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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(53)

〈前回のあらすじ〉
 東海道線で熱海に着いた諒は、小田原駅の駅員が言っていたとおり、鉄道会社が変わることで同じ路線でありながら乗り換えをしなければならなかった。次の列車が到着するまで、まことはホームの立ち食いそばの店で黒はんぺんが載った温かいそばを食べた。やがてやってきた列車に乗った諒は、車内に掲示された路線図を見て、清水に近づいていることを実感する。その安堵からか、今になって諒は勝手にホテルを飛び出して、黒尾とかおりを出し抜いたことを悔やんでいた。しかし、一人で始めたこの旅を、諒は自分の力で完遂しなければならないと思っていた。何事も孤独の中でやり遂げてきたただしのように。

53・そのロードバイクは直が愛用していたものによく似ていて、僕はとても懐かしい気持ちになった

 日が落ちかけ、街に明かりが灯る頃、僕は直が大学生活を営んでいた「清水しみず」という街に降り立った。暦の上では三月だったがまだ風は冷たく、僕は口元をマフラーに埋めた。もしかしたら、海風が街の方へも流れ込んでいるからかもしれない。

 僕は駅前の市街案内図を見上げ、直が通っていたT大学を探した。そこは、駿河湾の内側に釣り針のように突き出した小さな半島の根本にあった。

「どこまで行くんだい?」

 市街案内図を見上げている僕に、タクシーの運転手が唐突に話しかけてきた。様々な人を乗せて走るタクシーの運転手だから、僕が醸し出す他所者の雰囲気を何気に察知したのだろう。そうでなくても、決して観光シーズンとは呼べない三月に若い男が一人で駅前に立っていたのだ。どことなく放っておけない気持ちになったのかもしれない。

「T大です」
「あ、学生さん?」

 そう言われて、僕は逡巡した。

 歳の頃は大学生に相当したが、大学生ではなかったし、僕にはそもそも大学生になる資質が備わっていなかった。直が着ていたM65を拝借していたので、僕からではなく、M65から直の生真面目さが滲み出していたのかもしれない。

 だが、僕は福島から遠路はるばる清水まで来た訳を噛み砕いて説明するような器量が不足していたので、曖昧に「友達に会いに来たんです」とだけ言って、取り繕った。

「じつは、今晩の宿も決まってなくて」
「その友達のところに泊まるんじゃないのかい?」

 タクシーの運転手は怪訝そうに問い返した。

「友達に会うのは、明日なんです」

 僕がそう言うと、大筋を理解したというふうに大きく何度も頷いた。

「T大の近くに、個人的に親しい民宿がある。この時期なら部屋は空いてるだろうし、万が一客室が満室でも、学生用の下宿部屋が空いてるはずだから、いずれにしても泊まれるだろう」

 そう言って、アメリカの広大な砂漠でヒッチハイカーを拾うコンボイのドライバーのように、タクシーの運転手はクイッと顎を突き上げ、僕に乗車を促した。

 昨夜、かおりと仲違いをしてから、憤りに任せてシティホテルを飛び出したものの、小田原のビジネスホテルの冷たいシーツの中ではなかなか眠ることができなかった。

 おそらく、僕はその時からすでにかおりを欲していたのだと思う。正直に言えば、かおりの身体も恋しかった。一人で完遂すると決めたのに、僕の心の中には、ようやく探し当てた海底の財宝を船のへりでうっかり手放してしまい、また深い海の底に沈ませてしまったような虚無感が居座っていた。だから、電車に揺られていても、脳裏に柳瀬結子やかおりの面影がちらつき、うたた寝も浅く、気も心も休まることがなかった。

 タクシーに乗ると、運転手が早速ハンズフリーで知人の民宿へ電話をしてくれた。もしかしたら、他所者だと見抜かれたことで、運転手がバックマージンで懐を肥やせる粗末な民宿に案内されるのではないかと不安にもなったが、旅行券を手放した僕に贅沢を言える権利はなかった。何より、今の僕は寒さをしのげて眠れる場所さえあればよかったのだ。

 通話を終えたタクシーの運転手は、バックミラー越しに僕を見て、「部屋があって良かった」と僕をねぎらってくれた。僕は生け捕りにされて逆さ吊りにされたまま山裾に運ばれていくイノシシのような諦めと安堵の入り交じる気持ちで、後部座席の硬いビニールシートに沈み込んだ。

 民宿の前でタクシーを降りると、後部座席のドアを閉めたタクシーは、半島の突端に向けて数百メートル走ってからブレーキランプを灯し、二車線の直線道路の上で、大きな半円を描いて折り返した。

 路側帯まで膨らんでUターンをしたタクシーがヘッドライトをこちらに向けると、その車線の端を自転車で走ってくる女の子の姿が浮き上がった。その女の子の手足は長く、軽快に早春の夜の風を切るロードバイクのサイズによく似合っていた。そのロードバイクは直が愛用していたものによく似ていて、僕はとても懐かしい気持ちになった。

 タクシーの運転手が再び民宿の前を通り過ぎるとき、ちょうど建物から民宿の女主人が出てきて、運転手が鳴らした短いクラクションに片手を挙げて応えていた。

「寒かったでしょ。さ、中に入って」

 女主人は、まるで遠方から来た甥を受け入れるみたいに、親しげにそう言ってくれた。

 そのとき、冷たい風とともにさっきのロードバイクが僕らの脇に滑り込んできた。

 自転車はそのまま民宿の勝手口あたりまで進み、自転車にロックをすると、その持ち主は「ただいまぁー」と快活に言いながら、勝手口に入っていった。そういえば、タクシーの運転手が民宿では学生の下宿も受け入れていると言っていたことを僕は思い出した。おそらく、彼女はここに下宿しているT大の学生なのだろう。

 正面の玄関から民宿に入ると、そのまま女主人が僕を二階の客間へ案内してくれた。僕の母親よりも幾分若いくらいの歳に見えたが、すらりと背が高く、ジーンズとスウェットパーカーという装いが、とても良く似合っていた。

「ご飯どうする?食べるなら、用意するけど」

 女主人は気さくにそう言ってくれたが、僕はとにかく眠りたいと伝え、脱いだM65だけをハンガーにかけると、布団も敷かずに座布団の上に倒れ込んだ。

「もしも、お腹が空いたら、作り置きの煮物くらいならすぐに出せるから、声をかけてね。宿泊台帳もその時書けばいいから」

 そう言いながら、女主人は手際よく僕が倒れ込んだ座布団の隣に、きれいなシーツに包まれた布団を敷いてくれた。

「ありがとう……、ございます……」

 女主人が柔らかい微笑みを残し、部屋の明かりを消して部屋を去ると、僕は布団に潜り込んで、瞬く間に深い眠りに落ちた。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(54)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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