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『宗教と子ども』(毎日新聞取材班・明石書店)

当然、と言ってもよいと思う。2022年7月8日の安倍元首相銃撃事件から、毎日新聞社に、ひとつの取材が始まった。
 
宗教とは何か。これを問うことも始まった。特にその狙撃犯が位置しているという「宗教2世」という存在に、世間が関心をもった。次第にその眼差しは、彼らを被害者だという世論を巻き起こしてゆく。そして、子どもに宗教を教えてはいけない、というような風潮が、「無宗教」を自称する人々により、唯一の正義のように合唱されるようになった。
 
毎日新聞は、社会問題に対する動きが早いと思う。そして、必ずしも世間の風に同調せず、多角的な視点をもちたいという意欲のようなものを、かねてから感じていた。
 
どうであれ、その子どもをどう助けるか、あるいは寄り添うか。「こうすれば万全」というような方法は、たぶんない。一人ひとり、置かれた情況が違う。また、信じ方も異なる。自分の精神生活は、それまでその宗教の強い影響の許に置かれていたわけであり、それが周囲とあまりに異なるために、引っかかりながら育ってきた。この前提があるとしても、そこから次のステップには、全く別の方向があるのだ。つまり、だからそこを逃れて、一般の世間に馴染むようにしたい、という方向と、世の中はやはり間違っているから元の宗教世界に戻りたい、という方向とである。
 
だが、社会からは、彼らが見えていなかった。社会は、子どもたちを見ようとしていなかった。この子どもたちをしっかり見ようではないか。なぜ社会は見過ごしていたのか。こうした子どもたちの傷ついた心を、大人たちはどう癒やすことができるのか。本書はそれを問いながら、一人ひとりの実例を取材してゆく。取材というからには、先入観をもって挑んではなるまい。まずは聞き出す。心を開いて話してくれる、それを目指す。
 
統一協会と、エホバの証人と、それからオウム真理教。これが、本書のフィールドとなっている。それらは、経済的破綻、生命の喪失、激しい洗脳、といった深い問題を含みもつが、洗脳そのものは、全般にわたっていると言えるかもしれない。特に輸血拒否については、医学や法律との関係と、なによりそれで死んでしまうことが多々あるということで、深刻である。取り返しがつかないからである。が、思いこんでいる親は、輸血により血が汚される、とこれまた必死であろう。王国に入れないとなると、この地上でただ血を流して死のうが、構わないのである。
 
この輸血問題について、それが「聖書から」とある点についてだけは、やはり誤解をされていてはならないだろうと思う。聖書に輸血という問題は全く書かれていないため、過剰な読み込みと思い込みであると言わざるをえないからである。書いてもいないことを、命を捨ててまで守らせるのであれば、右の目をえぐり出したり、右の手を切り取って捨ててしまうエホバの証人さんが多数いるだろうと思うし、腹を立てることは、神の審きに遭うから、と絶対にしないに違いない。
 
しかし、エホバの証人の子どもについては、武道の拒否など、別の問題もある。そしてこの点、自ら正統的キリスト教だと宣言している人たちとて、難しい問題があるのだ。日曜日に運動会があるが、牧師の父親が子を学校を休ませた(子も同意した)が、それが欠席扱いになるのは認められない、と訴えた事例がある。当事者の話も聞いたことがあるが、確かにこれは信仰の上では素晴らしいことと認めるのが、キリスト教世界の常識であるかもしれないのだ。世間に調子を合わせてはならないとなれば、教会の信仰の筋を通さなければならないというわけである。生温い態度で、主日を扱うことは、信仰的ではない、と牧師は壇上で語らなければならないのである。
 
確かに、教団が画一的に信徒の凡ゆる生活を支配する教権を以て臨むというのは、カルト宗教に特有のことであるかもしれない。だが、それは普通の教会生活をしている者から見てのことであるから、傍らから見れば、さして違わないのではないか。信仰を貫くか、社会に合わせるか、そこにくっきりと線を引くのだとすると、五十歩百歩だと見られても、何もおかしくはないと思うのだ。
 
本書は、そうした問題を追究する場ではない。子どもたちを守るにはどうすればよいか。多くの場合は「心」の問題であるかもしれないが、児童相談所の苦労や、医療現場での緊急対応の仕方、そしてただその宗教集団の中で生まれたというだけで、周りから差別されることになる子どもたちの問題は、確かにあまり真摯に考えられてこなかったのではないか。しかも、その問題はあまりに子ども本人のプライバシーに関わることでもあるし、公的な資料として公開されて議論されることから護られている。となればなおさら、社会的に検討されることもないわけである。そこにジレンマがある。
 
センセーショナルに宗教を信じることを気持ち悪がるような言葉として、「宗教2世」という言葉が広まっているのは事実だと思う。そこへ、本書は問いかける。信仰も重んじることは必要だ、というスタンスが滲み出ている。宗教的なことも、親が子どもに教え、伝えていくことは大切だ、という観点は保たれている。その点、好感が持てるというものだ。ワイドショーでは、無責任に、親が子どもに宗教を教えてはいけない、と尤もらしいことがコメントされていることが多かったが、本書は、きちんと向き合って、一人ひとりのことを見つめて考えている。となれば、結論的に、親が子どもに宗教を教えることは、大切なことなのだ。
 
だから本書のタイトルは「宗教と子ども」となっている。流行の「宗教2世」を題に付ければ本が売れる、というような手法はとらなかった。「子ども」のことを、どう大切に扱えばよいのか。これを問う誠実な姿勢は、果たして世間に顧みられるであろうか。これに気づかされるような、健全な世間であってほしい、と私は願っている。
 
ところで、キリスト教会は、健全であるのだろうか。本書に触れて、点検して戴きたいものである。

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