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六歌仙のなぞ(11)

◆大友黒主と園城寺◆

【紀氏と園城寺】
 石清水八幡宮創建にかかわった紀氏がもう一人いる。行教の兄弟の益信である。益信は真言宗の僧侶で、真雅の弟子である。益信は石清水八幡宮検校になつている。益信は東寺長者、法務僧正など、高い位まで上がったが、園城寺建立師、園城寺僧正も歴任した。
 園城寺は、天智、弘文(大友皇子)、天武三帝の勅願により建立されたといわれ、天智、天武、持統三帝の産湯に用いられたという井戸があり、「御井」と呼ばれたところから、「御井の寺(三井寺)」とも称されたという。が、実際は大友村主氏の氏寺である。
 現在、園城寺は天台宗寺門派の総本山になっている。園城寺と天台宗の関係は、円珍が唐から持ち帰った経典などを収蔵する場所を探していたところ、滋賀郡郡司大友黒主が園城寺内に場所を提供し、貞観元年[859]に唐坊(唐院)が建立されたのに始まるという。円珍は更に門弟らと新羅神祠(園城寺地主神社)を創建し、貞観四年に園城寺別当に補任され、園城寺の修造をしている。
 益信の園城寺建立師の建立とは、この時の修造再建を指すのである。つまり、再建には真言宗、天台宗の両方がかかわっていたことになる。
 円珍は、貞観元年、和気巨範、行教が宇佐大神宮寺(八幡宮)に清和天皇即位の報告に行ったときに、比叡神宮寺の僧侶を一緒に遣わしている。その時奉納した大曼荼羅は、惟仁親王(清和)の御願により、円珍が唐に留学した折に、長安の画工に描かせたものである。惟仁親王の御願といっても、円珍が唐に渡った時はまだ幼児だったから、実際は藤原良房、良相兄弟の依頼である。皇太子の息災と安泰の祈願がその目的だった。

 宇佐八幡の分霊を石清水に勧請することが決まった同じ年に、園城寺地主明神神職大友黒主は真言宗の僧(紀益信)と接触し、延暦寺とも連携して園城寺の再建に着手したのである。円珍はその後清和天皇の護持僧になり、天皇に勧請を授けている。もちろん、良房や良相の信任も厚い。その恩恵は、黒主にも多少はあったのではないだろうか。
 なお、円珍が遍照に宛てたと思われる手紙(年月日不明)に、大友黒主の名が見える。天台宗と接触した黒主は、当然比叡山に上った遍照とも知り合いだったのである。

【山門派と寺門派】
 山門派と寺門派は天台宗の二大派閥である。簡単にいうと、山門派は延暦寺を拠点とした、円仁の門弟から発する派閥。対する寺門派は園城寺を拠点とする、円珍の門弟から発する派閥である。
 天台座主は円珍以降も両門からそれぞれ選ばれたが、実態は円珍門下の座主はみな短命に終わっている。というのも、実力による座主のボイコットが行われたためで、ついに正暦四年[993]、円珍門下は園城寺に一斉に逃れた。延暦寺は円仁門下が座主を独占するようになったのである。
 平安末期になると、武装した法師武者(僧兵)が徒党を組んで自らの主張を力でうったえるという物騒な時代になったが、延暦寺と園城寺のあいだでも、武力(暴力)による争いが絶えなかった。源平時代から、鎌倉、南北朝、室町時代に至るまで、園城寺は幾度となく焼かれ、また延暦寺も攻め込まれたのである。

 こうした抗争の原点になった円仁と円珍の仲は、どういうものだったのだろうか。
 円仁[794~864]は円珍[814~891]よりも先輩で、最澄の直弟子だった。下野の出身で、その性格は柔和で温厚。承和の遣唐請益僧に選ばれて入唐し、最澄の跡を継いで天台密教を発展させ、第三代天台座主になっている。
 一方円珍は讃岐の出身で、母親は空海の姪である。性格は万事に厳しく、筆舌ともに辛辣で雄弁だった。円珍は兄弟子の円仁について学んだこともあり、円仁を尊敬していたという。自ら入唐を切望し、藤原良房や良相の援助を受けて、唐に渡り修行した。そして前述のとおり園城寺再興に力を尽くし、第五代天台座主になった。
 円仁が延暦寺の座主になったのは、仁寿四年[854]である。その時、円珍はすでに唐に渡っていたが、この時円仁の座主就任についての気持ちを『感夢記』の中に表している。それは円珍の見た夢を書いたものである。



