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ずっと嘘つきだったから

私はもうカエルを好きになってもいいのだ。

雑誌を読んでいたら気になるライターの方を見つけて、どこで何を書いていらっしゃるの~と探すうちに、その方がやっているWebShopにたどり着きました。どれどれと覗いていると、その方がデザインしたカエルの布バッグが。

「あ、カエルだから、私は嫌いなはず」
ととっさに思ったのですが、いやおかしいおかしい。
「嫌いなはず」とはなんだ。自分の「嫌い」にくらい確信を持ちたいのに、持てていないではないか。

思い出したのは、今は疎遠になってしまった知人が「カエルが嫌い!」と言っていたな、ということでした。
つまり私は、当時の知人の「嫌い」を聞いて、じゃあ私も嫌いで、と思ったのでした。

主体性のない、嘘みたいな話だと思われるでしょうし、自分でもそう思うのですが、当時の私にはそういったことは日常茶飯事でした。
他人の価値観が、自分の価値観。
本当に、本気で、そうだったのです。

カエルトートに描かれた、王冠をいじくっているカエルの絵を見つめながら、いつから私は自分の好き嫌いを消したのだっけ?と思い返しました。

小学2年生くらいのとき、「自分で判断するのはやめよう。先生や親にいつも褒められている、あの子の真似をしよう!」とはっきり決意したことを思い出しました。

当時の時分は、親にも先生にも友達にも、あまり気に入られていないということだけは子供心に感じていたので、この決断は我ながら頭いい!くらいに思えたものです。
実際にそれは功を奏しました。少なくとも中学くらいまでは。
「正しい」と評価されている人物の意見や行動をまねることで、
「変わっている」とは見られなくなったようで、安堵したものです。

それから20年近く、私は他人の価値観の中で生きてきました。
自分で物を考えなくて良いので、ある意味それはとてもラクでした。他人の意見を自分の意見のように言って、間違っていると指摘されたら「だって私の意見じゃないし」と心の中で他人のせいにして。
誰かが好きと言えば、好き。誰かが嫌いと言えば、嫌い。

こういう子、嫌われますよね。
本人は気づいていないんですが、常に誰かの二番煎じ。常に肯定的。
そうでしか、生きる術がないんです。自分の意見がないがゆえに。

でも、やはり限界は来ます。ずっと自分に嘘をついているような感覚がつきまとうのです。
実際、嘘はついていました。他人の意見で生きているわけですから、つまり「本当の自分は愛されない」とわかっているのです。
自分を大きく見せようと必死でした。
赤点を取っていても「80点だった」、「お母さんは外国人」。

周りの子もバカではないので、私が嘘つきだということくらいわかっていたと思います。
その証拠に、中学時代に残った友人はひとりだけ。彼女がいなかったら、私の人生は今も最低だっただろうと確信が持てます。
当時のことを30代も後半になってから彼女と居酒屋で話したことがありました。恐る恐る聞いてみると、彼女はイカをほおばりながら「あなたが嘘をついていたのは知っていたけど、離れる理由にはならなかった。それに、苦しそうだなって思っていた」と彼女は教えてくれました。
嘘つきの人間に、苦しそうだから、と寄り添うことを14歳の少女がしてくれていたなんて、と、私は帰り道に泣きました。

高校生になってもその癖というのは抜けず、嘘はそこまでつかずとも、見栄や虚勢、そして他人の意見に振り回されることは続きました。
振り回されると書くと、なんとも他人のせいな雰囲気ですが、要は自分の思考癖です。
そして成長するにつれて大事なものが出来てきます。大事な友人たち。彼女たちにだけは本当の自分をみてもらいたいな、と思い始める。
でももうそのころには、思考癖がなかなか抜けなくて、気づいたら、自分は何が好きで、何が嫌いかが、まったくわからない。
自分というものが何か、わからなくなっていました。

やりたいことも、何色が好きかも、どんな音楽が好きかも、まったくわからない。
万が一、これが好きかも、と思って誰かに言ってみたところで、「え、そうなの?」と変な顔をされようものなら、とっさに「そんなわけないじゃん」と取り繕う。人の顔色を見るようになっていました。

好きなものがわからないし、他人の思考で自分ができているから、自信などあるはずもなく。でも嘘をつくのはもう限界だと、心のどこかでわかっていました。

この他人の価値観を壊すためには、一番怖い人たちの顔色を見るのをやめなければならない。
でもそれでも、やめて反抗したらまた怒られるかもしれない。
そうして私は社会人3年目にして、家を出たのでした。親の顔色を見るのが、一番、怖かったのです。

そうやって私は20代をぐちゃぐちゃになりながら過ごし、30代になり、40代になり、たくさんの人を嫌な気持ちにさせてきたであろうことは想像に難くなく、それでも関わって、傍にいてくれた方々のおかげで、今は少しだけ自分を好きになることができました。

カエルが嫌い、気持ち悪いと言っていた知人。
私は平然とそう主張できる知人に、心のどこかで憧れていました。

今、カエルが好きか嫌いか、と聞かれたら、「生物は無理、イラストは物による」と上から目線で答えられるくらいまではきました。まだ好き嫌いがはっきり言える性格にはなれていないし、もしかしたら一生なれないかもしれません。
でもカエルについて嘘をつかないことはできる。
自分の気持ちに嘘はないから、相手に変な顔をされても、平気になりました。

好き嫌いが人に流されるのが悪いことだとは、今はそんなに思ってもいないのです。
我が推しがじゃがりこが好きだ、という情報を入手したら自分も全力でじゃがりこが好きになりますし、そんなの楽しすぎる。
ただ単純に、自分をもうちょっとわかってあげていたい、と思うのです。
誰かにわかってもらえずとも、私はわかっているよと。

私はもうカエルを好きになってもいいのだと、気づけた出来事でした。

結局、カエルのバッグはそんなにかわいくなかったのでポチりませんでしたが……。


Adriana Oliver:(文とは無関係)


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