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『古事記ディサイファード』第一巻026【Level 4】北海道(4)

 結局一睡もしていない。

 しかし眠気も疲れも微塵も感じられず、むしろどんどん元気になっていく。
 カメラを握りしめて車外へ出る。空き地の砂利の上に自分の足音が響く。
 刻一刻と闇が薄れていく。他に人影は全く見えない。
 麦畑の数メートル手前で一旦立ち止まるとまた何も無い中空を見あげ、「来たよ」と呟いた。
 なぜだ。さっきから神社が気になる。いつのまにか鳥居を探している自分に気がつく。
 周囲にはそれらしきものは見えない。
 おかしい……なぜだ……?
 再び歩き始めた。
 いま目の前にミステリーサークルが広がっていて、いよいよその中へ足を踏み入れようというその瞬間、突然にヴィジョンがバッと閃光を放った。
 一瞬目を丸くして立ち止まった。
 なっ……なんだ?
 まるで視界の前に半透明の光るスライドを一瞬差し込まれたようだった。
 鮮烈な朱塗りの鳥居の映像だった。
 眼や網膜などの光学系感覚器をバイパスして脳の後頭葉一時視覚野へ直接映像を送り込まれたとしか思えない。
 心の中で、神社、神社と声がする。
 不思議だ。
 ついに憧れていた現場へ来た。
 英国に出かけてまでこの目で見て調べてみたいと思っていたミステリーサークルを今目の前にしているというのに、なぜ鮮やかな神社の鳥居のヴィジョンがフラッシュするのか……?
 まったく理解できなかった。
 訝しさに眉を顰めながらもまた歩を進める。
 一歩ごとに麦畑に刻印された不思議な図形が近付いてくる。もうその全貌がはっきり見えるほど明るくなっていた。  サークルから不思議なエネルギーが放たれているのを感じる。
 道路の縁からサークルへと細く曲がった路が延びている。昨日誰かが中へ入るときに麦を倒した後だろう。無断で入り込んで良いものかどうか一瞬躊躇したが、この際迷いを振り切って脚を踏み入れた。できるだけ荒らさないように昨日の観察者が着けた道筋にそって静かに入っていく。
 腰まで届くか届かないかという高さの麦の穂がかさかさと囁くような音を立てる。生育状態は良好で、葉は鮮やかな深い緑色だ。朝露に湿った茎が艶やかに光り、生命力に溢れた逞しい弾力を感じさせる。
 畑の中に立つと、もうそれはすぐ目の前にあってさらに近付いてきた。心臓が高鳴る。麦の穂が渦を描いて寝ている。中心部の数本だけが真っ直ぐ天に向かっていて、その周囲にさらに数本がやわらかく巻き付いている。制作者がまるでソフトクリームをコーンに盛りつけるような繊細な技でそっと大切に仕上げを行ったことを想起させる。
 その大きな円の左手に、もう一回り小さい円があり、二本の直線で繋がれている。直線の幅は六十センチほどで一定であり、定規を当てたように真っ直ぐだ。直線部の麦は真っ直ぐに寝ている。
 
 時空はしゃがみ込んで寝ている麦の根元にそっと指をあてて観察した。
 一本だけ地面から抜けているものを見付け、根の部分を手に取ってみる。
 これは、いたずらじゃない……本物だ……。


 英国の科学者の本に書いてあった通りだった。麦は倒れているのではない。一本一本が根元からしなやかに曲げられているのである。まるで茎の一つひとつにスチームをかけながら念入りに時間をかけて曲げたように、折れることも傷つくこともなく曲がっているのである。根もしっかりと地面に着いており、無理矢理引き抜かれたような形跡は全く無い。何らかのエネルギーを巧みに制御し、麦を傷つけまいとする優しさが感じられる。
 むしろ、麦を傷つけているのは自分達のような観察者達なのだと気がついて時空は恥じ入った。直立している麦の上を歩けば、茎はその応力に耐えきれずに折れる。
 円の縁はくっきりとして、寝ている麦と直立したままの麦との境はきっぱりとしており、放射状に毛羽立つようなこともなく、みごとに美しい円を描いている。


 仕上がりは制作方法を如実に物語る。人間が板などで踏みつけて偽造したサークルは形が不正確なので一見してわかる。茎は折れ、綺麗な渦巻きにはならない。決定的な違いは収穫期になると歴然と現れる。未知のエネルギーによって曲げられた本物のサークルの作物は寝たまま成長し、周囲の作物よりも著しく実りがよいのに対して、踏みつけという原始的な方法で作った偽物では当然ながらその部分だけが枯れてしまう。
 英国政府はこの謎にばく大な賞金をかけた。するとダグとデイブという二人の男が全部自分達の仕業だと名乗り出て、大金をせしめようとした。彼等が言うには、たった二人で板を使って踏みつけながら作ったのだと言う。
 ところが農家達がそれならば弁償しろと逆に膨大な額の賠償金を求めた。彼等はすごすごと引き下がり、自分達が主犯であることを撤回した。実は自分達がやったのはほんの一部にすぎないと言う。証言は二転三転し、下方修正が続いた。当然、賞金は出るはずもない。
 農家は自分達の畑で起きていることを良く知っている。サークル内ではむしろ実りが多いことも良くわかっている。たった二人でかくも巨大で精緻なサークルを一夜にして作るのは不可能であることも。いや、たとえ何百人かかって何日かけたとしても、本物のサークルを再現することは絶対物理的に不可能なのだ。しかも、ストーンヘンジ周辺に集中して現れる図形は年々複雑化している。
 しかもその意匠には極めて知的な、数学的幾何学的に高度な意味が込められていることが研究者達の分析によってあきらかにされている。ダグとデイブにとてもそんな知性は感じられなかった。
 彼等が嘘をついていることは明白だが、世間はほんの数行のニュースを聞いただけで全てのサークルが偽物だと鵜呑みにしてしまった。一般大衆とはこんなに簡単に欺されるものなのだ。
 そのサークルがこうして北海道に発生し、今この瞬間、自分がその中にいるという現実に時空は戦慄を覚えた。まさかこんなにも身近に発生するとは思ってもみなかったのである。なぜここに出現したのか……。
 ズボンのポケットからメジャーを取り出した。直径を測る。大きな円は九メートル、小さい方は六メートル。
 気がつくとサークルの中で三時間も過ごしていた。
 麦畑の中は不思議なエネルギーが渦巻いていて、そこにいるだけであらゆる病気が治ってしまうような気さえした。
 初めて感じる心地よさだ。
 ずっとここにいたい気がして名残惜しかったが、さすがに他人の畑に長時間居座るわけにはいかない。
 不思議な余韻を引きずりつつ渋々時空は札幌への帰路に就いた。

(つづく)

※ 最初から順を追って読まないと内容が理解できないと思います。途中から入られた方は『古事記デイサイファード』第一巻001からお読みいただくことをお薦めいたします。

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