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横須賀で起きている奇跡の実話 〜最高の幸せは犬・猫とともに〜

 うららかな春の昼下がり、リビングのテーブルを囲んでふたりの入居者が話し込んでいた。
「ほら、あそこ、もう桜が咲いているよ」
「え~、いやだね。チラチラと季節外れの雪なんてね」
「えっ、雪? 雪が降っているの? 花冷えかしら。寒いわね~」
「ああ、雪じゃないわ。桜吹雪かしらね」
 認知症のふたりは、微妙にずれているのか、かみあっているのか、よくわからない会話をして盛り上がっていた。
 そのテーブルの空いている椅子に、ストンっと文福(ぶんぷく)が飛び乗った。
 文福は中型の柴犬系の雑種である。保健所から来た元保護犬であるため、野良犬出身の可能性もある。昔の日本の田舎なら、どこにでもいた雑種の野良のワンコみたいな、懐かしい雰囲気を持っていた。俺も話に入れてくれよと言わんばかりに身を乗り出すのだが、自分の話に夢中になっているふたりの入居者はまるで気がつかない。
 ねー、ねー、俺のことも構ってくれよ!
 とうとう文福は、手を伸ばして、隣の席の入居者をツンツンしだした。
「あら~、文福ちゃん、可愛いね~」
 途端に入居者の関心は、会話から文福に切り替わり、両手を伸ばして文福の頭や肩をワシャワシャと撫でまわした。
「ワンッ」
 文福は喜んで入居者の顔をなめ回す。
「~んーっっっ」
 入居者が嬉しそうに悲鳴を上げる。文福も超嬉しそうだ。
 こういうときの文福の顔は、本当に満面の笑みに見える。文福に会った全ての人が魅了される最高の笑顔だ。

*        *        *

「ワフッ」
 ユニットの玄関の扉が開く音を聞いて、文福は椅子から飛び降りた。
 ワンッ、ワンッ、と元気に声を上げながら玄関に走っていく。その後ろを、文福と同じ保護犬出身・雑種の大喜(だいき)が続く。お爺ちゃん犬のミニチュアダックスフントのジローも、喜び勇んでヨタヨタと走っていく。2の1ユニットの介護リーダー・坂田弘子が、車椅子の入居者と一緒に、入浴介助から戻ってきたのだ。
「よ~し、皆、もう吠えない」
 坂田が指示をすると皆ぴたりと鳴き止んで、一斉にお座りをした。
「よし、皆、いい子だね。じゃあ、おやつをあげようか」
 冷蔵庫のところで坂田が声を上げると、ワンコたちは皆、喜んで集まってきた。
 ついさっきまで、入居者のベッドのなかでまどろんでいたトイプードルのココもいる。飼い主さんの部屋のなかで、扉をがりがりやって、出してよっ、とねだっていたヨーキー系のミックス犬のミックもいる。1年ほど前までは、超怖がりで、自分では飼い主さんの部屋から出ることもできなかったキャバリアのナナが、文福や大喜など大きなワンコを押しのけて、ちゃっかり先頭に座っている。
 坂田が自家製の寒天を配ると、ワンコたちは大喜びでパクついた。健康のためになにも味がついていない寒天なのだが、文福もナナも皆それが大好きなのだ。
 坂田が寒天の入ったタッパーを手にしてリビングを歩くと、6匹のワンコがぞろぞろとついていった。まるでハーメルンの笛吹き男のような光景だ。そして坂田が立ち止まると、ワンコたちが皆2本足で立ち上がった。今度はまるで、コントのような風景だった。
 入居者たちは毎日その光景を見て、大声で笑っていた。
 おやつをもらって満足した文福は、お昼寝をしていた入居者のベッドにボスっと飛び込んでいった。お腹を出してゴロゴロして、掛け布団をくしゃくしゃにしてしまう。そのおかげで起こされてしまった入居者は、怒るどころか大喜びで文福を撫でていた。
 底抜けに天真爛漫な文福は、入居者全員から愛されていた。文福のおかげで、ユニットはいつも笑顔にあふれていた。笑い声の中心にはいつも文福の笑顔があった。
 このお話は、神奈川県横須賀市にある特別養護老人ホーム『さくらの里山科(さとやましな)』で暮らす犬や猫と高齢者の絆が起こした小さな奇跡の物語である。

