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ウクライナ侵攻の裏には

先日、ウクライナ危機と呼ばれていた自体がウクライナ侵攻と名前を変えた。NATOに加入することを目指していたウクライナに対して、国境を接するロシアが危機感を抱きそれを阻止しようと圧力をかけていた事態が、実際に実力行使に移った形だ。

渋谷にハチ公前広場ではウクライナ人がのみならず多くの日本人も含めたデモが行われた。「戦争をやめろ」「ウクライナ人を守れ」といったシュプレヒコールが飛んでいたようだ。

しかしながらここ最近で渋谷でデモが行われたのはこれが初めてではない。昨年の香港で国家安全維持法が施行されたとき。ミャンマーで国軍がクーデターを起こし民政が崩壊したとき。パレスチナ地区がウクライナ軍により空爆されたとき。アフガニスタンがタリバンにより政権が奪取されたときにはデモさえ行われなかった。

どの場合も強者が弱者を攻撃し、死人だって出ており人権が蹂躙している。関わるアクターや地理的な条件に差異はあれどそのような点では全く変わっていない。どの場合も解決が難しく、自発的な解決を検討することが難しいという点でも同様である。ではなぜ今回のウクライナ侵攻がここまで大きく取り上げられ、人々の印象に残っているのか。考えれられる要因をいくつか挙げていきたいと思う。

まず最初に思いつくことは、ロシアという大国が直接的に関わっている点である。かつて米ソ冷戦を戦った傍えのソビエト連邦を継承する国家であり、核弾頭の保有数も世界で最も多いと言われている。現在、経済面では存在感が薄まっているが石油や小麦などの輸出数も多く資源の面では国際的に大きな存在感を放っている。ほかにも国土は圧倒的な広さがあり、西はヨーロッパ、東は日本までさまざまな国家と隣接しており、わが国固有の領土である北方領土を含め様々な国境を挟んだ問題があることも事実である。また国連の実質的な最高権力機関である安全保障理事会の常任理事国であり、拒否権を発動することでどのような決議であっても廃案にすることができるのである。実際に今回のロシアに対する非難決議もロシア大使の反対により廃案となっている。以上のように国際的に大きな影響力を持つ国が実際に侵攻を行ったことは第二次世界大戦後は見られたことがなく、75年ぶりの大問題ということもできる。今回の事態が見逃されると先ほど述べた様々な隣接する国家が同様に進行される可能性があるため、明日は我が身として様々な人々が行動していることは考えられる。

次にあげられる点は、戦争が起こった国がヨーロッパであるという点にある。現代社会の仕組みのほとんどはヨーロッパから始まったといっても過言ではないだろう(反論がある場合はどうぞ)。しかしながらほとんどの国で洋服を着ながら生活をし、電気を使いながら生活している以上そうであるといえよう。そのため人々の間には欧米中心主義というものがほとんど無意識的に植え付けられているように感じる。実際に日本の政治制度に関してもイギリスやフランス、アメリカ、ドイツを参考に作られて物であり、世論一般においてもヨーロッパやアメリカの法律や慣習に習い、我々日本人が改めるべきであるといった言論が見られる(あくまで主観であるが)。実際に二度の大戦の主戦場はヨーロッパであり、とりわけ第一次大戦などは欧州の実でしか戦闘が行われていないのに世界大戦と名乗っているのは筆者は学生時代から不服である。少し脱線したが以上のように日本人や他国のアジア、アフリカ、中南米諸国には欧州中心主義的な思考があるであろう。それを裏付けるように過去の大戦の反省としてEUが創設され、NATOといった軍事同盟により結束を強めヨーロッパ大陸で大きな戦闘行為が行われることはこの約75年間なかったのである。そのような平和の象徴とも言え、我々の親愛なるヨーロッパで悲しい戦争が起きてしまったのであるから今回のようにとりわけ大きく取り上げられているのである。白人であるからこそそのような理想もあり、自分たちの利益に対して大きくかかわるため安心もそれに比例しておおきくなるのであろう。たとえばこれがアフリカの黒人が多い場合はここまでの関心があったのであろうか。われわれ日本人のなかにも白人優位主義や黒人差別といった差別があるのであろう。

果たして上の文章に違和感を抱いた方は何人いるだろうか。胸を張って間違いを指摘できる人物は何人いるだろうか。ヨーロッパが平和であり、戦争が全くないなどというものは「神話」である。冷戦中は主に東ヨーロッパで、冷戦後もアイルランドやギリシャ、コソボなどで紛争は発生している。ごく最近にも2014年クリミア紛争が発生しているではないか。このような事例からみても万が一、今回の騒動がここまで発展していることが我々の歴史に対する認識不足であるという懸念がある。特に上記のヨーロッパ平和神話に対して違和感を抱かなかった方は注意が必要である。

