見出し画像

他人を「意識高い」と嘲笑することに納得がいかない

タイトルに全部込めました。
あとはもうのびのびと、自分の考えを述べるだけです。

幸いにも、私の周囲にいる人からそういった物言いを聞いたことは、今のところありません。
しかし今後、実生活での会話中などに、不意に言われてしまったらフリーズするかもしれない。
そういった機会が訪れないことを祈りつつ、予行演習のような気持ちで想像してみます。


嘲笑として放たれる時は、他者の行動に対して使われる場面が多い言葉だと認識しているので、その前提で。
どうして「意識高い」に、揶揄や嘲りの感情を込めるんだろう。

もう少し精確に書いてみよう。
揶揄や嘲りを込めた「意識高い」のような物言いを、なぜ他人に対して出来るんだろう。

意欲も企図も、その結果の行動も。
根っこにある理由や心情を、当人以外が外側から十全に把握するのは、はっきり言って不可能です。
どうしたって推測するしかなくて、その「推測」という危なっかしい判断基準から出来た主観ひとつで、他者を攻撃する。
その愚かさを顧みない様に対する疑問が、納得のいかなさの理由です。

しかしぐだぐだ書いてはみても、推測からの主観ってことに対しては、私が今こうして書いている文章もまたブーメランなわけで。
その自覚はありますもちろん。


もう少し簡単に考えてみよう。
他人に対する「意識高い」の嘲笑って、何かをやっている人・やろうとしている人の足を引っ張るニュアンスが感じられるのも、納得がいかない理由のひとつかもしれない。

「出る杭は打たれる」の言葉も嫌いです。
(打たれたら打たれた分だけ出っ張りたい)
しかし嘲笑として使われる「意識高い」を辿ると、最終的にはこの「出る杭は打たれる」という価値観に対する、無意識な肯定へとたどり着くんじゃないか。
調和とは名ばかりの、低め安定な横並び意識が前提の。

これもまた推測からの主観です。
ブーメランであっても「他者の心情を、十全に把握することなど不可能」という事実を記すことに重きをおいてみました。


自分の時間を奪われるなど、何らかの被害を被っているなら、その本人が言えばいいこと。
まったくの第三者として、他者にそういう発言が出来る人に、率直に素朴に聞いてみたい。
「あなたに関係ある?」と。



この記事が参加している募集

熟成下書き

今こんな気分

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?