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もしトラと田中美知太郎

「もしトラ」という言葉が、ニュース関連で飛び交っている。うまいこと言ったものだ、とも思うが、もうあの「もしドラ」が流行したのが15年近く前だと知ると、複雑な気持ちになる。あのとき私もドラッカーは読んだ。教会運営についても声を出していることを知り、教会でも参考にしてみたらどうか、と提言してみたことがあるが、全く関心を寄せてもらえなかった。教会には、「イノベーション」という概念が入り込む余地がないようである。旧態依然で現状維持が染みついているのは、伝統や信仰がそういうものだと理解しているのかもしれないが、もはや現状を維持するなど、どこもできていないようにしか認識できないのは、私だけだろうか。
 
さて、「もしトラ」に戻るが、当然これは、「もしもトランプ氏が、再び米大統領に返り咲いたら」というような内容を表す言葉である。なんだか「Xデー」などという言葉のような気配すら覚えるが、「Xデー」がいずれ必ず来るときを表すのに対して、「もしトラ」は実現しないかもしれないのであるから、雰囲気に流されないようにできたら、と願う。
 
トランプ氏がアメリカ大統領になり、世界を混乱させ始めたのは、2016年のことであった。その登場を予言したような内容が、すでに2000年に、日本の読者にも読まれていた。著者は、リチャード・ローティ。すでに2007年に亡くなっているが、このトランプ出現を予言しているのでは、という触れ込みで、2024年2月のEテレ「100分de名著」が始まっている。
 
朱喜哲(ちゅ・ひちょる)氏を講師に迎えての番組で、テキストの評判もよいようだ。まだ若い方だが、哲学から社会学、そしてビジネスの場面にまで通暁したその活動は、広く注目されている。
 
Eテレもまたひとつの番組であるから、いくらかセンセーショナルな宣伝の仕方も必要ではあるだろう。「強い男」を探し始めるようになる、という指摘は、確かに恰もトランプを立てるアメリカの姿を予言したように読めるし、そこへ至る論理もこの時代に適合している、という意味であるのだろう。
 
放送直前の1月末、1冊の懐かしい名前の付された文庫が発売された。『戦争と平和』というが、トルストイではない。副題に「田中美知太郎 政治・哲学論集」と見えるように、著者は田中美知太郎である。
 
その名を知らない哲学生がいてもおかしくなくなったかもしれないが、20世紀の日本の古代哲学、特にギリシア哲学における権威であり、その方面の研究の道を拓いた方である。京都大学名誉教授であったことから、この人を求めて京都へ向かった学生も数多い。プラトンなど、この人なしでは日本では読めなかったことだろう。
 
政治的には、保守的なスタンスを維持したというが、本書はまさにそのような、政治方面への文書が多く集められている。全集からの、中公文庫編集者の独自の編集である。その最初のほうには、戦後間もない時期の文章が並んでいる。一般誌のための原稿であるから、学術的な内容ではない。通常の政治や世相への論評だと見てよい。
 
もちろん、トランプを予言しているわけではない。だが、私の見立てでは、こうした事態を見越した考えがそこにあったのは間違いないと思う。そしてそれは、私の考えとも重なる。というより、やはりかつて読んでいた田中美知太郎の文章から、私がそのように考えるようになった、というほうが適切かもしれない。
 
プラトンは、周知のように、民主政治を徹底的に批判している。掲げるのは「哲人政治」である。『国家』は、決して読みにくい書物ではない。大部にはなるが、きっと愉しく読み進められるし、有名な比喩も含まれている。腰を据えて読書をしてみたい方には、お薦めしたい。
 
田中美知太郎は、民主制を否定はしない。が、それは改善されなければならない、と考えている。「民主制の絶対化を警戒しなければならない」と強調する。それだけ聞くと、確かにそうだ、と納得する方もいるとは思うが、これは、1946年の文章である。まだ日本国憲法は公布すらされていない時期である。これから民主制が求められるという話はなされていただろうが、それが実現する前から、すでに警戒を怠らない眼差しが向けられているのである。
 
続いて、「民主制がわれわれの究極目的であり、民主政治がわれわれの理想であると考えるのは、民主制絶対化の危険を多分にふくんでいる」とも言っている。別の議論を挟んで、やがてこうも言っている。「いわゆるデモクラシーは、すぐれた人の優位(アリストクラシー)を実現し得ることによってのみ、真によき政治となるであろう。しかし人民の政治というものの観念化、名目化は、かえって劣悪者の優位(カキストクラシー)となるの危険を含んでいる。」これは、戦時中の政治を頭に置いての発言のようである。
 
しかし、話の脈絡は、民主政治が独裁政治に移ってゆくことの危険性を指摘している中でのものであった。それは、古代ギリシアで、ソロンの改革が、いわば民主制への希望であったとするなら、その後ペイシストラトスの僭主政治によって独裁政治となったことを指摘するものとなっているのだろう。尤も、その僭主政治が結果的にアテネの民主制を呼ぶことになったという効果もあるから、歴史は皮肉なものでもある。
 
古代ギリシアを知り尽くした碩学だからこそ、現在の政治の問題にも、歴史的観点を踏まえた意見を述べることができる。太平洋戦争が始まったそのときの文章も、この本には掲載されている。「一般にわが国の教養のうちには、いろいろな報道を吟味し、批判する教育が欠けていはしないであろうか。」この文章をも載せた本は、発売中止になったことも、そこには示されていた。
 
報道を批判するとは、政府の悪口をただ言うことではない。それこそ、烏合の衆の一部となって、無責任に世の中を動かすことになるからだ。言論統制の厳しい時代におけるこの「吟味」と「批判」の意見は、かろうじてそれのない今だからこそ、こうして目にすることができる。私たちの場合、「もしトラ」どころではない。「もし」のないままに、流されていはしないであろうか。

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