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「幸せ」を目指すのは、現実論なわけ

自分が所長を務める介護事業所において、2つの目的を置いている。
1.全員にとって居心地が良い場にすること
2.より良い人間関係を構築すること

ようするに「みんなが幸せに過ごせるようにしよう」ということ。
こういうことを言うと、どうしても「理想論だ」とか「抽象的だ」とか思われやすい。「幸せって人によって違うよね」みたいな話で、イメージがばらついてしまうことで、規則を守ることや具体的な業務指示を守ることのほうがどうしてもフォーカスされてしまう。

でも、それでも「幸せ」を目指すと伝えているのは、理由がある。
それは、介護があくまでも暮らしに必要なツールの1つでしかなく、介護を軸に暮らしや仕事を考えると”まずうまくいかない”からだ。

ツールってなんだろう。
単純に言えば道具のこと。お金だってツールだし、爪切りだってドライヤーだってツールだ。
お金がとても人気があるのは、とても汎用性が高いツールで、いろんなことに代替することができて、幸福感を得やすいツールだということをみんなが知っているから。
でも”お金だけあっても幸せになれるとは限らない”ことも、実はみんな知っている。爪切りだけ高品質でも幸せになれないのは誰でもわかる。
そして、介護も同じなんだ。

それでも、自分たちの仕事が介護であり、特に入居型の施設や高齢者住宅等で働くと、その中でどうしても介護を軸に利用者の生活と自分たちの仕事を組み立てたくなってしまう。
爪きりのことだけ考えてどれだけクオリティを高めても、暮らしは良くならないことは誰でもわかる。でも、介護は生活の多様なところに関わる分、なんだかそのクオリティだけがんばれば「あとは仕方ない」と思ってしまいやすい。
でも、脚が不自由な人が車椅子に乗せてもらえれば、手が不自由な人がご飯を食べさせてもらえればそれで幸せに暮らせるかといえば、そんなわけないんだ。

ではどうすればいいのか。
オムツ交換を上手にやる。移乗介助も丁寧にやる。身体の仕組みを知り、観察力を上げ、高いクオリティの介助をひとつひとつ集めようとしても、まずうまくいかない。
そもそもクオリティを高めることに興味がない人はたくさんいる。そんなことをしなくても、決まった時間に起こしてご飯を食べさせて排泄介助をすればお給料は貰える。それでいいじゃないかと。それだけで良いわけがない利用者のことは見ない。「それ以上は介護の仕事じゃない」「施設だし仕方がない」と線を引く。
そして、線を引いた結果、利用者はなかなか幸せには暮らせず、介護職はなんとなく幸せじゃない人達を相手に日々介助をする、なんとなく幸せじゃない仕事になっていく。
どこかで「介護施設で幸せな暮らしなんて無理だ」「介護の仕事ですごく充実するなんて無理だ。ある程度まじめにやって、あとはお給料をもらえればいい」と思っている。そして、動機づけが得られない仕事の中で、嫌なことがあると辞めていってしまう。

話しを戻す。
なぜ「幸せを目指す」と言うのか。
これは、理想論やキラキラとして形のないものを目指したくて言っているわけじゃない。
ある程度オムツ交換はきちんとやればいい、とか、身体の知識は多少自信があるとか、そういうことではなく「トータルで」心地が良い時間を提供するということを目的とするということだ。全体を見ることが大事。
トータルで考えるということは、例えオムツ交換が上手かろうが発熱対応がきちんとしていようが、利用者さんが、自分たちが、なんとなく幸せじゃない空間だなってみんなが感じていれば、それは成果が出ていないということ。
逆に言えば、みんな居心地よく過ごせていると感じられるのであれば、小さな課題があるのは全然構わない。それこそ直していけばいいから。

野球で例えると、バッティング練習をしようとか、守備が上手くなろう、ではなく、まず「甲子園に行く」とか「優勝する」とか、全体としての成功を明確に共有するのが大事だということ。
甲子園を目指して過程を過ごして、すでにある程度結果が出ているチームが、ある日全然やる気がなくてひどい日を過ごしたとしても、それでも弱いチームよりは全然強いんだ。
だから、トータルで成果が出ているのであれば、小さな過失は都度修正すればいい。逆に、小さな事ばかりこだわっていても、そもそもトータルで成果は出ない。これは介護の仕事でも同じなんだ。

