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忘れえぬ上司の思い出

「あんたの面倒はもう見切れん」と言われたことがある。皆がんばったのに、それをまずねぎらわずに重箱じゅうばこすみをつつくような事を僕がした時に、上司が発した言葉だった。皆の前では決して声をあらげる人ではなかった。この時も後で呼び出されて言われたのだった。

尊敬する人だっただけに、僕は動揺どうようした。そして自分がした事をいて、次の日にあやまりに行くと、彼女はジロリと僕をにらみ「本当に分かったのか?」と言い、僕がうなづくと「分かったならいい。皆には私から話しておく。2度とするんじゃないよ」と言われたのだった。
僕のした事は大きな問題にはならなかった。同僚どうりょうとの関係も悪くならなかった。何をどう取り成してくれたのかいまだに分からない。不思議な人だった。

きびしい事は何度も言われたが、普段はとてもおだやかだった。皆が落ち込んで言葉もない時、軽い口調で「コーヒーでも飲む?」と言ったりする。彼女がそう言うだけで、なぜか皆 なごんでしまうのだった。

あるとき会議の前に「後ろで見ていなさい」と言われた事があった。紛糾ふんきゅうしそうな難しい案件あんけんを、彼女が取り上げた時だった。
その時の彼女は穏やかに話をして、皆の意見にも笑顔で耳を傾けていたのだが、その背の影で両手をぎゅっと硬く握っているのだった。本当はとても緊張しているのだという事が伝わって来た。リラックスして見える穏やかさの裏側をえて見せてくれたのだった。

とうに引退したその人は今年80歳になる。父と同い年だ。感謝しかない。


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