 蘇州にいたとき、円珍は夢の中で藤原良房に会った。良房は円珍に、円仁を座主にしたことをどう思っているかと尋ねた。すると円珍は、円仁阿闍梨は戒行清潔、智徳も高く、座主として申し分ない。しかし、おそらく寺衆を統率する際に、油断ができないだろう、と言った。


 佐伯有清は「夢の中の話ではあるが、円珍が円仁の座主就任に賛意を表したことが、はっきりわかる」と書いているが、(『人物叢書・円仁』吉川弘文館)このことをわざわざ夢の話と断って書き残しているのは、逆に円仁が天台座主となることに、不安を抱いていたという証拠とならないか。円珍は円仁を宗教家として高く評価していたが、座主として天台宗をまとめられるか、その統率力に疑問を持っていたのではないか。現に、円珍が『感夢記』に、円仁では寺衆の統摂に油断ができないと書いているのは、延暦寺の内部にもいろいろと意見の分かれることがあったことをうかがわせる。

 また、こうした延暦寺内の亀裂が、円珍が園城寺を延暦寺別院としたために、一気に広がる原因になったとも考えられる。円仁、円珍の時代には、まだ山門派、寺門派といった派閥ははっきりしておらず、したがって争いはなかったとみる向きもある。また、円珍は貞観八年には冷然院に住んでいたというし、貞観十年に天台座主就任、同十二年に比叡山にこもるとあるから、どちらかといえば園城寺にいた期間は短い。しかし、現在円珍の残した遺品や書簡はほとんど園城寺にあるので、円珍とその門弟たちが園城寺に残した影響は大きいと考えられる。寺門派結成の要因は、やはり円珍にあったといってよい。
 円珍本人の、円仁に対する思慕は本物だろう。それは円珍の残した書物によく表れている。だが、円珍が園城寺にもう一つの天台宗の拠点を作ったことで、円珍が憂えた延暦寺内の寺衆のチームワークの乱れが加速してしまったのではないか。結果的に、円珍は延暦寺とは別の派閥を、園城寺に作ってしまったわけで、円珍こそ火元といっても言い過ぎではないだろう。(本人が自覚していたかは別にして)

【園城寺と秦氏】
 園城寺の本尊は、用明天皇の時代に渡来したという弥勒菩薩である。前述したとおり、弥勒菩薩は太子信仰と関係が深い。弥勒菩薩=聖徳太子という観念があったのである。
 最澄は仏教交流に多大な貢献をした聖徳太子を尊敬し、信仰していたという。それ故に、円珍も弥勒仏を信仰し、弥勒仏を本尊とする園城寺を天台の正統とし、寺門派を名乗ったのである。

 園城寺は朝鮮半島から渡来した大友村主氏が、七世紀ごろ建てた寺だった。同じ渡来系の秦氏と大友氏は、園城寺でも弥勒信仰を通して結ばれていた。園城寺の鎮守の白山明神の神主は、秦河勝の後裔であるという。秦河勝は聖徳太子に仕えた人で、太秦の広隆寺(蜂岡寺。本尊弥勒菩薩半跏思惟像)を建立した。同じく聖徳太子に仕えた小野妹子が、比叡山の麓に住んでいたことを考え合わせると、興味深い。
 白山明神と同じく寺の鎮守の新羅明神は、大友氏の氏神である。最澄が唐に渡る前に豊前の香春岳に登って祈願しているが、その神は新羅の神であった。

 円珍は因支首いなきのおびとの出身である。貞観八年[866]に、因支首は和気公わけのきみに改姓した。当時姓は天皇から賜るもので、姓が上がることは家格が上がることであった。貞観八年に改姓を賜ったのは、円珍の功績によるものだろう。
 和気氏は秦氏と関係が深く、八幡宮にも縁が深かった。弓削道鏡の宇佐神宮託宣事件の時、称徳天皇の命令で宇佐に派遣されたのは和気清麻呂だった。また、清和天皇即位報告を行教と共に宇佐八幡宮で行ったのは、和気巨範だった。
 その和気氏の一員になった円珍は、思えば生まれたときから秦氏と縁があったのだ。円珍の母親は空海の姪である。空海は和気清麻呂が再興した高雄山寺(神護寺)を真言宗の拠点にしていたが、この高雄山寺はもともと秦氏の寺であったらしい。高雄山寺を創建したのは、役小角と雲遍上人といわれている。雲遍上人とは泰澄のことで、加賀の白山を開山した山岳修行者だが、泰澄は秦氏らしいのである。(大和岩雄『日本にあった朝鮮王国』白水社)
 つまり、高雄山寺は秦氏と和気氏に縁の寺なのである。空海は和気清麻呂の息子真綱らと、高雄山寺を神護寺として再興した。(高雄山寺と神願寺を合併させたという)神願寺は清麻呂が宇佐八幡の託宣を受けて建立したのだった。

