この仕事はもっとこんな広がりをもった良い仕事になるのではないか。
そういう思考がプロフェッショナルとしてちゃんとできているのか?

何のために仕事をするのか?
プロフェッショナルとしてあるための資格のひとつが、こうした問いの姿勢を常に持ち、プロフェッショナルとしての責任ある想像力と実行力で、持続可能性を損なうことなく幸福な社会を作れるか?ということになるだろう。

そして、そうした責任に基づく行動ができない企業も個人も淘汰されていく世の中になりつつある。日本はだいぶ遅れているにしても。
いや、遅れを取り戻さないと国として国際社会から淘汰されるので、遅れを取り戻すためにどこかで急激なシフトが起こるであろうことを考えたら、あとで外部から矯正されるより、先に自分たちで姿勢を正しておいた方がいいだろう。


基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。