見出し画像

悲しみは雪のように

父親の話をしようと思う。


うちの家は母子家庭で、私が1歳のときに離婚した。
原因はたくさんあるらしいからもうわからないけど、確かなのは、お母さんは私と兄の2人を守るためにその決断をしたということ。子供たちの未来を考えて、女手一つで子育てを全うすると覚悟してくれたということ。


離婚して以来、今に至るまで一度も父親に会ったことのない私には、父親の記憶が全くない。


かろうじて顔を知っているのは、一緒に住んでいた1年間、撮影してくれていた写真が今でも残っているから。それでも、父親に抱っこされている幼い自分の姿は、違和感しか感じないのである。それくらい自分の人生に何の影響も及ぼしていない。私にとって父親とは、その程度の存在なのである。今までも、きっとこれからも。


そんな私でも、嫌でも父親の存在を意識しなければいけなかった場面はあった。その一つが、父の日に父親の似顔絵を描く、というものだった。

保育園の頃に初めてその行事を迎えたとき、どうすればいいかわからなかった私は、お母さんに尋ねたのだ。

「ねえ、私は誰の似顔絵を描いたらいいの?」


今考えたら、とても酷な質問だったと思う。でも当時4歳くらいだった私には、とてもわからなかった。父親はいない。でも父親の似顔絵を描かないといけない。描く人次第ではお母さんを悲しませることになるかもしれない。どうしたらいいんだろう。


私の記憶が正しければ、お母さんも半ば泣きそうな顔をして返事をしてくれた。

「じいちゃんの似顔絵を描いたらいいよ。」


そっか!と思った私はじいちゃんの似顔絵を描き進めた。友達からは「あかねのおとうさん、なんでそんなにとしとってるのー?なんでかみのけはえてないのー?」と質問攻めにあったけど。(じいちゃんは薄毛だったから、忠実に描いただけだったんだけど。子供ってほんとに素直だよね。)

それでも私は誇らしかった。父親ではないけど、会いにもこないような父親なんかよりよっぽど格好いいじいちゃんの似顔絵を描けたことが。そしてその似顔絵を見せたときのじいちゃんの嬉しそうな顔を見れたことが。

友達の描いた父親の絵と並べてみても、明らかに老けていたかもしれない。それでもよかった。私はこの日に似顔絵を描く対象となる大事な人が近くにいると思うことができたから。寂しさを感じることは微塵もなかったのだ。


その後も父の日イベントはお世話になっている身近な大人の男の人を対象に感謝を伝えることで満足していたし、父親がいないことに対して悲観的な感情を持つ場面は全くなかった。全くなかったのだ。本当に驚くほどに。


父親を改めて意識したのは、大学生になった頃。

お母さんと兄と買い物に出かけたときに、父親のお姉さんに偶然会ったことがあった。そして衝撃を受けた。私と、とてもよく似ていた。顔・形・笑った顔まで、そっくりだったのだ。

それから、小さい頃の写真を引っ張り出して、父親の顔をよく見てみた。似てる。大人になった私と似てるとこ、たくさんある。口、眉毛、笑い方、そしてお世辞にも格好いいとは言い難いその容姿全体。


お母さんは、若い頃から美人と言われる部類の人だった。兄も、お母さんに似ていて小さい頃からかわいく、学生時代は妹から見ても贔屓目なしにかっこよかった。

私はというと、小さい頃からお母さんにも兄にも、どちらにも似ていなかった。「お母さん綺麗ね、お兄さんもかっこいいね、えっと・・・。」となる場面を何度も経験した。こっちだってもう言われなくてもわかってるよ!と言いたいくらい。

なるほどね。そっちに似てたんだね。なるほどなるほど。

そうなると、呪うべき相手は決まっていた。父親だ。なんという濃いDNAを残してくれたんだ。


父親に会ってみたい。本当に私に似ているのか。もう私たち兄妹のことなんて忘れてしまったのか。なぜ1回も会いにこなかったのか。もう新しい家庭を築いていることは知っている。でも私たち兄妹だってあなたの血を受け継いだ子供であることに変わりはないのに。どうして。どうして。

だんだん腹が立ってきた。これまで架空の存在だった父親が、急に色濃くなった気がした。




いてもたってもいられなくて、会いにいくことにした。
(ここから先の話は、私のことを知ってる人はちょっと内緒にしててね)