 そして、その神護寺で貞観二年まで別当を勤めたのは紀真済だった。喜撰法師である。
 考えてみると、六歌仙のなぞを追跡していくと、必ずぶつかるのが秦氏だった。この秦氏の役割については、後でもう少し詳しく追ってみようと思う。

◆近江・松尾神社のこと◆

 『続群書類従』の「伴氏系図」に、近江国甲賀郡平松村(滋賀県湖南市平松)の松尾神社創建のことが出てくる。意訳すると、次のような話である。


藤原頼平 正五位下兵庫助 於伊豆国卒
 伴大納言(伴善男)は近江国甲賀郡に住んでいた。
 文徳天皇の御宇のこと、兵庫尉藤原頼平は山城国の松尾明神を信仰し、毎年かの社に参拝していた。頼平は心中に願い事があったが、その願いが聞き届けられたのか、大明神は十一人の小児に化身して、頼平をつれて近江国甲賀郡松一村の頼平の家に影向してくださった。また、その夜不思議な夢も見た。
 これは天下の大吉事であると、頼平は御門に奏聞した。そこで、松一村に松尾明神の勧請の勅宣を被って、太政大臣良房、民部善男が下向した。
 仁寿三年[853]八月十八日、作事始め。同十一月十八日勧請。頼平は神職になり、正五位下に叙された。また、神社のある所を平松村と変えた。
 頼平の妹は善男の妻になって、若松丸という子をもうけた。若松丸は元服して善平と号した。
 伴大納言が流罪にされるとき、頼平は善平に類が及ぶのを恐れて、父頼武に預け、自分は大納言のお供をして伊豆に下向した。善平は頼武に養育された。頼平は伊豆で逝去した。


まず、伴善男が近江国j甲賀郡に住んでいたというのはよくわからないが、ここに伴氏の領地があったという事だろうか。藤原頼平が「応天門事件」で流罪になった善男の共をして、伊豆に下向したところを見ると、頼平は善男に仕えていたことになる。
 この平松村の松尾神社の創建由来を、そのまま信用するわけにはいかないが、松尾明神は秦氏の信仰した神で、しかも山王神社(日吉大社)と同一であるという。『古事記』によると、大歳の神の裔に大山咋神があり、またの名を山末之大主神といって、この神は近淡海国の日枝の山に坐すといい、また、葛野の松尾に坐す鳴鏑神という神であるという。日枝は「ヒエ」と読み、日吉も元々は「ヒエ」と読んだ。比叡もそこから来ている。
 松尾神社のある湖南市は甲賀郡の中でも琵琶湖に近く、大友黒主のテリトリーにも近い。そして、この付近も渡来人の子孫が多く住んだ地域だった。惟喬親王が隠れ住んだという小椋郷も、近いのである。

 頼平は藤原を氏としたが、善男の息子若松丸(善平)が継いで、伴氏(苗字は平松)を名乗ったという。系図を見ると、頼平の父頼武は大伴家持の兄弟になっており、これは到底信じられないが、伴善男との関係を強調するためだろう。頼平の子孫が伴氏を名乗るのはわかるとしても、なぜ頼武、頼平が藤原でなければならないのか。
 そういえば、小椋谷に惟喬親王の共をした公家に、藤原実秀がいた。もちろん、実在の人物ではないだろう。実秀は「小椋」の姓を名乗り、木地屋の棟梁になった。木地屋の祖は、実はこの小椋実秀なのであった。
 どうやら「藤原」は、漂泊する職人や山人、芸能者が好んで使う姓のようである。近江松尾神社の藤原頼平も、同じなのではないか。
 私は頼平は伴氏ではなく、大友氏ではないかと思う。というのも、大友氏は大伴氏と名前が似通っていて、よく混同されること。例えば、大友黒主も大伴黒主と表記されることがある。大友村主氏は滋賀郡から甲賀郡にかけて住んでいたことなどが、その理由である。

 大友村主氏が甲賀郡に住んでいたことは、『日本書紀』推古天皇十年[638]に、百済の僧観勒が遁甲方術の書を献上し、勅命により、甲賀の住人大友村主高聡が伝習したという記事によりわかる。この甲賀郡の大友村主氏と大友黒主は当然関係があるし、藤原(伴)頼平もこの一族の可能性はある。

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