近代小説論・「言動と内心と本心」といふ観点から

 人間の精神活動は、三層の構造を持ってゐる。
 言動と内心と本心だ。

 先ず、表層構造として「言動」。言葉に出したり身体を動かしたりすることで、自他ともに五感で認識できる。
 表層の下にあり、言動としては不可視の「内心」。これは本人にしか認識できない。

 言動は内心によって操作されてゐる。

 病室の知人を見舞った人が、「やあ、だいぶ顔色がよくなったね。こりゃあ、桜の咲くころには退院できさうだね。一緒に花見をするのが楽しみだよ」と言った場合、内心では「こいつは、もうダメだな」と呟いてゐるときがある。
 そして、その病室では、内心の呟きにふさはしい不誠実な言動が展開される。

 「こいつはもうダメだな」といふ内心の呟きと不誠実な言動の関係は、本心を知る人にしかわからない。
 本心を知る地点からの三角測量によって、精神活動の全貌が見えるからだ。

 内心のことを、たいていの人は「本音」と呼んでゐる。
 けれども、内心の呟きを本音だと思ってゐる人は、内心の下には深層構造があって、そこに自分の「本心」が埋まってゐることは思ひ及ぶことはないだらう。実際は、それをこそ、本音と呼ぶべきだ。

 近代文学の小説は、人間の本心を描くものだった。
 本心といふのは、普通に暮らしてゐるときには、わざわざ知る必要はないし、なにより、知っても暮らしには役に立たないものだった。そんなものを意識してしまへば、言動がぎこちなくなり、百害あっても、社会生活上、一利も得られないだらう。

 それなのに、本心を描く近代小説が出現したのは、それまでの暮らし方が揺らいで、しかも、ではどう暮らしていけばいいのかわらない。すっかり途方にくれてしまったといふ状態が、産業革命から工業化してゆく時期に、「時代の問題」として立ち現れたからだ。

 その頃、統合失調症の症状として、立ったままマネキン人形のやうに固まって動かなくなり、誰かが片腕を挙げさせたらそのままの姿勢をずっと保ってゐるものがあった。カタレプシー(強硬症)と呼ばれ、二十世紀前後から流行し始めた精神分裂病の中でも、とりわけ人目を惹く・分裂病の典型的な症状とされたものだった。
 ふりかへれば、これは、急激な都市化に戸惑ひ、固まってしまった人たちの、時代的な精神を象徴する症状だったと思ふ。

 その頃に流行り出した小説は、いはば鉄道事故の現場写真のやうなものだった。汽車や電車が引き起こすさまざまな事故現場の写真集と本質的には同じものだった。鉄道は近代工業化に欠かすことはできない。当時は、踏切事故や脱線事故は必ず起きて、ふだんは見ることの無かった内臓や多量の血や死体などが目の前に並ぶことも避けられなかった。
 暮らしが便利になると同時に、人間が人間でなくなる、壊れてゆく。これが工業化の現実を象徴するのが事故現場だった。

 さっきの、病室の知人を見舞った人の本心にもどれば、その人の本心は知人に対する底知れぬ憎悪であり、その憎悪から出た自然な願ひは「できるだけ苦しみながら死んでほしい」といふものだ。
 その願ひが叶ひそうな顔色を知人の顔に認めて、その人は「知人に希望を持たせる言葉」を口にしたのだ。いったん希望を持てば、絶望と向かひあったときの知人の苦しみはいっそう激しくなると本心は確信した。

 かういふ精神の営みには、鉄道といふ近代工業技術が生んだ便利で有益な交通手段によって事故が起き、人間の手足が変な方向にひん曲がって死んでゐる写真と同質のグロさがある。

 近代小説が人間の本心を描いてゐることがわかる人はだんだん小説を読むのがいやになってくる。自分の精神が病んでくるからだ。
 書き手のはうはもちろん病んでゐる。
 この場合の「病んでゐる」とは精神病であることとはずれがある。
 人間の精神そのものの初期不良に関することだ。誰の心にもある「病んだ部分」に関する責任は、製造した神にあるだらう。

 書き手は、「本心を見てしまふ」「本心から目を逸らして、内心と言動だけで生きることができない」といふ意味での病んだ精神の人であるから、小説を書くことでだんだんと疲弊してゆく。自殺しないはうが不自然だ。
 典型例は、太宰治。

 二十世紀も半ばを過ぎると、もう、自分たちの本心がどうなのかといふ問題に悩む人はゐなくなっていった。この問題が消えたわけではないが、「もっと楽しまう」といふ方向にいったのだ。
 この転換は、村上春樹の登場によって象徴されてゐる。

 そのやうな方向に行けたのは、経済的消費の社会になったからだった。
 人生の目的は、消費するためにお金を稼ぐことになった。
 これは、ハムスターがハムスターホイール(回し車)に入り込めたやうなもので、
①人生の方向性の模索、
②毎日を具体的に何をして過ごすか、
といふ人生の二つの難問を解決してくれた。
 近代小説は、この時点で消えた。

 今後、生きることに関する不満が出るとすれば、すべて、経済の範疇に入る。収入の安定、福祉の充実といった事柄から外に出ることはない。
 だから、生きづらさの問題は、政治家が対処するものとなった。小説のネタではなくなったのだ。

 今、小説とされてゐるのは、内心の雑記のやうなものだ。
 本心に触れたものは無い。
 「本心を見てしまふ」「本心から目を逸らして、内心と言動だけで生きることができない」といふ、病んだ精神の人はもうゐなくなったのだと思ふ。
 カタレプシー(強硬症)はすっかり廃れて、自分で自分を「みんなと違ふ」と思ってゐる人は、自分語りに憑りつかれて、SNSの中で、踊り、奔走してゐる。
 
 精神が病んでゐることの一番の証拠は、本人は病んでゐると思ってゐないことだ。
 昔の小説家、太宰治は、親身になって案じる友人たちによって精神病院に入れられて、屈辱を感じ、生涯、恨み続けたが、今は、訊いてもゐないのに自分は心を病んでゐると教へてくれる人ばかりだ。それが凡人でない証拠らしい。今のプロの小説家は、HSPから統合失調症まで、何かしら病的な自分であることを自己申告して、それらを看板にして小説を書いてゐる。

 この中に、人間の心の初期不良としての病んだ心を持ってゐる人はどれくらゐ、ゐるのだらうか?

 もし、ゐたとしたら、自分が病んでゐるといふ見識は持ち合はせず、「こころのクリニック」にも通はず、精神科医を頭から敵視してしまってゐる。
 そして、社会や人や、この時代こそが病んでゐると信じて、そんなふうに思ってゐるのは自分だけ、自分だけがまともだと思ひ込んでゐる。
 かつて近代小説を書いた小説家たちは、そんな人たちだった。

 

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