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僕が沖縄に行く理由

沖縄での生活が終わり、東京での生活も約一年が経過した。
もともと僕は東京出身で、沖縄に引っ越す前の10年間は東京で過ごした。

慣れ親しんだ街で、つまらない。
となると、街の喧騒や人々のイライラといった不満だけが顕在化する。

沖縄を偏愛し、偏屈者となり、未練垂れ流したまま、
僕は高校で東京に帰ってきてしまった。

そして今も尚、沖縄に行きたいと強く願い、
ここ一年で4回も沖縄に行ってしまった。

危機感を持たなくてはいけないと、自覚している。様々な背景を説明する必要があるかもしれないが、書ききれないのでここでは割愛する。

ここでは、どうして僕はここまで沖縄を偏愛し、今も沖縄に行きたいと思い続けるのか考えてみる。


二つの理由

僕が沖縄に執着する理由は大まかに2つに分けられるだろう

  • 誰でも感じ得る「沖縄」の魅力

  • 僕が沖縄で築いた思い出や人脈

前者は、いわゆる沖縄自体の魅力だ。
もちろん人それぞれ感性があり、沖縄に魅力を感じるかどうかは人次第であるが、沖縄に固定して存在する魅力をここでは指す。

一方で後者は、いわゆる僕が沖縄での生活を経て得た思い出や人脈だ。つまりは、「思い出に浸るため」「旧友に会うため」などといった、人によっては沖縄である必要はない目的/理由を指す。

1-1. 誰でも感じ得る「沖縄」の魅力

沖縄県というのは国内の観光地としても有名で、好きな人も多いだろう。
ただ、基本的には沖縄県の海や自然などが好まれているのではないか。
もちろん僕だって沖縄の自然に大きな魅力を感じているが、それ以上に感じる魅力がたくさんある。(逆張りしているよう…僕だから仕方ない)

画像:Adobe Stock

抽象的な議論が好きな僕だが、こうゆう場合には具体例から話すのが良いだろう。僕の好きな沖縄の具体例を下記に記す

  • 那覇新都心の暮らしやすさ

  • 新都心公園から感じる人間の温かみ

  • 全てが1つで完結して楽しめる商業施設(メインプレイスやパルコ)

  • 県庁付近の軽い喧騒

  • 那覇の街並み(白い壁・平屋・シーサー・コンクリート塀)

  • 北谷の非現実的空間

  • イオンモールライカムの雰囲気

  • 国頭の大自然

  • 市街地に近いビーチ、豊崎

  • 豊崎に集結した商業施設(イーアスやDMMかりゆし水族館)

以上は僕の沖縄に魅力を感じる地理的な側面の一例だ。
ここから抽象化をするならば

  • 市街地から短時間で気分転換(北谷や豊崎)

  • 完結した商業施設

の2つに絞れるだろうか。

1-2. 楽しい日常

東京だと、なかなか都心部から出られない。
 北に向かえど、川口や大宮。
 東に向かえど、幕張や千葉。
 西南に向かえど、川崎や横浜。
実際問題、距離的には違うのかもしれないが、沖縄に住んでいる時に、バスに乗ってあっという間に街の雰囲気が変わったのは非常に楽しかった

そして、沖縄の集結した商業施設、あるいは街そのものが大好きだ。
東京では、各箇所にそれぞれ異なる目的や雰囲気があり、決まった場所でしか同じような経験ができないことがある。

いざ遊ぶとなると、どこに行って良いか分からない。ヲタク友達とは秋葉原に行けば楽しめるが、そうでないとなかなか難しい。秋葉原だろうが渋谷だろうが、お金がないとなかなか楽しめない。結局は色々な店を回って買い物になるのではないだろうか。それに、雨に濡れ、人混みの中を歩き、太陽に照らされる。(僕の陰キャなのも原因だが)

それに対して沖縄であれば、良いも悪いも選択肢は少なく、遊びに行くとなればライカムやメインプレイスなどと決まった場所しかない。そして、そこで完結して楽しめるのも大きな魅力だ。まぁ、地方であればどこもそうかもしれないが。ただ、沖縄には北谷や水族館など、たくさんの付加価値があるだろう。

イオンモール沖縄ライカム(公式サイトより転載)

もう既にここまでだけで、自分の沖縄に対する偏愛、そして自分の偏屈者である様子が、顕著に出ている。

とにかく、沖縄は僕にとって、非常に暮らしやすくて、遊びやすかったのだ。そしてそれは、僕の「日常」を華やかに彩ってくれる場所であった。

そう、「日常」をだ。

沖縄は僕にとって、幸せな日常を送りたい場所なのかもしれない。
そのため、東京から旅行で短期間行っても、僕の中で満たされる欲求は限定されているのかもしれない。
単にたくさん魅力を味わいたい、とかではなく、そもそも僕の感情が、「沖縄に行きたい」ではなく「沖縄で日常を過ごしたい」なのかもしれない。