 このお話の舞台である特別養護老人ホーム『さくらの里山科』は、4階建て全120床で、完全個室制・ユニット型になっています。2〜4階が居住フロアで、各フロアにユニットが4つずつあります(計12ユニット)。犬・猫と暮らせるのは、2階にある4つのユニットです。
◉犬と暮らせる=2の1、2の2ユニット
◉猫と暮らせる=2の3、2の4ユニット
 犬ユニット、猫ユニットのなかでは、犬、猫は完全に自由に暮らしています。入居者の部屋にもベッドにも好き勝手に入ります。ホームの庭はドッグランになっており、2階のユニットから直接出入りできます。

看取り犬・文福 ─奇跡の保護犬─

 2の1ユニットのリーダー・坂田弘子が文福の不思議な能力に気がついたのは、ホームがオープンして2年近く経ったころだった。
「なんだか文福は、今日はずーっと井上ヤスさんのお部屋の前にいますね」
 介護職員どうしの何気ない会話が、坂田の脳裏を刺激した。なにかが頭の隅に引っかかっているのだが、思い出せない。
「ほんとね。なんだか項垂れていて、悲しそうな感じじゃない?」
 え? 部屋の扉の前で項垂れている?
 悲しそう?
 それは確か……。
 半年前のことを思い出していた。半年前に逝去された一条さんの部屋の前でも、文福は悲しそうに項垂れていたではないか? さらのその数カ月前に逝去された三春さんの部屋の前でも……。
 思い出す限り、これまでユニットの入居者が亡くなった場合は、文福はいつも部屋の扉の前で項垂れていた。悲しそうにしていた。
 入居者が亡くなったあとのことではない。亡くなる直前のことだ。文福はいつも、入居者が逝去される2~3日前に、部屋の扉にもたれかかるようにして、座っていたのだ。
 心がざわめくのを感じた。続いて心の底から温かい気持ちがわき出してきた。もしかしたら文福には、入居者の最期が近いことがわかるのだろうか? そして入居者を看取ろうとしているのだろうか?
 坂田は、文福の行動を注意深く観察することにした。このときユニットは、入居者の井上ヤスさんの看取り介護体制に入っていて、大変忙しい状況だった。坂田にも余計なことをしている余裕などなかったが、なにしろ文福は看取り介護の対象である井上さんの居室の前にいるのだ。介護をする際には必ず目に入るので、少し意識しておくだけで、観察は可能だった。
 文福は、そこから半日間、部屋の扉の前から動かなかった。ずっと悲しそうに項垂れていた。その様子を見て、職員のあいだにざわめきが広がった。これまで見過ごしていたが、明らかに文福の様子は普通ではない。文福の悲しみが感じ取れた。
 半日が経過したとき、職員が井上さんの部屋に入ろうとすると文福がついてきた。それまでは、職員が何回も出入りしても扉の前から動かなかったのに。いや、そもそも文福は扉を自分で開けることができる。それなのに居室には入らなかったのに、なぜかこのときは一緒に入ってきたのだ。
 部屋に入ると文福はベッドの脇に座り込んだ。座り込んで、じっと井上さんの顔を見つめていた。そのまま動こうとしなかった。
「文福、出ないの?」
 もはや水を飲むこともできない井上さんの唇に、濡らしたガーゼを当てて湿らせ、少し顔を拭いたのち、職員は部屋から出るときに声をかけた。しかし、文福は動こうとしなかった。ちらっと職員に訴えるような視線を投げかけたあと、すぐに井上さんに目を戻した。そのままひたすら見つめ続けた。
 ベッド脇での文福の見守りは、やはり半日間続いた。
 この段階になると、坂田の胸のなかには、確信に近い思いが生まれていた。文福は間違いなく、井上さんの最期が近いことを察して見守っている。これまで可愛がってくれた井上さんに別れを告げようとしているのだろう。あるいは、井上さんがひとりで旅立つことがないよう、最期までそばにいるつもりなのかもしれない。
 翌日、文福はベッドに上がると、井上さんの顔を慈しむようになめた。井上さんの表情が緩む。ワンコユニットに入居を希望したのだから、井上さんも大の犬好きである。意識はなくても喜んでいるのだろう。
 そこから文福は、井上さんにぴたりと寄り添った。離れるのは、トイレやご飯のときだけで、ずっと寄り添い続けた。
 翌日、井上さんは穏やかに旅立たれた。文福は井上さんの最期を看取ったのだ。

