家族というもの、を振り返ってみる(1

人生について考えていくと、家族というものとは切り離せない。

家族は、天涯孤独な人でなければ、誰にでもある。

人間は、一人一人が個性を持っていて、違いのある人間同士で合わさって家族となる。その個性の掛け合わせは数限りなく、一つとして同じ家族はないはずだ。

自分の家族も唯一無二の存在だろうか?

自分の家族について振り返ってみようと思う。

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子どもの頃のあり方は人生を決めるのか(1で書いたように、生まれも育ちも横浜の下町だ。

住んでいた家は、母親の実家だった。

父親は北海道から大学の時に出てきて、就職し、両親はそこで知り合ったとのことだった。

父方は、北海道の前は宮城県にルーツがあり。先祖はそこにあるらしい。

母方は、祖母が長野の出身で、祖父は長崎。

北から南から、真ん中まで、日本中の血が混じっている。

自分は、日本のなかのハイブリッドということになる。

母方の祖母は、2歳のときに亡くなっているので、ほとんど記憶はない。父方の祖父も早くに亡くなったようで、全く知らない。

母方の祖父とは、小学校くらいまで同居していた。

気性の激しかった人のように感じていたが、大して記憶はない。

その祖父は、今で云う認知症になって、最後は家で糞尿を垂れ流すようになり、やがて亡くなった。

当時は今のように老人の施設が発達しておらず、家で看取るのが普通だった。

その後だったと思うが、父方の祖母がしばらく家にいた。

数年だったと思うが、あまり関わった覚えもなく、記憶が薄い。
妹は可愛がってもらったらしく、おばあちゃん子だった。

その祖母は父の妹に引き取られ、北海道に帰っていった。

兄弟は3人兄弟で、私が長兄、2つ違いの弟と4つ違いの妹がいる。

家は、居室が3部屋しかない小さな家で、平屋の二軒長屋だった。家の周りはトタンでできた塀に囲まれ、横の私道は舗装されていなかった。電柱はまだ木でできているものだった。眼の前の家は材木屋で、鶏を飼っていた。
この当時は家に風呂もなく、銭湯に通っていた。
まさに戦後の昭和の家だった。

子供だったのでそれほど意識はしなかったが、大人数が狭い家に暮らしていたのだ、濃密な人間関係があったことだと思う。

両親は、円満だったとはいえない。喧嘩ばかりしていたように思える。

記憶というのは、良いことよりも悪いことのほうが残るのだろうが、あまり楽しい記憶は思い起こせない。

父はどちらかと言うと激しい気性で、子供の頃には、お灸を据えられたり、表に放り出された記憶がある。

今だったら虐待だが、当時はどこの家庭もそんな感じだったはずだ。

しかし今考えると、父の気性は、やはり極端で、病的であった。

自分が婿養子のように母方の家に入ったことが気に入らないと、常に言っていたし、だれかが自分より優れていると、素直に認めずインチキをしただの言う、常に不平不満の多い人だった。

そして自己中心的で、人のことを思いやることが出来ない人だった。

自然、子供でも反発心が生まれ、父を好きにはなれなかった。

例えば、自分の自転車が欲しくてこっそりカタログを集めていたことがあった。どうやって知ったのか、ある日自転車を買ってきた。子供用の電飾の付いた自転車を買ってきたのだ。

本当は大人の乗るようなサイクリング車が欲しかったので、子供用の自転車は恥ずかしかった。そんなことが言えるわけもなく、しばらくした後、派手な電飾をすべて取り外してしまった。

父親流の愛情だったのだろうが、いらないものを与えられた敗北感のような思いが残って、感謝などできなかった。

父は、東京の大学に出てきたくらいだから、田舎では秀才だったようだ。自慢げにそんな話をするが、一方では家が貧乏で、食い詰めて北海道に行ったらしい。

そんな劣等感からか、人を羨む発言が多く見られると同時に自分の祖先については出処は良いのだとルーツを自慢したりしていた。

自営業を始めても巧く行かず、数年で廃業。ゲームセンターでアルバイトのような仕事についた。自分は貧乏だったから、お金に苦労し、そのために働かざるをえなかったかのように常に言っていた。

そう言いながら、家計を支えることもせず好きなことにお金を使ってしまう性分だった。

父のやってきたことは、覚えて居るだけで、カメラ、釣り、家で鯉をたくさん飼っていた。皐月を家の周りいっぱいに持っていた、などがあるが、どれも趣味的にお金のかかることばかりだ。

最期まで続いたのは釣りだけだが、釣りも川の釣り、湖の釣り、磯の釣り、船の釣りとあらゆるものをやっていた。道具だけで相当な数になるし、釣りに毎週末は行くので、その出費だけでも大変なものだったと思う。
乗用車の荷台に布団を敷いて子どもたちを寝かせ、夜中に釣り場に向かったりしていた。
晩年には和竿作りにも手を出し、その材料費だけでも馬鹿にならない額を使ったと思う。

結果的に、自分で稼いだ分は全部自分で使ってしまう人だった。
借金をしなかっただけマシとも言えるが、真面目さと同時に大きくものを考えられない小心なところがあったのだろうと、今は思う。

一方で母の不満が募るのも無理はない。家事労働をしながら同時に働きに出て家計を支えていたようなものだったからだ。

続きます。


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シーサン

埋没してしまいがちな記憶を、記録にしてみようとはじめたnote
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