ここで言語化できたものは、僕が感じている「誰でも感じ得る沖縄の魅力」のごく一部だ。実際に魅力を感じているのは、街並みや人々が作り出す独特の空気感だったりするのだろう。それがいわゆる、「ちむぐくる」などといった言葉と関わっているのかもしれない。それらを言語化するのは非常に難しいので、ここでは割愛させてもらう。

2-1. 僕が沖縄で築いた思い出や人脈

僕が沖縄で過ごした「青春」や「築いた人脈」が、僕が沖縄を偏愛する原因には大きく関わっている。もちろん沖縄固有の魅力に惹かれてもいるが、沖縄で僕個人が経験したことが、自分にとって沖縄を素晴らしい場所だと認識させているのかもしれない。実際に経験したものは、沖縄以外のどの場所であろうと経験はできなかったはずだが、似たような経験や同程度の幸せを他の場所で経験することはできていたかもしれない。

ここでも、いくつかの項目に分けたい。
人脈は思い出について話すのは、自分だけでなく他人のプライバシーにも関わって来るので慎重に書き進める点は留意されたい。
大まかに分けると、「友達」「恋愛」「大人との関わり」も3つだろう。

「大人との関わり」に関しては、特別書くことは思いつかない。そもそも、大人となってくると色々なところで経験をした人と会う事であるため、沖縄と言う要素がそこまで関わらない可能性もある。ただ一点言えるのは、僕は幼いころから大人と話すのすき好んでおり、それは沖縄に居た時も同じで、たくさんの大人と仲良くし、交流させてもらった。関東出身で沖縄に好き好んで住んでいる人など多種な人がいたが、それぞれ特徴ごとに感じるものはあった。言語化は難しく、書くことを有意義に感じないため、ここでは割愛させてもらう。

2-2. 友情の代替可能性

今、高校で僕は、「遊びには来ない人」みたいな感じだ。
実際にクラスの友達と遊びたい、と思うことは滅多にない。未だカラオケなどに毎日のように誘ってもらうが、毎回断るだけだ。思考的にはひねくれていても、実際に誘われると、優しさのような何かを感じ、罪悪感を感じてしまう。実際に遊びに行くと楽しいことがほとんどだが、やはり誘われるときは全く乗り気にならない。

陰キャとしてのアイデンティティに誇りも持っていた

中学2年以前の僕もそんな感じだったかもしれない。
しかし、中学3年生の時、僕の学校生活は驚くほど楽しく、毎週末のようにクラスメイトと遊びたがっていた。
受験期も頻繁に遊びに行き、母に注意されたことも多々。

そして今でも、中学の時の友達や下級生(同じ中学の"後輩")と会いたい、遊びたいと強く思う。それが故に、頻繁に沖縄に行き、友達と会っているのだ。
なので、この側面を切り取れば、「沖縄に行っている」というよりも「友達に会いに行っている」というニュアンスの方が近くなる。

しかし、なぜなのだろうか。
沖縄で会いたいと思う友達と、高校での友達などは、一体どのように異なるのだろうか。趣味の相違を考えても、話しやすさを考えても、全く大差ないどころか、高校での友達の方が客観的に考えれば楽しい人が多いのだ。

沖縄で築いた友情は代替不可能なのだろうか。
もちろん、同じものの再現は不可能だ。しかし、「代替」することは可能ではないのだろうか。
この点において、日々考え、下記の様なアイデアが思いつく。

  1. 趣味・価値観が合う

  2. 沖縄で会うから楽しい

  3. 「楽しかった中3を共に過ごした仲間」というバイアスがかかっている

  4. 自分が優位に立てる(相手が下級生の場合や自分より能力が低い場合)

「1」に関しては、先述のところで否定されてしまっている。
しかし、学校の特徴や人生の選択などに目を向けると、本質的な部分において、趣味や価値観の違いがあり、それが友情の代替可能性に大きく影響しているのかもしれない。

「2」に関しては、沖縄で会っている友達と東京で会うことで確認できる。実際に、沖縄で会っている友達と東京で会う約束をしたときは、めちゃくちゃに楽しみだった。しかし満足度で言うと、沖縄で会う時に比べると劣っていた気がする。ただそれは、沖縄で会う時は、僕は一人でホテルに宿泊しているが故に、友達と自由に会い(門限などがない)、その前後も気楽で自由に過ごせているかもしれない。

