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連載【短編小説】「あなたの色彩は、あなたの優しさ、そのものでした」第五話

登場人物

三守琥珀みもりこはく 
わたし。二十歳の大学生。蜜柑への親友以上の感情を自覚している中、PSYさんの登場によって、気持ちを揺さぶられ始める。

円谷蜜柑つぶらやみかん 
わたしの親友。学年は一つ上。とにかく明るい。

橘真紅たちばなしんく  
蜜柑の高校時代の美術部の先輩。現代アーティスト。

PSYサイ
真紅さんの知人。水彩画アーティスト。視線恐怖症。

三守太陽みもりたいよう
わたしの五つ下の弟。わたしと共に、十年前のブラックアウトを経験。


前回のあらすじ

まるで介抱をするかのように、泣きじゃくっていた男の子の涙を鎮めたPSYさん。わたしはPSYさんから、画の感想を求められ、何か揺さぶられた感情はないかと探るも、全く思い当たるものがないのだった。そしてPSYさんに、あなたには無色の部分があると指摘され、過去のブラックアウトの経験を思い出す。何もかもを見透かすようなPSYさんに、わたしは躊躇ためらうことなく問いかける。――あなたは何者ですか、と。


 PSYさんは、うつむいたままほほを緩め、
「初めて聞かれました。そういうこと」
 と答えた。
 そして、顔を上げると、真紅さんの画のように遠くを見つめながら、
「残念ながら、僕には答えられません。僕には過去というものの記憶がないんです。そもそも、生を受けてから、一段一段と階段を上るように、月日を重ねていくような過去があったのかすら怪しい。僕はある時、あの人の前に立っていました。僕を前にしたあの人は、色が散乱するような、すごく驚いた顔をしていましたが、それも一瞬のことで、撫子なでしこのような色の笑顔を浮かべた後、僕をそのまま、家族のように受け入れてくれました。あの人にはもっと、色々と聞きたいことがあったのですが、この世にはもういません」

 ――問いと答えの比重のあまりの違いに、わたしはまたしても、らない言葉を口にしてしまったのではないかと、後悔の石ころを含んで口ごもる。これでしばらく、二の句は継げない。
 
「菫色《すみれいろ》のような困惑。やはり、そうなりますよね。真紅さんも初めは、そんな感じでした。ただ真紅さんは、『背景』と言うものはもちろん大切だけれど、それだけで印象が決まるものではない。そもそも画と言うものは全て、板の上にのせた絵の具の集合みたいなもの。それなのに私たちは、そこに奥行きを感じ、物語を感じ、歴史を感じる。だからPSY。あなたがどのような人物だろうと、決して薄っぺらな存在ではないはず。――と言ってくれました」

 予期せぬ、PSYさんの問わず語りが続く。わたしはわたしで、手袋を丸めてひっくり返すように、自分の内側を覗き見る。
 
 ――わたしの背景。わたしの背後にあるものとは、何なのだろう。そう思い、後ろを振り返る。

 今、わたしが立っている現在地には蜜柑がいてくれるおかげか、陽が差しているようにとても明るい。ただ、奥へ目を向けると、まるでトンネルの中を見通しているかのように、薄暗くなる。さらにその先は真っ暗で、ある地点に来ると、闇そのものを塗り込めたように何も見えなくなる。――本当はそこに、太陽がいるはずなのに。
 あの時、本当は何があったのか? わたしが忘れているだけで、思い出せないだけで、わたしが自分に言い聞かせてきた過去の物語とは異なる出来事が、実際はあったんじゃないのか。
 
 ――目撃者のいない、神のみぞ知る出来事が。
 
 仮にその時、何かがあったとしても、ただもう、これだけの時間が経過してしまっては、知る由もない。知るすべもない。望遠鏡を使えば、いくら遠い過去の星が見えるからと言って、人が生きた過去の出来事を覗くことは出来ない。

 ――わたしは。

「――わたしには、太陽と言う名前の弟がいました」

 ――わたしは、初めて告白する。

「五つ年が離れていたので、生まれた時から母と同じように、幼いながらも自分の子のように面倒を見て、その成長を毎日、ジャポニカの自由帳に記録し、目の中に入れても痛くないくらい可愛がっていました。太陽は、そんなわたしの愛情に応えるかのように、大きくなるにつれて、わたしのために、一生懸命に何かをしてくれるようになりました。決して特別なことではなくて、ただ、一緒にいてくれたんです。わたしが学校で、色々あった時でも」

