ユリシーズを読む|002.ユリシーズへ至るオデュッセイアが必要そう|2021.03.11

ジョイスの『ユリシーズ』を読むことに決めたのだけども、そうすると、そもそも『ユリシーズ』を読み始めてよいのだっけ、という問題が発生する。というのも、この本は、古代ギリシャを代表する叙事詩、ホメロスの『オデュッセイア』をその構成の下敷きにしているらしい、ということを知ってしまっているからだ。

読もうとしたら、先に読んでおいたほうがいい本があらわれる。
 読書をしていると、こういうことには当然のようにちょこちょこ出会う。読書の醍醐味でもあるだろう。同じホメロスの『イリアス』は岩波文庫のものをもっており、かなり前に読んだ。岩波の『オデュッセイア』も買ったのだが、読まずに積んでしまった。松岡正剛の千夜千冊0999夜はその「ホメーロス『オデュッセイア―』」だ。千夜千冊の999話に選ばれているのだから、それだけでもこの本の格別さは伝わるだろう。でも、「初めて読む者には辛すぎる」と松岡正剛がいうような日本語訳に尻込みして、10年ほどが経ったというわけだ。とはいえ、まずは読もう。挫折したら、わすれて『ユリシーズ』にすすもう。

ホメロスとは何者か、それを紹介しないと進めないのだとすると、いきなり厄介過ぎる問題だ。そのために読まないといけない本が膨大にあるだろう。古代ギリシャの詩人にして、今日に伝わる『イリアス』『オデュッセイア』という西洋文学史を代表する二大叙事詩の成立・伝承に関わった人物だ。それ以上は、ウィキペディアに譲ろう。「」と「ホメーロス問題」の項をみてほしい。

では、『イリアス』と『オデュッセイア』(表記は色々あるが、僕が書くものはこのようにタイピングを省エネできるものに統一する)とはどういう作品なのか。これも上記のウィキペディアのリンクをみればほとんどわかると思う、が、そればかりも味気ない。『ユリシーズ』を読むのにも大事そうなので少し解説を加えると、ギリシャ神話に記述されるトロイア戦争をつたえる叙事詩だ。そう思って『イリアス』を読み始めると、唐突に戦争の最中の場面が始まってしまうので驚く。それもそのはずで、「叙事詩の環」としてしられるトロイア戦争をえがいた8つの叙事詩のうちの2つめにあたるのが『イリアス』で、7つめにあたるのが『オデュッセイア』だ。『イリアス』の前に1つ、『イリアス』と『オデュッセイア』の間に4つ、『オデュッセイア』の後に1つ、その8つで「叙事詩の環」となり完結する。でも、『オデュッセイア』の岩波版の解説にもあるように、アリストテレスは『詩学』で、ホメロスによるとされる2作とそれ以外とを区別し、明確に優劣の差をつけている。
 ギリシア人にとっては、ホメロスの2作はただの叙事詩を超えた重要なものだった。千夜千冊でも、

プラトンは「ギリシアを教育したのはホメーロスだった」と書いた。おそらく、ある時期のギリシア人にとっては『イーリアス』と『オデュッセイアー』が聖書だったのである。
(松岡正剛「オデュッセイア―」、千夜千冊 999夜より)

とある。さすがに見事な表現で「ギリシア人にとっての聖書だった」というフレーズだけで、読みたくなるべきひとは読みたくなるだろう。
 でも、『イリアス』を読んだだけだと、どうしてそれが聖書になりうるのかというのはわかりにくい。そこの保留をそろそろ前に進めるべく、やはり『オデュッセイア』をそろそろ読まないといけないのだろう。

 ところで、僕のなかでの『オデュッセイア』初体験は、ジャン=リュック・ゴダールが「軽蔑」という映画だ。この映画のなかで『オデュッセイア』とブリジッド・バルドーのお尻をならべたことは素晴らしかった。数千年という距離と権威をもつ芸術の究極のような作品と、イタリアのカブリ島の日差しの下で、個の女性が纏う刹那的な美と欲望の究極のようなバルドー。そんなものを並べて難しい顔をしている男というのは軽蔑に値する間抜けなのかもしれない。20年近く前にみたと思うので、そういう映画だったかどうかは怪しいが。この本を読み終わる前にもう一度くらい観たい。

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