見出し画像

Nhà Cây/Minh Quý Trương、SF+あらゆる遠い故郷

noteを始めるにあたって書いた所信表明(?)にも書いたけど、自分は全然英語ができない。高校英語まで習ったきりで、それ以降、何度単語を覚えても次の日には忘れる。なんなら単語帳をぱらぱらめくった5分後には忘れている。英語で映画を観たり、本を読んだりし始めて、やっと何個か覚えてきた。

そんな超初級語学レベルの私には、この映画はだいぶ難しい。今回は「Nhà Cây(英題 : The Tree House)/ Minh Quý Trương(2019)」について。

MUBIの作品ページによると、主人公は、2045年に火星に住んでいる男性。彼はベトナム先住民族の記憶と彼自身の記憶を元に映画を作っている。あらすじの最後に、こうある。

But what about his own intentions? Did he have the right to put these people in front of his camera and take their stories?
-MUBI

訳すと、”でも彼自身の意図は何なのだろう?カメラを彼らの目の前に置いて、彼らの物語を撮る権利が彼にあったのだろうか?” という感じか。
言外の意味を滲ますような文章で、掬い取るのが難しい。ましてや、これを観たのはMUBIを始めたころ。初級も初級、ほとんど太刀打ちできないまま公開期間が終わってしまった。

というわけで、この感想は観た記憶+監督インタビュー等々のリサーチでもって構成される。もちろん他の映画でもリサーチ込みで記事を書いていたりするのだが、今回はその比重が大きいという意味で。
それでもこの映画について書こうと思ったのは、自然・伝統的な風景をSF的な視点から語ることで、特異な浮遊感が表れていたから。

 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

cineuropaに載っていたKaleem Aftab著のレビューがあらすじを補足してくれた。

火星での生活経験が乏しく、火星についての映画を作ることができないと考えた監督は、去ってきた惑星、地球についての映画をアーカイブの映像(実際にベトナム現地で米軍が撮影したもので、現在はオンラインで公開されている)や自分で撮影してきた映像で作りはじめる。

火星への旅といっても、長い長い旅だ。時間が経ち薄れた故郷の姿を、切り貼りした映像の上にナレーションをつけたり、監督が自前で録った宇宙の音を載せたりして、記憶の限り再現しようとした映像、という形で制作されている。しかもその上に、Trương監督自身がナレーターとして登場し、自分の体験について話す部分もある。

このレビューでは、これは映画についての映画だ、という評が載っている。映像の上に何となく違う場所で喋っていると思われる別音声が流れたり、森を車で走るシーンで突然宇宙を思わせる電子音が流れたり、どうも映像と音が別のようだと感じていたのが、これで納得がいった。

このずれが、コラージュのように続く映画の中でひときわ鮮やかな印象として残る。先ほど述べた、山奥に1本通ってる道路を走る最中、車窓を流れる木々を映しながら、滲むような電子音が流れ出すシーン。ということは、この音楽は旅の中で監督が録った宇宙の音とか、そんな後撮りの未来の音だ。鬱蒼としたベトナムの森林と唐突な電子音楽の組み合わせは、映像が普遍的なものであればあるほど、浮遊した現実感覚をもたらす。これを描写している者はもうこの星にはいない。切り貼りされて再現され、違う面を見せる故郷がそこに映っている。

または、伝統的な木造建築が映るシーン。白と紫に色反転させて映し出されていて異様だ。どういう材料を使って空想の世界を演出しているのかを見せている場面であり、ここにも詩的な感覚があらわれる。映っているものが伝統的なものであればあるほど、語りと手法のズレが浮かび上がってくるのも面白い。似たようなアプローチを「惑星ソラリス」で観た。登場人物が2人、車に乗り込み、長大な道路を走っていくシーン。当時の首都高速をそっくりそのまま、巨大な未来世界のセットとして使っている。実際の姿を保ったままであればあるほど、見慣れた景色が空想の世界に書き換わっていくワクワク感がある。

インタビューで監督は、ベトナム戦後のアーカイブ映像を使用していることから、政治的な作品であるように感じるとの指摘を受け、こう答えている。「政治的なことではありますが、本当の意味でそう作ろうとはしませんでした。 家について考えると、必然的に政治と権威の問題につながります」
監督によると、この作品の主題は、森や洞窟での生活を拒否するベトナム政府によってホームレスにされた人々である。そして主人公となるのは、戦争によって家を追われ、森で暮らし、40年の時を経て村に戻らざるを得なくなったHồ Văn Lang(作中に彼について調査されたアーカイブが出てくる)だ。これらを語る上で戦争を避けて通ることはできない。
他にも、アメリカ国防総省制作の、再定住キャンプへ避難したベトナムの村人のドキュメンタリー ”The Refugees” (1968) が引用されたりする。遥かな家への複雑な思いが、アーカイブの中の人々・地球を去ってきた作中の監督・そしてナレーターとして登場し、自分自身の体験を話すTrương監督自身の三つ巴で語られてゆく(これを頭に入れた上でもう一回観たい………)。

残念ながら私から確実にお伝えできるのは、映像・効果・音楽の組み合わせの妙くらい。インタビューを読んでいて、数々のシーンの意味が腑に落ちたが、それだってだいぶ前に見た映像の記憶だ。洞窟を覗き込む子ども、時折挟まれる不穏な静止写真(インタビューによると、カンボジアの写真家、Chhay Thi Rantanakiriによるもの。肖像権の関係で、先住民の顔をぼかして撮影している。監督はこれを顔のない幽霊のようで怖いと言っている)、都市部で生活する人々のどこか疲弊した顔(しかしネガティブなシーンと言い切っていいのか自信がない)が印象的だった。それがどういう意図で映されたのか、もう一度字幕付きで観てちゃんと理解したいと切に願っている。またどこかで流してくれないかなぁ。

最後に、作中で使われる歌 Thái Thanh “Tình Hoài Hương”(1986)も載せておく(リンクは1990年のアルバム版)。

監督はこのように語る。
「その歌は ”懐かしさ” や ”あなたの家への憧れ” のようなものに翻訳されます。この歌手が大好きです。 彼女は85歳くらいで、今は米国に住んでいます。 ベトナムでの困難な時期を経て、アメリカに到着した1985年の彼女のパフォーマンスを見ました。 彼女はこの歌を歌い、最後に泣きました。 とても感動し、彼女がどれだけベトナムを愛しているかを実感しました。彼女は歌詞を ”家から遠く離れた場所” に変えています。この歌を使ったのは、主にはとても美しい歌だったからですが、ホームレスであることや戦争の余波に関係しているという理由もあります」

Minh Quý Trương監督は、1990年、ベトナムの中央高地にある小都市Buôn Ma Thuộtで生まれる。
恵比寿映像祭のプログラム「モノグラフ2020―アジア・エッセイ映画特集①―モチーフ」に参加した際の彼のプロフィールでは、このように紹介されている。

チューンは記憶と現在の瞬間に生きながら、ドキュメンタリーとフィクション、個人と非個人の間の物語とイメージを、故郷の風景、幼少期の記憶、ヴェトナムの歴史的背景を描くことで紡ぎ出す。映画では、抽象的概念やイメージと撮影中のリアルな即興を組み合わせる実験を行ってきた。
-恵比寿映像祭  アーティスト一覧ページ

他の作品には「Les Attendants(英題 : The Men Who Wait)」(2021)、「The City Of Mirrors: A Fictional Biography」(2016)などがある。「Nhà Cây(英題 : The Tree House)」は第72回ロカルノ国際映画祭のフィルムメーカーズ・オブ・ザ・プレゼント コンペティション部門でプレミア上映された。

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?