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世界一!日本を愛するパラオ


日本とパラオの国旗は
とても似ていると思いませんか?
事実、パラオの国旗は
日本の国旗を元に作られています。
日本は日の丸に対し、パラオは月の丸です。
パラオの国旗の月の丸が
中心から少しずれているのは、
日本の日の丸が中心にあるのに、
自分たちも真ん中では申し訳ないと
日本に対してとても謙遜に
敬意を払ってくれているからです。
でも、どうしてパラオはそんなに
日本のことを慕ってくれるのでしょうか?
今日はそのパラオと日本の
お話をしたいと思います。


パラオは
大航海時代に発見され
スペインの植民地になります。

欧米列強の白人たちは
自分たち以外は
人間と見なさなかったこの時代
パラオの現地住民は
本当にひどい扱いを受けていました。

さらには貿易で天然痘やなどの
疫病が持ち込まれ、
その結果6万人いたパラオの人口は
たった10%の6000人にまで
激減してしまいました。

あまりにもひどかった
スペインの植民地時代でしたが
スペインが国力を失っていくと
スペインはドイツにパラオを売却します。
パラオはドイツの植民地になってからも
搾取され続けました。

その後ドイツは第一次世界対戦で敗れ、
講和会議を経て
日本がパラオを獲得することになります。

1914年パラオは
日本の移民統治領になりました。

パラオに行ってきた日本軍の代表は
現地の人にこう話しかけました。
「この島は日本に占領されることになった。
現在ここにあるものは
何も変わることなくすべて
今までのままだ。
人の財産は守るし、宗教も伝統的な習慣も、
個人の自由も保障します。」

日本も軍人は島のものを盗もうとすれば
いくらでもできたのに
なくなったものは
一つもありませんでした。

日本は言葉だけじゃなく
実際に行動していきます。
日本は
インフラ整備の遅れていたパラオに
1000人以上を送り込み、
必要なものを日本から次々と
持ち込みました。

パラオへの殖産興業に力を入れる一方で
現地の貨幣経済やインフラの整備位
発電所や工場を建て
雇用を生み出しました。

また農業技術も
パラオの人たちに教えました。
当時のパラオの衛生環境はとても悪く
実に子供の86%が赤痢やデング熱
皮膚病や結核などに感染していました。

そこで日本軍は
パラオ病院を建設して
国が無料で診察する
制度を整備しました。
この日本が行った政策により
人口も5万人へと激増しました。

また多くの学校をつくり
教育にも力を入れました。

当時日本統治時代を知る
パラオの人はこういう言葉を残しています。

「日本統治時代は all good でした
日本の皆さんは
我々と一緒に汗を流して働き
勤勉の徳を教えてくれました。
サトウキビや米の作り方を教えられ
生産に対する喜びを知りました。
スペインやドイツの植民地時代とは違って
心が通じ合いました。
自然に日本人の生活態度を学び
子どもたちは親孝行になり
治安が良くなり
泥棒はいませんでした。」

そんな中、大東亜戦争末期、
パラオは
アメリカと日本の戦場になってしまいます。

この時のアメリカの兵力は日本の4倍。
戦車は10倍。
重火器は100倍という
圧倒的な差がありました。

戦場になってしまった
パラオのペリリュー島には
こんな逸話が残っています。
その島の若者たちは日本兵と一緒に作業をし、
仲良くなって日本の歌を
一緒に歌ったりしていました。

やがて戦況はどんどんと悪くなり
アメリカ兵が上陸してきても
おかしくない状況になってきました。

そんなとき、ペリリュー島の若者たちは
自分たちも一緒に戦わせて欲しいと
日本兵の隊長に直訴します。

それを聞いた隊長は激昂しこう叫びました。
「帝国軍人が
貴様らごときといっしょに戦えるか!」

島の若者たちは裏切られた思いで
悔し涙を流しました。
船に乗って島を去る日
日本兵は誰一人見送りには来ませんでした。

若者達は悄然と船に乗り込みました。
しかし、船が島を離れた瞬間、
日本兵全員だ浜に出てきました。

そして一緒に歌った日本も歌を歌いながら
手をふって彼らを見送ってくれました。
涙で顔を濡らす兵士もいました。
達者で暮らせようと
死を覚悟した日本兵たちが
大きく手を振って見送ってくれました。

その中には笑顔で手を振る
あの隊長がいました。

若者たちは悟ります。

あの言葉は自分たちを救うために
自分たちを戦闘に
巻き込まないためだったんだと。
若者たちの目から涙が止まりませんでした。

ペリリュー島の戦いで
日本軍は圧倒的なアメリカとの兵力差から
3日で終わるとされていた戦いを
72日間、耐え、玉砕しています。

その72日間の戦いで
民間人の犠牲者は一人も
出ませんでした。

1945年日本が敗戦すると
パラオはアメリカの下に渡りました
アメリカは反日教育の刷り込みを
長期にわたって
パラオで行いました。
しかし不思議なことにこのような教育をしても
パラオの人たちはそれらを一切
信じませんでした。

特に年長者たちは
「何を言いやがる!
日本は素晴らしい!
日本の統治時代が一番良かった。」と激怒し
何があっても日本を愛していると言いました。

そして1994年
パラオはアメリカから独立し、
国旗は日本の日の丸に敬意を示した
月の丸に決定しました。

そして「日の丸の旗のもとに」
というタイトルで
36ページにわたって
日本統治時代のことを
教えるようになりました。

戦争は如何なる理由があっても
美化されるべきものではありません。
しかし、身を粉にして
他の国に尽くした日本人がいたことを
私達は忘れてはならないと思います。
自国の損得ではなく、
ただただ、その国の独立を願って
自らを犠牲にしてでも愛を注いだ日本。
その美しい日本人の心が
どうか一人でも多くの人に復活しますように。

美しい日本人精神を取り戻すために
共に歩んでくれる方を探しています。

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