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地理学研究者・小田内通敏の息子は俳優志望?

 小田内通敏は地理学の研究の先行者で、1918年に実施された神奈川県内郷村調査に参加するなど柳田国男とも交流があったことが知られている。(注1)以下の記事で柳田が永井荷風の日記である『断腸亭日乗』に登場することを紹介したが、意外にも小田内も永井の日記に登場する。該当する条を『荷風全集第二十一巻』(岩波書店、1993年)収録の「断腸亭日乗一」(1917~1926年)から引用したい。

(大正十五年)八月二四日。午前小田内通敏氏、令息を伴ひ来訪せらる。氏は慶応義塾の教授なり。同校文学部・長谷合博士を介して面会を求められしなり。用向は其令息俳優志望の事につきてなり。予は目下劇場の状況に鑑みて、俳優の家に生れざる者の軽軽しく身を梨園に投ずることの非なるを知れり。されど小田内氏既に其子の俳優たるべき事を許さるるを見ては、他人の物を容るるもいかがと思ひ、根本の問題に立入ることを避けたり。小田内氏は一見温厚の人にて、令息に対する慈愛の情言辞に溢れたり。予之を見るにつけても、又更に時勢の変遷に驚かざるを得ず。予が年少の頃には小説に筆とることさへ、世の親たちは喜ばざりしに、今日の少年は文学はおろか、公然梨園の人となることをも許さるるに至れり。(後略)

小田内は息子が俳優になることに関して相談するために永井を訪問したことが分かる。永井は小田内が息子が俳優になることを容認していることを聞いて俳優の一家外から俳優になることは厳しいという助言をしなかった。永井も述べているように、小田内は子どもの意思を尊重する父であったのだろう。

 この話は小田内の研究の中でも指摘されており、たとえば以下の論文では、「三男は通弘、文学好きで永井荷風の家に出入りしていた」と述べられている。この論文によると、通弘は戦後に国立音楽大学の事務部に勤務しており、最終的に俳優にはならなかったようである。

(注1)柳田と小田内の交流に関しては、以下の論文が参考になる。


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