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六歌仙のなぞ(13)

【相応和尚、松尾明神を呪縛する】
 『天台南山無動寺建立和尚伝』に、相応が松尾明神を呪縛したという話がある。
 松尾明神とは、前述したように日吉神社の祭神大山咋神と同一神である。いわば比叡山の守護神なのである。その神を天皇の命令とはいえ、なぜ呪縛しなければならなかったのだろうか。
 そこで、思い出してほしいのが、近江の松尾神社である。その神主藤原頼平は伴善男に仕えていたらしく、「応天門の変」で善男が流罪になったとき、伊豆に供をしたのだった。
 もし、相応が呪縛した松尾明神が、この松尾神社のことを指すとしたら、非常に興味深い。なぜなら、相応が「応天門の変」事件の裏で、動いていたかもしれないからだ。
 事件の内容は実に不可解だ。

 貞観三年、相応は清和天皇の勅名を受けて内裏に上がり、阿比舎の法を行ったという。阿比舎の法(阿尾奢の法)というのは、憑坐に鬼神などを降ろして託宣などをさせる、一種の外法である。
 その結果、二人の童子が呪縛された。和尚が尋ねると、松尾明神と答えた。さらに堀河左大臣が質問して、天皇の疑問は解けたという。
 その後、典侍藤子(藤と子の間、欠字?)が何か問いかけたが、明神は答えなかった。
 おかしなことに、この後に「若是狐狸歟」とある。どうもこの手の文章には主語が抜けていて、明神が実は狐狸だったのか、典侍に狐狸が憑いていたのか分からないのだが、ともかく、典侍は急に病にかかり、何と四日後に死んでしまったという。
 相応和尚は褒美として衣を賜ったが、和尚はこれを辞退した。これで事件は全てである。

 この内容だけでは、分からないことがあまりにも多いと思われないだろうか。
 まず、なぜ天皇が修行中の相応をわざわざ読んで、阿比舎の法を行わせたのだろうか。おそらく、内裏で不吉と思われる事件があったに違いない。しかし、肝心の明神に何を訊いたのか、その中身が書かれていない。何か、文章に残せない事情でもあったのだろうか。
 質問者は堀河左大臣。つまり源信で、言わずと知れた応天門事件の被告である。その源信が天皇に代わって質問しているのは、すなわち、相応を比叡山から呼んだのは天皇ではなく、源信だったということだ。というのも、清和天皇はこの時まだ、十一歳の少年に過ぎなかったからだ。
 そして、典侍は松尾神に何を訊いたのか。なぜ、急に病に倒れたのか。
 当時の人間ならば、典侍がなにか神の怒りに触れるようなことをして、祟りのあったと思う所だろう。しかし、現代の私たちはそういう解釈では済まされない。
 典侍はおそらく毒でも盛られたのではないか。今回の事件で、何か秘密を握っていたか、なにがしかの事情を知っていたのではないか。捕らえられた松尾神にそのことを訊けば、内裏で起きた不吉な出来事の謎が解けるのではないか。典侍は事件の核心に近づきすぎて、口を封じられたのかもしれない。
 だとすれば、呪縛された松尾明神も、神霊の類ではなく、歴とした人間ではなかったか。

 そして話は最初に戻る。伴善男に仕えていた近江国松尾神社の藤原頼平である。この事件は「応天門の変」の五年前の出来事とされている。「応天門の変」の以前から、嵯峨源氏と藤原北家(伴善男もこの一味)との間に、軋轢があったことは前述した。染殿后の悩乱もこの頃だし、文徳天皇の崩御後、藤原良房が怨霊に悩まされていた事実もある。
 怨霊は当時当たり前のように信じられていた。それだけに、逆に怨霊を利用しての暗殺や、情報操作が行われていたのではないかとも想像できる。
 そして、こうした闇の政治権力闘争に、宗教界が関わっていたと考えるのも、不自然ではあるまい。

