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人権は、絶対善なのか。

私は人権擁護派です。
そういう立場で生きてきましたし、日本国憲法の3原則、
国民主権、平和主義、基本的人権の尊重が大好きです。

憲法25条では「健康で文化的な最低限度の生活」を保証しており、
それは「生存権」と呼ばれていますよね。
人権は本当に大切なものです。

何より、私にとって重要だと考えられるのは「人間の尊厳」です。
尊厳というのは、
決して他者が犯してはならない「人間らしさ」だと思います。
上記、憲法25条が重要なのは、
生存権として「健康で文化的な」と規定していることで、
我々はこの二つが揃うことで何ができるようになるかというと、
「自分で考えることができる」のだと思っています。

権力によって人格を蹂躙されないようにするには、
自分の頭で考え、自分の意志や意見を持つ必要があります。
そのような状態が保てるということは、極度に貧困になったり、
極度に生活環境が悪いというようなことが回避されなければなりません。

極論で言えば、人間にとって必要な「生きる環境」とは、
自分で考えることができる余裕のある環境なのであって、
それが維持されるということが、人間の尊厳を維持するということです。
人間の尊厳が保たれないのであれば、
もはやこの世に生きている意味はありません。

たとえ衣食住になんの不満がなかったとしても、それは尊厳を保つため、
つまり、自由に考えることの土台にしか過ぎないのであって、
自由に考え、行動することができないのであれば、
そこに尊厳はありません。

思想や思考の自由があってこそ、人間の尊厳は保たれます。
それが「健康で文化的」ということであり、
それほど人間の尊厳とは重要なものです。

・・・というように「人権」の重要性は十分に理解した上で、
敢えて「人権とはなにか」、もっと踏み込んで言えば、
「人権を守ることは絶対善か」という問題について考えてみたいのです。

なぜなら、人権は自然に存在しているものではなく、
人間が思考の中で生み出した人工物だからです。

人権という概念が世界に定着したのは第二次世界大戦以降だと思います。
1945年以降ということですね。
もちろん、ある日突然、降って沸いたわけではないので、
それ以前から萌芽はあったはずですが、
人類が経験した二度の世界大戦と「人権」の成立は深く関係しています。

なぜ人権について考えたいか、というと、
人権はどこまで「絶対的」なものなのか、ということが、
ときどきわからなくなるからなのです。

ここでは大雑把に、一人ひとりの人権を擁護する考え方を個人主義、
全体の利益のために
個別の人権を無視する考え方を全体主義と呼ぶことにします。

個人主義は思想や行動などについて個人の自由を重んじるものですよね。
そこでは「一人ひとり」が重要です。
それに対して、全体主義では一人ひとりの意見より、
全体の利益が優先されます。
全体の利益のためには、個別の利益は無視されます。

こう考えると、圧倒的に個人主義の方が優秀のように見えますが、
実際には個人主義は全体の利益を無視するという傾向もあるので、
高い視座からみれば、利害の点ではどっちもどっちかも知れません。

近年、様々な社会課題が問題視されていますが、
その中の一つに、地域コミュニティなど、
人と人のつながりの欠如が言われています。
つい最近も、高齢者が児童公園の騒音を理由にして不満を訴え、
それが理由で公園が閉鎖されるという話が持ち上がっていますよね。

このようなことが起こる原因の一つに、
地域コミュニティの崩壊があります。
人間は、知り合いのすることは許せても、
知り合いでない人間のことは許せないという
面白い感情を持つ生き物ですから、
その老人が子供たちと普段からつながりがあれば
そのような問題は防げた可能性があると思います。

騒音は耳の鼓膜を揺らす音波ではなくて、
その音波を脳が判断した結果、不快だと思った音です。
子供たちの笑い声が騒音になるか、それとも幸福の音になるかは、
それぞれの心が決めているものであって、
決して音のデシベル数で決まるものではありません。

自分の孫の泣き声は許せても、
他所の子の泣き声はうるさいと感じるかも知れません。
人間の主観など、そんなものなのです。

ですから、人間同士ができるだけいいイメージで知り合いであることが
お互いを許しあうための土台として重要なのです。

もちろんここでいう「知り合い」というのは
ちょっと顔を知っているという程度のことではありません。
そして、先の例のような近年顕著な
「他者を許さない」という傾向の根源に、
実は「いき過ぎた個人主義」があるのではないかと、私は思うのです。

これは非常に残念なことなのですが、
人は個人の権利が守られるようになったことがきっかけとなって、
ほんのちょっとしたことでも権利を主張し、
不満を言うようになっています。
本来は個人の自由というものを得て、
幸せになるために存在した個人の権利が、
「不平・不満」の気持ちを増幅する装置になってしまう。

