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小説探訪記06:面白さをどう伝えるか?

※※ヘッダー画像は ちーぼー さまより

 私は、コラムのように読書感想文を書いてきた。何冊かの本に限って話題トピックを絞れば、効果的に自分の意見を伝えられるからだ。論点を数か所にまとめれば、記事も読みやすくなり、PV数も伸びる。

 しかし、コラムのような文章にも悩みがある。以下、4点に絞って並べてみた。

1:構成を決めねばならない
2:1つの記事で扱える本は数冊程度
3:文章が硬くなり、偉そうで冷たい
4:複雑な意見や多様な視点を伝えづらい

1:構成を決めねばならない

 コラムのような文章を書く場合、「型」に沿った論理展開が求められる。大学生や社会人であれば、同じ説明をうんざりするほど受けているかもしれない。が、その「型」を図式化してまとめておく。

    問題設定:小説を読んでどんな疑問を持ったのか。
資料の参照と考察:どの資料で疑問を解消するのか。
         どの要素を複合して考察を深めるのか。
反論と例外の対策:自分の考察に合っていない部分はないか。
更なる問題の発見:解消しきれていない疑問はどこか。
         考察していく内に生じた疑問は何か。
 まとめ(要約):自分の意見の全体像と流れを整理するとどうなるか。

 おおむね、この順番に従って文章を構成しなければならない。このせいで文章が一本道になる。読者にはわかりやすいのかもしれない。しかし私にはつまらない。雑談もできないし、無駄がないので息苦しい。また、小説自体が持っている複雑性を削いでしまう気もする。

 さらに、トピックをいちいち図式化せねばならないのも面倒くさい。表や図は便利だ。人物相関図が用意されているマンガや映画、小説はありがたい。多くの方はそう感じるだろう。説明のフローチャートもプレゼンにおいては必須である。視覚的に一瞬で理解した気になれて楽だ。

 しかし、図表はあくまで静的なものだ。登場人物の関係性が変化すると、新しい相関図が必要になる。物語の展開に合わせて相関図を用意するのは、小回りの利かない車を運転するわずらわしさがある。

2:1つの記事で扱える本は数冊程度

「1:構成を決めねばならない」で、コラム的な文章には〈問題設定〉が必要だと述べた。これが厄介なのだ。問題設定をするときに、小説やテーマを指定せねばならないからだ。たとえば、「中島敦『山月記』の○○」や「現代文学における〈信仰〉の問題について」といったようなものだ。

 そのおかげでメインに語れる本が数冊程度になってしまう。色んな本の話題が入り乱れる雑談からはかけ離れてしまう。それが好きではない。

3:文章が硬くなり、偉そうで冷たい

 文は人なり。――と偉い人も言っていた。だから、単に自分の問題かもしれない。しかしエッセイやコラムのような文章は、なんとなく、偉そうで冷たくなってしまう。ゴツい漢字も多くなるし、とっつきにくい。あまり良いことがない。

 では「です・ます調」にしてみたら? そう助言なさる方もいらっしゃるだろう。が、それはそれで文章が長くなる。尊大な印象はほどほどに緩和されるが、今度は読むのがまどろっこしくなる。

4:複雑な意見や多様な視点を伝えづらい

 自分の技量にも問題があるかもしれない。が、エッセイやコラムの語り手は、一人だ。一人の語り手に複数の意見を伝えさせようとするのは難しい。筆者の性格が首尾一貫していないような印象を与えるだけで、思考のブレや変化には注目がいかない。であれば、複数のキャラクターに別々の考えを言わせた方が伝わりやすそうだ。

 もう一つ。解説には聞き手がいた方が、観る側は安心しやすい。これは「ゆっくり解説動画」を思い浮かべると、ピンとくるだろう。「ゆっくり解説動画」というのは、ゆっくり霊夢が質問役となり、ゆっくり魔理沙の解説を聴く形式の動画のことである。現在、この手の動画が若年層に限らず、シニアにも普及している。

 この「語り手と聞き手の話を横から聴く」という形式が、人間にとって受け入れやすい語り方なのかもしれない。プラトンの『国家』もそう書かれているし、夢幻能でも同じような形式になっている。夢幻能では、現世に未練を残した幽霊・怨霊(シテ)の過去を、聞き手(ワキ)が聴くことによって話が解決していく。

 これからは読書感想文も、小説のように書いていくことになるだろう。小説という形式にはまだ慣れていない。また、全ての読書感想文を小説形式で書くわけではない。が、時々そんなものを書くかもしれない。

 神本町じんぼんちょう漱石通り裏手にある「鏡子の家」というカフェ。ともあれそこでお会いできるのを楽しみにしている。

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