話が逸れるが、ここで気づかされる点は、僕が今沖縄に行っていて楽しいのは、

「沖縄に行っている時」=「1人で旅行に行っている時」=「親から解放され自由になっている時」

だからなのではないか、と。
自分が、沖縄を偏愛する偏屈者ではなくなるが、単に自由を求める人になっていまう。この議論を始めると長くなるので、ここはまた今度探ることにする。

「3」に関しては、沖縄を偏愛する僕が、沖縄での出会いなどに対してポジティブな偏見を抱き、過度に美化しているかもしれない。そこでは、実際には合わない趣味や価値観が、自分の中で無理矢理合わさっているのかもしれない。

「4」に関しては、母などからも言われることがあり、言われるとグサッとくる。そのため現実味がある。僕自身はロリコンなこともあったりで、男女両方ともに下級生とは仲良かった。(人数が少ない学校の特徴上、自然と多学年の交流は多かったが。)何回も下級生と遊んでいる俺を見ると、母が「自分が優位に立てるから楽しいのではないのか」と言ってくるのも理解できる。

優位に立って、浮かれる。



しかしだ。実際に僕が下級生と会っている時、僕は自分の誇りに対して必死になっている。容易にチヤホヤされるなんてことはない。僕は中学時代、生徒会として、異学年間の壁をなくすことに注力して、その最前線で努力していたこともあり、みんなからの距離は近く、下級生からは尊敬はされつつも、いじられることもあり、対等に話す存在であった。
むしろ、今の高校のクラスメイトの方が、僕をちやほやしてくれ、自分が優位に立てることがある。

まぁでも、僕の中には、高校のクラスメイトに対する潜在的な尊敬や劣等感があり、中学の時の友達に対しては「俺ってすごいだろ!」という感情があるのも事実だろう。その点を考えれば、「4」は比較的説得力のある理由になり得る。

2-3. 人生の頂点をくれた「恋愛」

正直、僕の意識の上では、「恋愛」が最も大きい存在だと思っている。
あまり書いてしまえばプライバシーの侵害になってしまうが、僕は中3の最後から両思いだった2個下の女子がいて、僕が東京に来た後も、連絡を取ったりしてもらいながら、いわゆる "遠距離恋愛" をしていた。しかし、僕のメンヘラ・腐りきった性格・自己中心性が顕著になり、とことん相手のことを苦しめ、破綻となった。正直、「沖縄」が人生を変えたと言えると同時に、この恋愛が僕を変えたとも言える。それくらい、愛してて依存してて、存在感が大きかった。というか、今もとことん愛してて依存していると思う。

東京に来てから、最初の1回や2回は、沖縄に行ったら、その子に会える、というのがあった。遠距離恋愛相手に会いに行っている人、みたいな感じだった。

でも、会えなくなってからはどうなんだろうか。

沖縄に行くことを考えると、真っ先に頭に思い浮かぶのは「復縁できるかな」という希望であり、沖縄に居る時もずっとその子のことで頭がいっぱいだ。(東京に居る時もだが)

絶縁状態である僕からしたら、もはや存在しないに等しいであろう相手。未練たらたらで、変な希望を抱き、沖縄に依存している。
この辺の関係性は、整理するのが非常に難しく、何時間をもの時間をかけてマインドマップを描いたりしながら自己分析を繰り返しているが、なかなかクリアにならない。

ここについては、もっと自分なりに考えを深め整理して書きたい。
が、相手のプライバシーにも関わるので、僕の中での分析に留めたいと思う。

見えないものに依存する

簡単な話、沖縄に行く理由がこれだけ考えられるなら、これら1つ1つの全てが答えであり、その全てが沖縄に惹かれる要素を構成する。

「友情」や「恋愛」などの形而上学的なものに依存していても、それを意識するのってとても難しいし、どこか不安になる。
そこで僕は、「沖縄」というある種普遍で、固定された存在を意識的に好きになり、依存することで、自分なりの幸せを感じているのだろう。

ここ数年は特に、僕が「目に見える固定された存在を好きになろう」としていることが顕著に表れる。そこまで見てないホロライブ(VTuber)のグッズを買ってファンというアイデンティティ(偽物?)を得たり…

最後に、このブログで自分について言語化することで、また新しく見えてきたこともある。もちろん、余計に不明瞭になって点もある。それらも包括して、引き続き自分との問いを続けていきたい。読者の皆さんも良ければ、もっと自分との対話を大切にしてもらいたい。

未熟な僕が何を言っているんだか…

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