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#59 論考『ひとくち、ちょうだい』

2024年4月某日

ファミリーレストランのサービスクオリティが上がっている。某イタリア料理系ファミレスなど、そのコストパフォーマンスは素晴らしく、アルコールメニューも充実している。ちょっとした居酒屋にいくより、気軽で使いやすく、料理も美味しい。そんなわけで、地方暮らしの筆者も、ロードサイドのファミレス店舗には、よく家族でお世話になっている。

さて、家族で外食などする際、筆者はつねに「ひとくち、ちょうだい」の問題に直面する。なにを了見のせまいことを、という意見が聞こえてきそうだが、筆者にとっては由々しき問題なのである。この問題をつぶさに検討することは、「良き食事体験」というサービス品質の本質を考えることに通ずる。少し、筆者の考え方を整理してみたい。

そもそも、「良い食事体験」とはなんだろうか。高級な食材や、美味しい料理を食べることだろうか。もちろんそれもあるだろう。また、気の置けない関係の人と食卓を囲むことだろうか。それも否定しない。ただし、お腹が一杯だったりしたら、食材のグレードや料理の美味しさの評価は半減するだろうし、一人の時間が欲しいときは、グループでの会食などは、かえって心の負担になるかもしれない。

そのように考えると、「良い食事体験」とは、自分の「好きなときに(適時性)」「好きな人と(関係性)」「好きなものを(嗜好性)」「好きなだけ(適量性)」食べられることが大切なのではないだろうか。平たく言うと、「選択可能であること」こそが「最高のごちそう」の要件だ、ということである。完全に自分にパーソナライズされたサービスほど満足度が高い、という理屈である。

この考え方に立脚して、あらためて「ひとくち、ちょうだい」を考えてみよう。この行為は、筆者の側からすると「もっと、食べたかったのに」という「適量性の侵害」や、訪れるかどうかわからない「ひとくち、ちょうだい」の攻勢に備えるために、食べるペースを減速させるなど「適時性の侵害」を生み出しかねないのである。だからこそ、「ひとくち、ちょうだい」という行為の事の大きさについて、家庭内での啓蒙が必要だと考えている。なお、筆者の家庭の場合、「ひとくち、ちょうだい」が発動された際、献上できるブツがすでにない状況は、もっと恐ろしい状況を生みかねないことを付け加えておく。

以上、「ひとくち、ちょうだい」の問題について検討してみた。なお、わざわざ付言する必要もないが、念の為「お腹いっぱいだから、食べて」も問題の構造は同じであることも、確認しておく。

みなさん良いファミレスライフを。
ほなら。

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