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将門を祀る?海禅寺(青梅市)

 JR青梅線を奥多摩方面へ行こうとするとき、青梅駅より先へは都心から直通では行けない。必ず青梅駅で乗り換えなくてはならない。(青梅線は立川駅~奥多摩駅だが、中央線から青梅駅行きが乗り入れている)乗り換えがスムースに行くときもあれば、待たされる時もある。

 二俣尾という駅で降りた。線路の北は山が迫り、南に青梅街道が平行して通る。その先、谷の底を多摩川が流れている。
 因みに川を橋で渡った吉野街道に吉川英治記念館がある。

二俣尾駅
トラックの向かう方向へ私も歩いた
左手(北側)は山が迫っている

 駅の北側に出て、線路沿いの道を行く。線路わきのフェンスに案内表示があった。

向かうのは海禅寺
辛垣城は三田氏の城

 辛垣城については後述することにして、海禅寺に向かう。じつは寺は線路のすぐわきにあるため、電車内からも見えた。

海禅寺山門

 瑞龍山海禅寺は曹洞宗の寺院。本尊は釈迦如来。寛正年間[1460~65]に僧益芝永謙が結んだ長勝庵が始まりとされる。

 その後、永謙の師で雙林寺二世一州正伊[?~1487]が、この場所に長勝山福禅寺を開山した。一州正伊が開山一世となり、永謙は二世となった。(雙林寺は群馬県渋川市にある。)

 五世太古禅梁の時、三田弾正少弼綱秀の援助により寺を再興して、その頃から三田氏の菩提寺になったという。

 平将門が庵室をここに建てたのが始まりというのは、まぁ、伝説の類かなと思う。おそらく三田氏の菩提寺になって以降にできた話だろう。

山門

 天正三年[1535]七世天江東岳の時、正親町天皇より勅願所の綸旨を賜う。天正十三年[1545]には、東岳に関州徳光禅師の称号を賜った。これら二通の綸旨と勅書は青梅市の有形文化財になっている。

本堂の内部
お釈迦様の誕生日
花まつり
甘茶をかけます

 三田氏は永禄四年[1561]または六年に北条氏照の軍勢に攻められた。三田綱秀は辛垣城で北条勢と戦ったが、家臣の裏切りにあい、城を落ち延びる途中で土民に襲われて死んだ。 

 その時の兵火を受けて、寺の諸堂は全焼してしまった。

 境内に三田一族の墓、というか供養塔がある。

三田一族の墓と伝えられる宝篋印塔
都指定旧跡
三田氏の墓の向こうに見える屋根が本堂

 また、本堂の横手から急な斜面を登っていくと、裏山に墓地があり、そこに三田綱秀の首塚がある。

三田綱秀の首塚
五輪塔の傍の祠の扉に九曜紋がある
平将門の家紋でもある

 この首塚の五輪塔は海禅寺五世太古禅梁が永禄年間に建てたと伝わっているが、形式的には江戸時代初期のものではないかともいう。

枝垂桜はまだ三分咲きといったところ

 ところで、関州徳光禅師は府中市の髙安寺を慶長年間[1596~1615]に再興している。
 髙安寺は元々、藤原秀郷の邸宅があったところが寺院になった。境内には秀郷の名が付いた秀郷稲荷が祀られている。
 将門の子孫の菩提寺と将門を討ち滅ぼした秀郷にゆかりのある寺の、数奇な出会い…と言ったら、少々大げさか。

 府中の髙安寺について、詳しくはこちら。↓

 天正十八年[1590]に兵火に焼かれた諸堂が再建された。
 天正十九[1591]徳川家康が寺領十五石の朱印状を寄せたが、このときどういう訳か朱印状の寺名が誤っていたため、寺の名前を瑞龍山海善寺に変えたのだという。

鐘撞堂(江戸後期)
梵鐘は太平洋戦争で供出され、これは戦後の物

 寛永四年[1627]三田氏の家臣だった野口刑部丞秀房が三田氏累代の位牌を納めた。位牌の表に将門平親王朝臣三田代々尊靈とあり、青梅市の有形文化財に指定されていたが、惜しいことに昭和五十九年[1984]の火災で焼失してしまった。

 帰りは別の道を通ろうと、線路を渡って青梅街道に出たら、道の傍らに海善寺の総門があった。元々は道の真ん中にあったのだが、解体修理された後に移動したという。

総門
元は奥に見える市道上にあった

 江戸初期の慶長十七年[1612]に山門と共に造立されたという。
門の前にある石は桃の里の歌碑。

 電車を待つ二俣尾の駅のホームから、三田氏の辛垣城のあるあたりを見上げた。
 海禅寺は将門に直接関係があるわけではないが、先祖と崇敬した三田一族最後の場所ということで訪れてみた。
 花の木がたくさん植えられているので、今頃はもっと美しいに違いない。

駅のホームから
辛垣城は雷電山の中腹辺りにあったらしい
あの辺かなぁ


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