全体の目的を共有しないまま個々のスキルを上げても、ある人はバッティングだけ拘る。ある人は規則を守ることをがんばるとか、どうしても自分が好きなことにフォーカスするようになるし、そうなると自分が好きなことをきちんとやってない人のことを批判するようになる。
あいつは守備練習をちゃんとやらない。いやあいつこそ筋トレをきちんとやらない。自分はこんなにやっているのに、と。
「本当に甲子園へ行く」ということを目的として共有できていれば、一人ひとりが過程の大切さを考えるので「好きなことだけをやるとか、他人の批判をしていても強くなれない」と理解できる。むしろ、強くなるために、コミュニケーションを取るようになる。そうしないと、自分の目的=全体の目的へ近づかないからね。

介護の仕事は、野球等に比べて「何が成功なのか」がとてもわかりにくい。
試合に勝つとかもなければホームランもない。甲子園もない。なので、オムツがまっすぐついているとか、丁寧になのに速いとか、何人やったとか、日々の中で誰にでも見てわかる作業のクオリティや仕事量に価値を付与してしまいやすい。
上に書いた、野球で自分が拘りたいことだけやっても強くなれない話しそのままになってしまいやすい。マジョリティの職員たちが「仕事量が大事」と思っているからといって、仕事量をみんながクリアすれば良い事業所になるかといえば、ならない。
だから、全然上手くいってない施設にも実はすごく仕事ができる人とかすごく優しい人とかけっこういたりする。でもうまくいかない。なぜなら、全体が何を目指しているのかが共有されていないから。どこかで「施設で幸せは無理だ(甲子園なんて無理だ)」と思っているから。
そうすると、高い能力を持つ人も、本当に宝の持ち腐れになってしまう。
マネジャーは、めんどくさがらずに「本当に良いものを目指そう」「その方があなたたちが幸せに過ごせる」と堂々と言わなければいけない。そして、言ったことを実践しないといけない。

じゃあ、幸せを目指そう、甲子園を目指そうと言えば行けるのか。そんなわけはない。
そうなるために必要な環境を整え、必要なものを揃え、一人ひとりが目的へ向けて力を発揮できるようにマネジメントしないといけない。これは本当に難しい。
それでも、何を目指してやっているのかがわかっていなくて、自分たちがそこで本当に幸せを感じることは不可能だと思っていて、自分の線引きの範囲で仕事をして賃金を貰えればいいやと思っているよりは、目的が明確な中で困難があるほうが遥かに修正しやすい。
全員じゃなくても、3分の1の職員でも目的を本当に共有できていれば、成果へ向かうための修正力が遥かに高くなる。

「幸せ」を目指すのは、極めて現実的な目的論であって、キラキラの妄想論じゃない。
むしろ、賃金だけもらってあとは我慢しようという思いで何十年も我慢して働けると思う方が妄想論だ。賃金だけで日々楽しくなれるほど介護の給料は高くないし、小さな可処分所得で遊ぶことだけで人生を我慢し続けられるほど人は強くない。寂しくなるし、空しくなる。
介護職は介護だけやっていればいい、みたいな「一見省エネで現実論ぽくて、実は成果も出ないし続かない考え」よりも、明確にトータルの成果を求めて、自分のところの職員はそれができると信じたほうが絶対に良い結果が出る。

ドラッカーは、事業の目的の定義として有効なものは一つしかなく、それは「顧客の創出」だと言っている。
自分のところの商品を買ってくれる人を増やすということではなく、自社の商品やサービスで幸せにできる人を増やすこと。幸せになった人は、そのサービスの継続やより良いサービスの提供を願って代金を払う。企業はその資金を使ってさらに良いサービスを提供する。そういった過程の中で、社員は幸福を感じる。
会社は、そもそも社会に幸せを増やすためにある。

重ねて言うけど、仕事をするのであれば、真っ当に、素直に、チームとして人の幸せを目指したほうが良いし、マネジャーが常にアップデートを図り、目的をしっかり共有した上で教育や環境を準備してスタッフを信じたほうが、成果につながる。

「幸せを目指す」のは現実論だ。

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