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死について考える【94日目】

死ぬ前は自由な状態で死にたいだろう。奴隷の状態で死にたいとは思わない。

過去、昔、古代では、奴隷制度なんかがあり、自由が制限されていた人たちがいた。人身売買だって頻繁に行われていただろう。エジプトのピラミッドを建てていた時代なんかがよくそういった表現がなされる。ピラミッドを作っていた人たちは国家に支配されていた人たちだろうか、それとも志願者だろうか。そうでなくとも、王宮には奴隷がいたはずだ。ヨーロッパの人たちがアメリカへ渡った時などもそうであろう。

歴史には詳しくない、むしろ、苦手教科なので、間違っていたら申し訳ないが、詳しくない人からすると、映画などでそういう表現しか知らないのが事実。

古代では、明示的に奴隷というのがわかったはずだ。檻に入れられ、働く時だけ出される。

それが現代ではどうだろう。ある意味奴隷なのか変わらない気がするのだが。いくら民主主義を貫こうとも、国に楯突こうならば、抑え込まれるのが落ちである。

税で縛られているのだろう。もちろん、税で有益なことも多くある。私は公園をよく利用するので、それは大変助かっていることだ。であれば、公園の維持とそれまでの道路の維持にだけ寄付したいものだ。それができないのが”社会人”なのだろうが。学生はできるのかと言われると、できないが、そういう思想を掲げて活動することはできるだろう。社会人はできないのかと言われると、できなくはないが、おそらくそれをやらないのが”社会人”なのだろう。滑稽極まりない。

その結果というべきか、社会という檻に囚われているのだ、我々は。それは奴隷そのものだろう。自分が何のためにいるのか、自分が何のために働いているのか。そういう意識もなく、ただただ歯車として動くだけ。ロボットなのだ。奴隷というのはロボットなのだろう。代役はいくらでもいる。感情はあっても、それはプログラムによって制御され、表に出てくることはない。ヘビメタはそれを解放する素晴らしい曲だったりするわけだが。

社会だけでなく、会社に囚われる人もいる。ブラック企業がいい例だ。会社のために命を尽くすのだ。会社のために、血を犠牲にするのだ。会社のために、身を酷使するのだ。

もっと狭めていくと、家族だってあり得る。家族に尽くさなければならない人も多いだろう。家族の奴隷といっても過言ではないのだ。いくら家事をやっても感謝されないその姿はまさにそうなのだ。

学校もそうだったりする。それは家庭との連携技で生まれる地獄だ。そうしてその地獄から逃れようと、人々は自殺をする。学びとは何なのかを改めて考えてほしい。

死ぬ時に、自由であるかどうか。おそらく、自由になれることはないのかもしれない。その制限の状態を、自由でない状態をどれだけ抑えることができるかが肝なのだ。

地球上には完全自由で暮らしている人も多く存在する。それはある意味うらやましい限りだ。そうした状態を望むのもまた人生なのだろう。

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