【大友忍者説】
 近江国甲賀郡の松尾神社の神主藤原頼平は、黒主と同じ大友氏ではないかと書いた。甲賀郡には推古天皇の時代に、すでに大友氏が住んでいたと『日本書紀』に書かれているからである。
 「(推古天皇十年)冬十月に、百済の僧観勒が来朝した。そして、暦の本と天文地理の書、それと遁甲方術の書を献上した。この時に、書生三四人を選んで、観勒について学ばせた。陽胡史の祖玉陳、暦法を習う。大友村主高聡、天文遁甲を学ぶ。山城臣日立、方術を学ぶ」
 だいぶ時代は下るが、中世、特に戦国時代から、甲賀は忍者の里として知られるようになった。忍者の起源はいろいろな説がある。忍者という「職業」が確立したのは中世以降とみられるが、それよりもずっと以前の古代から、権力者たちの影で密偵や暗殺や破壊工作、情報工作をする者がいたのは確かだから、その人々を「忍者」と言い換えても構わないだろう。
 古くは聖徳太子が使った大伴細人という志能便である。この大伴細人は特定の人の名前ではなく、志能便(忍び)の集団を指すらしい。あるいは、推古朝に天文遁甲を学んだ、大友村主高聡の一族のことかもしれない。大友と大伴がよく混同されることは、前にも書いた。
 遁甲は中国の道教のひとつで、奇門遁甲ともいって、占星術を基本とした方位学であり、兵法である。日本においては、姿を隠す忍術と遁甲という。つまり、忍術は中国の兵法を基本にしていたのである。

 大友黒主や頼平が、この遁甲を習得していた可能性はないだろうか。少なくとも黒主は、高聡と同じ大友村主氏なので、遁甲を伝習していた可能性はある。そして頼平も、子孫が伴氏を称していたところをみると、実は大友氏で、遁甲も学んでいたのではないだろうか。実は甲賀忍者の五十三家のひとつに伴氏があって、これが大友高聡の子孫ではないかという説があるのだ。(『決定版「忍者」のすべて』歴史読本 歴史ロマンシリーズ・新人物往来社)
 中国の兵法遁甲術を身に着けた大友高聡も、忍者の祖といわれている。
 すると、「応天門の変」における伴善男と頼平の関係が、なんとなく想像できるではないか。頼平は善男の忍びではなかったか。頼平は善男の影になって、政治の裏舞台で暗躍したのではないか。

 さて、これから先は推論というより、私の想像・・・いや、空想である。証明できる資料はない。しかし、こうして仮説を示しておけばまた別の新事実を引き出すきっかけぐらいにはなるかもしれない。
 善男が逮捕され、頼平一族も主人を解放するために、いろいろと行動したことだろう。善男の後ろ盾だった藤原良相との連絡も行ったのではないか。また、頼平が大友氏なら、同じ氏族の大友黒主とも連絡を取り合ったかもしれない。黒主は歌会などで、公家の知り合いも多かった。それに、黒主はちょうど円珍と園城寺の再建中であった。円珍は良房、良相の両者に帰依され、次期天台座主にと期待されていた。円珍のとりなしがあれば、善男を救い出せるかもしれない。
 ところが、そこに思わぬ邪魔が入った。円仁の弟子の相応である。相応は厳しい修行を積んだ荒法師である。彼と彼の弟子たちが、頼平たちの行動を阻んだ。相応はおそらく良房の命を受けていた。相応はその見返りとして、最澄と師の円仁に大師号を賜うように言上し、受け入れられた。
 結局、頼平は善男を救うことはできなかった。それが相応が松尾明神を呪縛した話として、伝わったのではないだろうか。
 (この説の弱点は、相応が松尾神を呪縛したのが、応天門の放火より前という事だが、応天門の変後の関係者の怪死や怨霊の噂を考えるとき、こうした呪術に見せかけた闇の争いが、事件の前からずっと後まで、継続していたといえないだろうか。)

