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遠きにありて思ふ

今回のテーマ:ふるさと

by らうす・こんぶ

「ふるさと」と聞いて、「ちょっと待てよ。私のふるさとはどこ?」と、ふと思った。これまでは深く考えもせず、聞かれれば自分が生まれ育った町を答えていたが、

「そもそも”ふるさと”ってなに?」

そこでググってみたところ、1952年発行の三省堂の「辞海」には「ふるさと【古里】(名)(一)ふるびてあれた里。(二)昔、物事のあった里。由緒(ゆいしょ)のある土地。(三)自分の生まれ、又は幼少の時をすごした土地。故郷(こきょう)。(四)一度住んだことのある土地。かつておとずれた事のある土地」と四つの意味が載っていることがわかった。

一般的に、私たちは(三)の意味でこのことばを使っていることが多い。ただ、「ふるさと」ということばには、あの「兎追いしかの山〜♪」のイメージとセンチメンタリズムが染みついてしまっているので、単に「出身はどこですか」と聞きたいときには使いにくい。

ところで、辞書には載っていないが、私にとっての「ふるさと」の定義はこれだ。

ふるさとは遠きにありて思ふもの

室生犀星のよく知られた詩の一節。犀星の詩はもっと長いし、解釈もいろいろあるようだが、この一文こそが私にとっての「ふるさと」の定義。私は生まれ育った町を愛して止まないが、そこで一生生きていきたいとは思わなかった。高校生の頃は、早く故郷を出てもっと広い世界を見てみたい、ひとり暮らしをしてみたいと思っていた。

だから、東京へ、そしてニューヨークへと生きる場所を変えていった。そして、折に触れ、生まれ育った町を思い出していた。あとに残される人たちの気持ちを考えもせずふるさとを飛び出しておきながら、ふるさとの家族や友だちには元気でいて欲しい、ふるさとは変わらず、自然豊かで美しくあってほしい。そして、たまに帰る私を温かく迎えてくれるところであってほしい……。身勝手なことはわかっている。でも、それが私にとっての「ふるさと」だった。

私のふるさとは典型的な田舎町で、今では通りを歩く人も少なく、まるで昼寝をしているように静かでのどかで退屈な町だ。でも、遠くにいると、美しい、かけがえのない場所として私の心の中の一角を占める。ずっと住み続けていたらふるさとは現実的な生活の場になり、「遠きにありて」感じる今の気持ちとはもっと別の愛着を持つようになっていたにちがいない。

「遠きにありて思ふもの」。それが私にとっての「ふるさと」だ。生まれ育った場所であっても、ずっとそこで暮らし続けていたらいつまでもそこは生まれ育った場所で「ふるさと」にはなり得ない。「ふるさと」というのは、生まれ育った土地を離れた人の視点がなければ語れないことばなのだと思う。



らうす・こんぶ/仕事は日本語を教えたり、日本語で書いたりすること。21年間のニューヨーク生活に終止符を打ち、東京在住。やっぱり日本語で話したり、書いたり、読んだり、考えたりするのがいちばん気持ちいいので、これからはもっと日本語と深く関わっていきたい。

らうす・こんぶのnote: 

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