*        *        *

 いつも元気いっぱいの文福は、その陽気さと、最高の笑顔が入居者に愛されている。普段は寂しそうな様子を見せることはないが、看取り介護の対象者に寄り添うときは切なそうな表情を浮かべる。
 ユニットで、井上さんの次に入居者が逝去されたのは半年後のことだった。そのときも、まったく同じ行動をとっていた。逝去される3日前に、部屋の扉の前で項垂れていた。半日間扉の前にいたあと、部屋に入り、ベッドの脇に座って入居者を見守っていた。逝去される2日前にベッドに上がり、入居者の顔を慈しむようになめ、そこからはずっと寄り添っていた。
 その次の方も、さらに次の方も、文福がベッドに上がり、顔をなめて、寄り添い始めてから2日以内に逝去された。
 文福はただ単に入居者の最期を察知しているだけではない。明らかに入居者の最期に寄り添うという意思を持っていた。
 坂田はこの文福の看取り活動を見るたびに、言い知れぬ感動を覚えていた。
 文福は保護犬、つまり保健所で殺処分予定だった犬である。翌日には殺処分になるという、まさに死の寸前で、動物愛護団体の『ちばわん』に救われたのだ。『ちばわん』が保健所で撮影した文福の顔は、いまとは似ても似つかぬものだった。暗く引きつった絶望の表情が浮かんでいた。
 かつて人間に捨てられ、命を失いかけた文福が、こうして高齢者の最期を見守るために全力で尽してくれるとは……。
 坂田は心から感動していた。
 いや、おそらく文福は、人に見捨てられ、ひとりぼっちで死の淵に立ったからこそ、死に向かい合う不安を理解しているのだろう。だから入居者をひとりで旅立たせないよう、最期まで寄り添って、見守ろうとしているのかもしれない。
 文福の看取り活動は、老人ホームで高齢者とペットが共生できることを、共生することに意義があることを、職員に確信させた。

*        *        *

 文福の看取り活動がもっとも輝いたのは、佐藤トキさんが逝去された際のことである。
 佐藤さんは、ホームに入居した時点で重度の認知症だった。認知症の症状は色々あるが、佐藤さんは理解力や判断力の低下に伴い、感情の動きもなくなってしまうタイプだった。入居したときから暗く固まった顔をしており、その表情はほとんど変わることがなかった。身体機能は衰えていないので、家族が声をかければ反応し、指示に従ってご飯を食べたり、歩いたりすることはできるが、自分から自発的に動いたり、声を発することはほとんどなかった。もう家族の顔も名前もわからなくなっているとのことだった。
 息子さんたちは、大の犬好きで長年犬を飼っていた母親が、犬と一緒にいられる老人ホームで暮らせば、いくらかはイキイキするのではと、一縷の望みを『さくらの里山科』に託したのだ。
 そんな佐藤さんの顔に、ほんのわずかだが笑顔らしき表情が浮かんだのは、入居2日目のことだった。椅子に座っている佐藤さんの正面で文福が立ち上がって膝に抱きつき、食卓の下からにょきっと顔を出したのである。佐藤さんは、かすかだが間違いなく微笑んでいた。
 佐藤さんが自ら声を発し、腕を差し伸ばしたのは、入居5日目のことである。
「ポチや、ポチ」
 文福はポチと呼ばれたにもかかわらず、尻尾を振りながら駆け寄ってきた。ばふっと椅子の横から佐藤さんに抱きつき、頭をぐりぐりとこすりつけた。
「おお、ポチ、ポチ」
 佐藤さんの顔に、今度は誰が見てもわかる笑いが浮かんだ。
 入居から1週間後、面会に訪れた家族は、信じられない光景を目にすることになる。
「ポチや、ポチ。どこに行ってたのよ~。探したのよ~」
 佐藤さんが顔をくしゃくしゃにして涙を流しながら文福を抱きしめていたのだ。
「母があんな顔をできるなんて信じられません。ここに入居させてよかったです」
 息子さんは、うっすらと涙を浮かべながら、坂田に向かって深々と頭を下げた。
 しかし、息子さんたちは1カ月後、さらに驚愕することになる。
 佐藤さんの状態は、日に日によくなっていった。2週間後には「ポチや、ポチ、どこにいるの?」と、文福を探してユニット内を歩き回るようになった。文福は、佐藤さんがポチやと声を出すと、すぐに駆け寄ってくる。それを佐藤さんはしっかりと抱きしめ、やさしく身体を撫でていた。
 ポチとはもちろん佐藤さんが昔飼っていた犬の名前である。息子さんたちがまだ幼いころ飼っていた犬だそうだ。文福と同じ柴犬系の雑種だが、文福よりはひと回り小さく、あまり似ていないと息子さんたちは言っていたが、佐藤さんは自分の愛犬のポチだと思い込んでいた。
 しかし、驚くべきことに、3週間後には佐藤さんは「文福」としっかり呼びかけていた。いま、自分がお気に入りの犬は文福であると、現実が認識できたのだ。目覚ましい回復ぶりだった。
 そして、入居1カ月後に息子さんたちが面会に訪れたときに奇跡が起きた。
「あら、幸一、来てくれたの?」
 佐藤さんは澄んだ目で息子さんを見つめ、嬉しそうに名前を口にしたのである。なんと、顔と名前がわかったのだ。
 信じられない事態に息子さんは絶句した。
 認知症はまだそのメカニズムが解明されておらず、治療法も見つかっていない。治療薬は色々と研究されているが、そのほとんどが認知症の進行を予防するもので、回復させるものではない。認知症は現代の不治の病なのだ。もちろん、環境の変化や、周囲の働きかけ、音楽や手工芸などの様々な活動によって、一時的に症状が回復することはある。とはいえ、これほど劇的に回復することは、20年近く介護の仕事をしてきた坂田も見たことがなかった。
「お袋、俺のことがわかるの?」
 息子さんは人目もはばからず号泣した。もう二度と母親とまともな会話をすることはできないと思っていたのだ。
 それから約1年半のあいだ、佐藤さんは本当に幸せそうだった。
「私は犬が大好きで、子供のころからずっと飼っていたの。でも70を過ぎたときにあきらめてね。そこから10年以上、犬と暮らしていないの。とても寂しかったわ。こうしてまた犬と一緒に暮らせるなんて夢みたい」
 また犬と一緒に暮らせるなんて夢みたい。それが口癖だった。文福を撫でながら、いつもそう言っていた。
 佐藤さんのそばにはいつも文福がいた。もちろん文福は全ての入居者のそばにいる。分け隔てなく入居者全員に甘えたり、じゃれついたりしているのだが、佐藤さんが文福を求めると必ずすぐそばに来た