◆宗教戦争終結後の怪事件◆


善男の家系は、藤原氏によって何度となく辛酸をなめてきた。曾祖父古麻呂は、「橘奈良麿の変」に連座して拷問の末に死亡。祖父継人と父国道、継人の叔父の家持は、藤原種継の暗殺容疑をかけられ、継人、国道親子は流罪になった。こうした一族の不遇が、善男の出世欲の原動力となったのだろう。また、この時代は、藤原氏以外の氏族が実力次第で出世できる、最後の時期でもあった。
 善男は知略にたけた能吏でもあった。応天門の火災の原因は果たして何だったのか、今でも謎のままだが、善男はこれを千載一遇のチャンスとみて、利用したのだろう。
 しかし、善男の計画に狂いが生じた。味方についてくれると思った良房が、善男を見捨てたのである。善男にとって最後の頼みの綱は右大臣良相であった。良相は兄のところへ行き、善男の無実を訴えた。良房も善男が犯人とは思っていなかったろう。しかし、近頃の良相と善男の癒着を見抜いていた良房は、結局善男に有罪の判決を下した。
 良房は良相に対しても、以後の行動は慎むように釘を刺した。良相は冷酷な兄の仕打ちに戦慄を覚えた。良房ならば、血のつながった実の弟も容赦なく切り捨てる。良相は以降、幾度も辞表を提出して、恭順の意思を表した。そして、事件の翌年の貞観九年[867]十月、失意のうちに薨去した。
 一方、良房は甥の基経を養子に迎え、権力を行使して中納言に昇進させ、基経の実妹の高子を清和天皇の女御として入内させた。また、左大臣源信ら嵯峨源氏に対しても、善男を有罪にすることで恩を売り、権勢を抑え込むことができた。
 良房にとって、もはや敵はいなくなったも同然であった。

【怨霊跋扈する】
 「応天門の変」の翌日、大伴(伴)氏の氏神を祀る伴林氏神社(大阪府藤井寺市)に、官社の社格が与えられた。(NHK歴史誕生取材班『歴史誕生12』「応天門炎上す」角川書店)この時、善男は伊豆に配流されてはいたが、まだ生きていた。善男の怨念を恐れてのことだとしたら、生霊に対しての鎮魂であろうか。それとも、大伴家持や善男の先祖ら大伴氏の怨霊が、この事件によって騒ぎ出すのを恐れての牽制か。
 翌年、貞観十年[868]、善男は配所の伊豆で没した。その同じ年の閏十二月、事件の被告だった左大臣源信が薨去。応天門の変後、しばらく館に閉じこもっていた信だが、憂さ晴らしに摂津に狩りに出かけ、その最中に馬もろとも沼にはまり込んでしまう。自力で抜け出せず、救助されるものの、その後は魂が抜けたようになり、数日後に死んだという。
 前年の良相、そして善男に続く事件の関係者の死で、この辺りから怨霊の存在がリアルを帯びてくる。この年の正月に、紀静子が従五位上に叙されているのは、もう一人の怨霊文徳天皇を鎮める狙いがあったのだろうか。
 二年後の貞観十二年[870]、太宰少弐藤原元利萬侶が新羅と内通し、スパイ容疑で逮捕された。元利萬侶は承和の遣唐氏に選ばれた人で、良相の家司だった。元利萬侶がなぜ国家機密を漏らしたかはわからない。彼が良相に仕えていたということが、事件の真相を知る鍵ではないだろうか。失意の内に世を去った主人のために、ひと騒動起こすつもりだったのかもしれない。

 貞観十三年[871]は、天変地異の多い年だった。出羽鳥海山が噴火し、干天が続いて祈雨奉幣が行われた。この年、応天門が修復された。事件から五年がたち、人々の記憶からも火事の生々しさは薄れていたことだろう。
 ところが翌十四年、京に該病が大流行し、多くの死者が出た。これこそ伴大納言の祟りだと、人々は噂しあった。更に九月に良房が病で薨去するに及んで、人々は怨霊を確信した。善男が該病を流行らせる疫病神になったという話は『今昔物語』にある。

 それより少し前の七月、惟喬親王は出家して素覚と号した。円珍は比叡山に帰り、座主としての職務に専念した。十一月、良房の後を継いで基経が摂政に就任した。文屋康秀が、女御高子(二條后)に昇進を願う歌を贈ったのはこの頃だろうか。
 貞観十五年[873]、文屋康秀は三河掾として下向した。小野小町が康秀についていったかは定かでない。いずれにしても、惟喬親王が出家遁世した時点で、小町の宮廷での役割は一応終わったと考えられる。
 四月に遍照は円珍の推薦により、阿闍梨の位を授かった。六歌仙の中では一番の出世である。

