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振り返り人間

ある程度の年齢になってから知り合う人に、【自分】という人間を説明するのはそう簡単な事ではない。

成人前後の若者のように、どこどこの学校を卒業して、部活動ではあんな事をして、兄弟は何人等の一定の情報を提供すれば周囲も満足してくれるかというとそういうわけにもいかない事が多々ある。
コミュニケーションの一貫としてであったり、純粋な好奇心からであったり、噂話のための情報収集としてであったり、真意は人それぞれだろうが、そこから先の人生をどう歩んできたのかの方に人は興味を抱くので、どこをどうチョイスして伝えれば相手が納得してくれるのか、何を話して何を話さないのか、誰に話して誰に話さないのか、自己開示にも線引と選択の必要性を学ぶ。

はるか昔、プロフィール帳なるものが若者の間で流行していた時期があった。(ある程度の年齢の人ならご存じだろう)ファンシーショップや文具店でお気に入りのプロフィール帳を購入し、クラスメイトに配って個人情報を記入してもらう。
名前、住所、電話番号、誕生日、血液型、星座の他に好きな食べ物や趣味などの欄を書いたら、裏面にはプロフィール帳の持ち主へのメッセージを書くようになっていたように思う。

私もその楽しみを享受した一人ではあるが、もし今こんな紙を渡されたら全力で拒否するだろう。個人情報の提供と共にメッセージまで強要されるとは、罰ゲームではないか。

もし大人のプロフィール帳が存在するならば、履歴書+住民票(世帯全員分)くらいの記入欄が設けてあるかもしれない。

noteを始めた当初、承認欲求と自己顕示欲について自分なりの考えを投稿した。その後、他に楽しみを見つけたので数少ない記事を削除して退会したつもりになっていたのだが、どうやらアカウントが残っていたのでこうしてまたつらつらと何かを書いている。
承認欲求と自己顕示欲について、自分なりの考察はまたいつか改めて書く事が出来たらとは思っている。

こうして媒体を使って自分の事を発信している事も個人情報の開示に他ならないが、私を知らない誰かに自分の事を話すことと身近な誰かに話すこととは、今のところ多少なりとも違うものだと思っている。

現実世界において自分のこれまでの経緯を尋ねられた時、先程の線引と選択を駆使した回答をすると辻褄の合わないおかしな現象が起きてしまう。嘘は言ってはいないが抜けている(抜かしている)点がある為に、私という人物像がとらえどころのないものになってしまっている事は相手の反応を見ていて分かる。

出来ればひっそりとしていたいので、簡単なプロフィール以外は無関心を貫いていてもらいたい。(名字と年齢くらいなら許容範囲だ)
しかし、そんな希望はおかまいなしに踏み込んでこられると、即座に対応出来ず苦虫を噛み潰したような顔をしながら口を滑らし後悔をする事多々。
私は秘密主義者であるのに、爪が甘くて結果色んな人に情報筒抜け状態を招いてしまう。

私は他人に、私の事をさも知ったような態度をとられる事が大嫌いだ。(この気持ちを表現するに相応しい言葉が他に思いつかない)
そういう人からは過剰な干渉や下心、コントロールしたい欲を感じてそっと距離を置く。

本題からだいぶ離れてしまったが、そうやって本来は語りたくない趣味の話や休日の過ごし方、これまでの事などを私の線引を越えて口にしてしまった時、私という自分と過去の自分をイコールで繋げられるとむず痒い気持ちになるという話が今回のテーマだ。

現在進行系の私と、過去の出来事とは私であって私ではない。
例えば、現在の私は「山登りが好きです」とはいえるが、それがいくらかの期間があいてしまえば「○○すき」には該当しないのだ。(私の中で)
「そんな事をしていた自分も居ました」が正解で、もうだいぶ旅や旅行から遠ざかっている自分ならば「旅や旅行好き○○さん」認定は遠慮したいし、それについてそれらしく語る事も、自分としては過去の自分にしがみついているようで居心地が悪い。過去の自分と現在の自分があまりにも乖離していると、アイデンティティが揺らぐ、見失う。

あの時を懐かしく思っても、今ここに居るのはこうして自宅で横になりながら文字を打っている自分だ。航空会社のセールを知りながら、自分とは関係ない世界の話くらいに見てみぬふりを続けている自分だ。

昔咲いた花に思いを馳せる、そんな時がたまにはあってもいいけれど、やっぱり私は今咲いている花、これから咲く花を見ていたい。

また自由に旅や旅行に行けるようになった時、「旅や旅行が好きな私」として自分の中でしっくりくるのだろうな。(自分に対して)

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