個人の権利を知るようになる前は我慢できた他者の行為が、
今は我慢できないものになっている。

そういう現象が起きている。

それは心の平穏を奪われている状態なのであって、
決して幸せとは言い難いものです。

そう考えると、「個人の自由」や「人権を絶対的に擁護する」という姿勢は
本当に人間を幸せにするのだろうか?という疑問が浮かぶわけです。

この不寛容の傾向は、
このままではどこまでも先鋭化していくことになります。
そしてその先に待っていることは、
互いが互いを決して許さない社会であり、
それはつまり、人間社会の「崩壊」と同義なのです。

ダイバーシティやインクルージョンは非常に重要です。
が、そのことを声高に言っている人ほど、実は多様性を否定していて、
世の中を画一的にしようとしてしまっていることに気づいていません。

本当のダイバーシティとは、
必ずしも皆が笑顔で繋がっている社会ではなくて、
自分とはちがっている人々を許容する社会のことです。
皆が自分の不満に折り合いをつけ、ある程度は我慢してやりすごす、
「鈍感力」を身につけた社会のことです。

一人の人間にとって、不満がまったくないという状況はつくれません。
不満は一定程度あるものだ、ということを前提に、
目先のちがいを受け流し、みんなで力を合わせて生きていくのが
本当のダイバーシティだと思っています。

他者を許容するスキルを身につけることが重要なんですね。

国のために死ねという価値観は、戦中までは当たり前のものでした。
そしてそのことが原因となって、
戦後社会は極端なまでの個人主義に走ってしまいました。

戦前のような全体主義は、もちろんあってはならないものだと思います。
それは人間の尊厳を踏み躙る社会だからです。
私たちには一人ひとりに意志があり、
生きる権利、幸福を追求する権利がある。
そのようなものを、国家や権力の大義の犠牲にされることは
好ましいとは言えません。

なぜなら、誰もがアイデンティティとしている「国家」という概念すら、
人間が近年になって生み出したものであって、
絶対的なものではないからです。
近代国家などという概念は、それ以前には存在しなかったのですから、
これから後、消えていく可能性もあります。

我々の暮らすこの地球は、
プレートテクトニクスという現象によって常に大陸が動いています。
今の地球は、偶然、今の大陸の配置になっていますが、
大昔はパンゲアというひとつの大陸だったし、
今から二億年後にはアジアを中心にすべての大陸がひとつになって
「アメイジア」という巨大な大陸を形成するそうです。

全部、ひとつにくっついてしまうのですよ。
中国もアメリカも、ひとつにくっつくのです。
二億年後のことは関係ない、と思うのだとしたら、
それはすでに人類の持続可能性を諦めているということですよね。

我々人類は、種としての人類を残していくという
ミッションからは逃れられません。
いや、逃げてもいいのですが、それには種全体の合意が必要です。
しかし、人類に種としての大義があると考えると、
それはまた全体主義という思想に染まって
個人は軽視されやすくなってしまいます。

バランスがなかなか難しいということです。

私が最近思うのは、個人主義も全体主義も、
いきすぎるとどちらも危険だということです。
それはまた、どちらが正しいという絶対の正解がないことを示しています。

この「正解がない」ということを受け入れることが、
人類にとってはだいぶ難しい考え方のようですね。
でも、それを受け入れるしかないのです。

「人権を守る」ということは、二面性があります。
自分の人権を守ることと、他者の人権を守るという二面性です。

人権というと多くの人が自分の人権の話をしますが、
世界が平和になるには、それぞれの一人ひとりが「他者の人権」について
自分ごととして考えるようになる必要があると思うんですね。

人間は一人きりでは生きていけない。必ず他者との繋がりが必要です。
しかし、人と人が繋がれば、そこに社会が生まれ、
一人きりのときにはなかった心のストレスが発生します。

そのストレスは避けることができないものであって、
それといかに向き合うかというスキルは、
それぞれが身に付けなければいけないのだと思います。

それは人を好きになるスキルだったり、
好きではない人を嫌いにならないようにする
スキルなのかも知れないですね。

個人主義と全体主義は、バランスを保った状態で両方が必要です。
どちらかにいき過ぎたなら、反対側に引っ張り戻す必要がある。
人が恒常性を保つために、
交感神経と副交感神経が引っ張り合うのと同じです。

だから敢えて語弊を承知でゴロッとした言い方をしますが、
「人権」が絶対善ではない、ということを忘れるべきではありません。
絶対善というものが存在しないのです。
だからこそ、しっかり考える必要がある。
「人権」が危険な刃になることもあるということを。

そのことをしっかり理解した上で、どんな考えも先鋭化させることなく、
絶妙なバランスの中で
「人間の尊厳」を遵守しなければならないのだと思います。

伝わるでしょうか。

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