*        *        *

 佐藤さんの体力はゆっくりと衰えていった。取り戻した犬との絆、家族との絆は失われなかったが、認知症は進行し、色々なことができなくなっていった。とうとう、起き上がれなくなり、ベッド上で暮らすようになった。
「息子たちには悪いけれど、私は文福に看取ってもらいたいの」
 寝たきり状態になっても、佐藤さんはいたずらっぽく笑っていた。そのベッドに文福はよく潜り込んできた。まだ看取り活動を行っているのではない。普通に佐藤さんに甘えていた。
「ほら、文福、おいで~」
 寝ている佐藤さんの肩に頭をこすりつけてくる文福を抱きしめる光景は、とても微笑ましいものだった。職員たちはその光景を見るたびに笑い声を上げていた、うっすらと涙を浮かべながら。
 そして、ついに文福が部屋の扉の前で項垂れるときが来た。それまで自由に出入りしていたのに、けっして部屋には入らなかった。悲しそうにずっと項垂れている。
 半日後、文福はゆっくりと部屋に入るとベッドの脇に座り、じっと佐藤さんの顔を見つめた。それまではしょっちゅうベッドに上がり込んでいたのに、けっして上がらなかった。
 翌日、文福はそっとベッドに上がると、佐藤さんの顔を慈しむようになめた。
「ありがとう、文福」
 かすかに佐藤さんの唇が動いた。ごくごくかすかだが、口元には微笑みが浮かんでいた。もう話はほとんどできなくなっていたのだが、間違いなく佐藤さんはそう呟いた。
 そして、息子さんたちに見守られながら穏やかに旅立った。その枕元には文福が寄り添っていて、ひたむきに見つめていた。佐藤さんは希望どおり、文福に看取られたのだ。
 佐藤さんが入居してから逝去されるまでの日々は、奇跡的な出来事として、いまでも職員の記憶に残っている。

『さくらの里山科』では、100名の入居者のうち、年間30名以上が逝去されます。これは、重度の状態の高齢者が入居する特別養護老人ホームとしてはごく標準的な数字です。入居者100名が10名のユニットに分かれて暮らしているので、ひとつのユニットでは平均して年間3名前後が逝去されます。そして逝去される入居者の大部分が、ホームでの看取りを希望していました。看取り介護は、医師から余命いくばくもないターミナル(終末期)状態であると宣告されたときに始まります。30分~1時間おきに対象者の居室を職員が訪れ、安否を確認し、身体を拭く、唇を湿らせるなどの介護をします。通常に比べて職員が行う介護業務は大幅に増えるので、看取り介護体制に入ると、ユニットの介護職員は大変忙しくなります。


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