車で1時間半、そう遠くない場所に父親の勤務地があった。父親は教員をしていたから、異動発表のタイミングで勤務地を簡単に知ることができた。小さい頃から父親の存在をぼんやりと確認する手段として、異動発表の時期はこまめに新聞をチェックしていたから。そしてその上、名前で検索したらすぐに出てくるくらいには、父親はその業界で有名な教員だった。

夕方、生徒の部活動が終わって帰路に立つ時間帯、そこなら不自然になることもなく姿を見ることができるんじゃないかと思った。

迎えにきた家族と同じように車を止め、遠目に父親の姿を探す。あの大声出してる人かな。廊下を歩いてるあの人がそうかな。やっぱり学校に一報いれて、正式に会うべきだったかな。不安は尽きない。


ふと、グラウンドの向こうから、背の高い教員がこちらに歩いてくるのが見えた。暗くて顔がよく見えない。声も聞こえない。シルエットしか見えない。でも不思議と、確信に近い感覚で、あれだ、と思った。あれだ、あれが私のお父さんだ。


こちらに向かって歩いてきている。やっと会える。

なのに、会いたくない。え、ここまできたのに?やっとお話できるのに。言いたいことたくさんあるのに。会おうよ。会いたいよ。せめて一声かけて帰ろう。話そう。やっぱりできない。会いたい。会いたい。会えない。会えない。会いたくない。


反対方向を向いた瞬間、涙が止まらなかった。あんなに憎んで、あんなに会いたかったのに、目の前まできたのに、会えなかった。


しばらく呆然としていた。帰り道のことはあまり覚えていない。ただ、初めて父親の姿を直接みることができた、いや、もしかしたらあれは父親じゃなかったかもしれない、でもきっと間違いなくあの人だった、やっぱり少しでも話しておくべきだったかな、と、頭の中は整理できるわけがなかった。


それ以降、父親に会いにいこう、なんて無謀なツアーを決行することはなかったし、父親への感情がそれほど燃え上がることもなかった。諦め、に近かったのかもしれない。

これまで通り、架空の存在で、でも確かに存在してて、私のDNAを半分、いや、もしかしたらそれ以上に構成する要素を持っている人。それ以上も以下もない。


そんな頃、兄が自身のエッセイ本を出版し、その中でこう書いていた。

私が強くたくましく、世間に認められる存在になれば、それは父親に伝わるだろう。そうしたら、あなたがいなくとも、母は女手一つ、立派に育て上げたことを確認できるだろうと。


これを読んで改めて思い出したのだ
大人になってから兄妹で誓った約束が一つだけある。

”お母さんの誇りになる” 

ただこれだけを胸に生きてきた。誇れる存在になることは簡単ではないけど、そうなることでお母さんのあの覚悟は報われる。そしてお母さんだけでなく父親も安心させることができると信じて。

だから、父親に会わなくて正解だった。会っていたら憎しみの感情が爆発していたかもしれない。綺麗な思い出だけを持って過ごすことができなかったかもしれない。ありがとう、臆病な私。


父親への思いは、秘めて大事にとっておくことにした。きちんと大人になりましたよ。結婚だってしました。今ならあなたと少しでも対等にお話できるかもしれませんが、しません。してあげません。これまでのことは、私と、兄と、お母さんの物語なので。教えてあげません。邪魔しないで下さい。でも、見守っていてください。私達は、今、とんでもなく幸せなので。




お母さんが話す父親の話を聞くのが、なぜか小さい頃から好きだった。


「お父さんはね、決して見た目が格好良かったわけじゃないの。もうほんと、馬みたいな顔してるのよ。でもね、周りの人みんなに好かれてて、頭が良くて、スポーツが万能で、とても面白い人だった。学生のころからずっと、みんなお父さんのことが好きだった。お父さんの悪口言う人、聞いたことなかったな。」


「ファッションセンスがあったかどうかはね、わからない。なんてったって、馬だから(笑)でも手足が長くてスタイルはいい方だったんじゃないかな。お母さんも背が高いほうだから、背が高い人いいなって思ったもん。」


「何より歌が上手だった。ギターの弾き語りみたいなことよくやってたなあ。そういうのって、だいたい寒いでしょ?でもお父さんは本当に歌が上手だったから、お母さんはそれ聴くの好きだった。浜田省吾さんとか、よく歌うんよ。」



君の肩に悲しみが 雪のように積もる夜には
心の底から誰かを 愛することが出来るはず
君は怒りの中で 子供の頃を生きてきたね
でも時には誰かを 許すことも覚えていて欲しい
泣いてもいい 恥じることもなく 俺も独り泣いたよ



この記事が参加している募集

思い出の曲