 ふと、PSYさんの視線が、わたしの顔をなぞり始める。肩口から鎖骨、首筋、頬、口元へと移動した後、さ迷うように鼻をくすぐり、間もなく、ぴんと張った線と線で結ばれたかのように、PSYさんとわたしの視線が重なった。わたしはPSYさんの瞳を見つめたまま、過去を手繰たぐり寄せるように言葉を紡ぐ。

「そしてあの時も、わたしは太陽と一緒にいました。両親は仕事に行っていて、いつものように、夕食の前に二人が帰ってくるのを待っていました。――前触れもなく、それが訪れ、一瞬にして光を失った時、わたしは思わず太陽の名前を叫びました。太陽からはすぐに、お姉ちゃん! と返事があったのですが、家の中にいるのに、太陽がどこにいるのかは分かりませんでした。手探りでつかむものは、どれも冷たく固いものばかりで、自分の家なのに他人の家にいるような気持ちになりました。太陽の名前を叫びながら、ようやく温かなものを掴んだ時、わたしは心底ほっとしました。わたしは、大丈夫だよ。太陽の手は、お姉ちゃんが絶対に離さないからね、と声を掛けました。でも、不思議なことに、太陽からは最初のお姉ちゃんと言う一言以外、全く返事が返ってくることはありませんでした。わたしは自分が掴んだものが果たして、本当に太陽の手なのか、不安になりました。でも、人肌で柔らかくて、四本の指の形をしているものを握っているのだから、人の手であることは間違いないと思いました。それなのに、この心の底から襲ってくる不安は何なのか、その時のわたしには分かりませんでした。そのまま、いったいどれくらいの時間が経ったのか、わたしには分かりませんでした。家の外は、凪のようにとても静かで、まるでわたしたち二人だけが、孤島のようなこの場所に取り残されているような気持ちになりました。何が起きたのかも、太陽がどうなっているのかも分からず、やがてわたしは、暗闇に呑み込まれるように意識を失い、目が覚めた時には病院のベッドの上でした。――太陽の行方は、いまだに分かっていません」

 そこまで言葉にした時、わたしはゆっくりと瞼を閉じた。ようやく何か、とても大きな荷物を背中から下ろすことができたような気がした。楽になったというわけではない。ただ荷物とは、いつまでも背負っているべきものではなく、しかるべきとき、然るべきところに下ろすものだという、自然のことわりのっとることができたような、そんな気分だった。

 ――足音が近づく。PSYさんの足音だ。そして間もなく、足音が止まる。わたしは瞼を開く。PSYさんがわたしをまっすぐに見つめたまま、口を開く。

「あの人は、〝戦争〟というものを経験した人でした。初めてその手で、人間を、自国の敵をあやめた時、最初に感じたのは『無』だったそうです。ただ遅れて、遅効性の毒のように、足元からじわじわと恐怖と後悔が襲ってきて、気が付いたら自分は、全身真っ黒に染まっていたと話していました。ただその色は、戦地にいる自分にとっては都合よく、浴びた血を隠ぺいする役割を果たしたそうです。あの人は戦地から戻ってきた後、子どもの頃からの夢だった画家になりました。ただその目的は、本来の画が好きだからという動機とは、全く異なるものでした。――汚れた自分の色を、とにかく消してしまいたかった。そんな気持ちからでした。晩年に至り、ようやく自分の色を取り戻した時、あの人はある一枚の肖像画を描きました。タイトルは『色彩』。描いたのは、深緑色の瞳で遠くを見つめる、一人の男性。――つまり、僕のことです」

 ――わたしに代わるPSYさんの告白に、それほど驚きはなかった。やっぱりそうなんだ、という思いが強く、今までのPSYさんの言葉が全て、一本の糸で繋がったような気がした。

「琥珀?」
 突然明かりをつけられたような蜜柑の声に驚く。振り返ると、廊下の先から蜜柑が足早に駆け寄ってきた。蜜柑を前に、どのような表情をすればいいのか見当が付かない。
「あ、PSYさん」
 近づいてきた蜜柑が、PSYさんの存在に気づく。蜜柑はわたしとPSYさんに交互に視線を送り、何かを考えるように後頭部を二度撫でた。
「蜜柑さん、すみません。おひとりにさせてしまって。今、琥珀さんに伝えるべきことは伝えましたので、今日はこれでお開きということでいいでしょうか」
 同意を求めるように、PSYさんがわたしにも視線を向けたので、わたしは無言でうなずいた。
「――そうですか。分かりました。じゃ琥珀、帰ろっか」
「うん」

 わたしと蜜柑は、病院の出入り口でPSYさんと別れた。その後のわたしは、まるで何事もなかったかのように、蜜柑とおしゃべりをしながら、自分のアパートへと帰り着いた。
                               つづく

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