続いては国内の紛争ではなく、国家間の紛争であるという点である。香港やアフガニスタン、ミャンマーはあくまで国内の対立であり他国が介入することはハードルが高いのである。これは中国がよく展開する主張である「内政不干渉」に関わる問題である。「内政不干渉」とはその名の通り国内の問題に関しては他国が介入するべきではないという主張である。一見するとあたりまえであり、各国が自由に意思決定をするためには必要な対応であると考えられる。しかしながら、これには例外もありとりわけ人道的な干渉に関してはこれを不問にするといった慣例もあるのである(国際法自体に効力があるものはないため)。しかしながら人道のためにどのような対応をするかということにいまだに正解はない。軍事的に介入することが正しいのか、経済制裁などで締め付けを行うことが正しいのか、外交的に対話を続けることが正しいのかが結論が出ることはない。実際に主権の取り扱いをどのようにするのかということが定まっていないため今までの各国の紛争も、複雑化し現在まで長引いている。しかしながら今回は国対国というといった多国間の紛争のため他国が介入することが国際法的にも比較的認められている。しかしながらウクライナは元共産国家ということもあり軍事同盟を組んでいる国家などが存在しない(だからこそNATOに加入をしようとしていたのだから当たり前ではあるが)。また昨日EUに加入申請をし、これが認められれば軍事同盟ではないもののヨーロッパ各国からの支援や派兵がより拡大する可能性がある。このような事態となればさながら第三次世界大戦のようになるため積極的な各国の参戦は考えにくいもののロシアに対しての抑止力とはなるだろう。上述のように多国間の戦争というものはその他の国家に対しての影響も大きく、干渉することが比較的容易であるため今回のように大きな話題を呼ぶこととなる。とりわけ今回の侵略に対して欧米が介入してしまうと第三次大戦の可能性があるため、各国の関心が大きくなっている。

ここで私が提起した問題点は、上記の状況を鑑みながらもウクライナだけが特別視されている現状が、今後の国際社会にとっては好影響をもたらさないという点である。確かに様々な要因から今回のウクライナ侵攻は国際社会に多大な影響をもたらすことは間違いがない。しかしながらこれは裏を返すと国際社会に対してあまり影響のない事案に対しては、各国は重要視せず強者のやりたい放題されてしまうのである。たとえば何人殺されようが、どんなに拷問が行われようがどんなに人権が蹂躙されようが各国に影響がなければ全く問題がないのである。一見するとこれは関係のない国では当たり前のように思えるが、ウクライナ人が一人殺されることとアフガニスタン人が一人殺されることに差異が生まれてしまうこととなる。私たちの目の前で二つの国の人物が殺されている場面を見た場合の感情は同様であるはずなのに、なぜかわれわれは国遠くの国で起こっている場合はその人間としての感情を見失ってしまうのである。われわれが人間らしくあるために必要なのは、外交政策において何を大切にするかである。いままでの国際社会で重要視されてきたものは経済や安全保障といった物質的な価値に重きが置かれてきた。これは自国の経済発展や国民の保護などに対して当たり前の措置である。しかしこれらを重要視するあまりに我々は人間的な感覚を忘れてしまっているのではないだろうか。そのため、これからの時代に必要な価値観は人権やその地域や国の文化を大切にする概念的な価値に重きを置くべきなのである。もしこの概念的な価値観でなく、物質的な価値観だけを重視するのであれば例えば、人権や文化に対して蹂躙を行う権威主義国家や軍国主義国家による紛争や侵略に各国が抵抗することなく、民主主義や人権といった価値観がこの地球上から消し去ってしまう可能性がある。そんなことを防ぐためにも我々は、命というものを平等に扱い各国の紛争や侵略行為、人権を蹂躙する行為に千差万別することなく対応していく必要があるのだ。なにもウクライナに対しての支援が過剰であると言いたいのではない。反対でありどのように小さな国の資源が少ない国であっても同様の熱量で対応することが必要なのだ。たとえそれが自国に多少不利な結果をもたらしてしまうとしても、持続可能な社会を維持するためにも必要なのである。われわれがこれまで維持してきた民主主義や人権を今後も受け継いでいくためには概念的な外交、社会行動をすることが必要だ。

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