【鬼の報復】
 事件の関係者が次々と亡くなり、流行性感冒も一応治まったが、怨念の炎は、まだくすぶり続けていた。
 貞観十五年、染殿后の侍医、当麻鴨継が死んだ。先に紹介した『今昔物語』の中で、染殿后に懸想した葛城の聖人(他の物語では柿本紀僧正真済)を御帳から引きずり出して、これを訴えたのが鴨継だった。そして、鬼と化した聖人に、鴨継とその家族が取り殺されたのだった。
 もちろんこれは説話に過ぎないが、このような物語ができた背景はきっとあるはずである。鴨継は真済ゆかりの者の手にかかって殺されたのではないだろうか。
 伴善男の怨霊騒ぎを振り撒いたのが大友一族だとしたらどうか。彼らは密偵だけでなく、このような情報工作も行ったと思われる。そして、時には暗殺も請け負ったのではないか。
 鴨継を死に追い込んだのも、大友一族のような忍者ではなかったか。もっと具体的に言えば、それこそ惟喬親王と縁を結んだ木地屋の集団――秦氏ではなかったか。繰り返し述べてきたが、秦氏と大友氏は表裏一体と言えるほど、近い間柄である。松尾神は秦氏の祀る神であった。近江の秦氏は紀氏(あるいは小野氏)の影の軍団だったかも知れない。

 貞観十七年[875]一月二十八日に冷然院が火事に遭い、延焼は五十余宇に及び、翌日に漸く鎮火した。火事の原因は不明だが、冷然院は文徳天皇が亡くなったところで、その霊を鎮めるために、かつて円珍が度々護摩供養を行ったという曰くがある。これなども、祟りを装っての放火テロリズムと言えないこともない。これ以降、太極殿、十極殿と、内裏は度々火災に遭うことになる。

 また、年月日は不詳だが、『今昔物語』に清和天皇の頃の話として、太政官の役所の建物内で、弁官(名前未詳)が惨殺されるという事件が起こったという。(巻第二十七「官の朝庁に参る弁、鬼の為にくらはるる語」)
 興味深い話なので、紹介しておこう。


 太政官では、早朝執務というものがあって、夜の明けないうちに灯をともして登庁したのだった。
 史のなにがしという人は、遅刻をしてしまった。その上司の弁のなにがしという人は先に来ていて、座についていた。遅刻した史は、中御門のところに上司の車が止めてあるのを見つけて、自分の方が下役なのに遅刻してしまったことに恐縮しながら、東の庁の東側の戸から庁の中をのぞいた。すると、中の火は消えていて、人の気配もない。
 史はおかしいなと思って、弁の雑色のいる外の塀のところへ戻って、「弁の殿はいずこにおわすのだ」と問うと、雑色どもは、「東の庁に、とっくにお入りになりました」と、答える。
 史は主殿寮のしもべを呼んで、灯を持ってこさせて、庁の中に入ってみたところ、弁の座の上に血みどろの頭部があった。生首には髪の毛が所々にこびりついていた。史は「これはどうしたことだ」と驚いて、辺りを見ると、血の付いた笏や沓や扇が落ちていた。扇には弁の筆跡でその日の段取りが書きつけてあった。畳の上にはおびただしい血が流れていたが、そのほかは一切何もなかった。
 そのうちに夜が明けて、他の役人が登庁してきて、大騒ぎになった。弁の頭は従者に引き取られ、東の庁では、その後早朝執務は行われなくなったという。


ちょっとした猟奇事件だ。弁のなにがしは、なぜ殺されたのだろうか。しかも、犯人は首を残して胴体の方を持ち去ったのだ。なぜそんなことをしたのか。人気のない早朝とはいえ、太政官の建物の中で、誰にも気づかれずに、どうやって犯人は犯行におよび、首を切断した上に胴体を運び出したのだろうか。
 頭部をわざわざ座の上に据えたのは、犯人のメッセージだったと受け取れる。事件についての情報はこれ以外ないので、犯人についてはこれ以上想像もつかないが、清和天皇の時代にこのようなことが起こったのは、時の政府に対する抗議(あるいは強い恨み)が籠められていたのではないだろうか。
 そしてこれも、怨霊情報を工作し、暗殺を請け負う「鬼」と呼ばれた集団の存在の証拠といえまいか。

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