おれの人生__7_

自分の人生を振り返ってみた【第5回】

サワディーカップ。タイのバンコクからごきげんよう。

突然ではあるが、自分の人生を振り返ってみた。今回は第5回、アメリカ留学時代について。備忘録的な感じで自分が思っていることを素直に書き記してみた。

本文に入る前に、まずは簡単に自己紹介から。

高橋智喜(たかはしともき)
・1994年千葉県生まれ。
・タイのバンコク在住。
・明治大学法学部を卒業後、新卒でフリーターに。
・フリーター期間中は東京都内のベンチャー企業で働く。
・その後「海外で暮らしたい」という想いを捨てきれず、日系のタイ法人への就職が決まりバンコクに移住。今に至る。

自分で書いていて思ったが、レールを大幅に外れた人生を送ってきた自信は少なからずある。

構成は全6回でざっくり以下のような形。

・第1回:幼少期〜小学生時代
・第2回:中学校時代
・第3回:高校時代
・第4回:大学生時代前半
・第5回:激動のアメリカ留学時代←今回の記事
・第6回:留学後〜現在(25歳)まで

自分がその当時、どんなことをして何を感じていたのかについて、赤裸々にまとめてみた。楽しんでもらえれば、これ幸いである。

前回の人生記録は、以下の記事を読んでいただきたい。

それでは、さっそく本題に入っていこう。


◇激動のアメリカ留学時代

日本の大学で2年間を過ごし、おれはアメリカのロサンゼルスへ留学することを決意した。改めて自分の人生を振り返ってみて、このアメリカ留学が紛れもないターニングポイントとなっている。そのためこの記事では留学中のことしか書いていない。

「留学に行って価値観が180度変わった」という言葉をよく耳にするが、おれの場合、勢い余って540度、いや900度くらい価値観が変化した。自分で書いておきながら理解に苦しんでいるが、つまるところ留学をした1年弱の間に急激に価値観が変化した。

◇留学の概要

最初にザックリと留学の全体像を説明すると、おれの留学は大きく分けて「語学学校」に通っていた前半と「現地大学」の授業を受けた後半に大きく分かれる。そして前半と後半の間と留学の終盤でアメリカ国内をそれぞれ時間をかけて旅行した。詳細に入る前に留学の感想を述べておくと、「楽しかった」という言葉しか出てこない。どうやら、人間本当に楽しい経験をすると小学校の読書感想文レベルの回答しか出てこなくなるようだ。

これがおれの人生のターニングポイントとなった激動のアメリカ留学時代の概要である。それでは細かい流れをみていこう。

◇ロサンゼルスデビューからのスタートダッシュ

2015年3月、アメリカのロサンゼルスに降り立ったおれは、自分で言うのも気がひけるが、ある意味神がかっていた。どういう状態だったかというと留学を開始した直後から行動力が半端じゃなかった。友達を作るために留学先の大学内で学生たちに片っ端から声をかけまくった。この頃は、銀座コリドー街に出没するナンパ師と肩を並べるくらいの実力があったのではないだろうか。いや、英語で話かけている分こちらの方にアドバンテージがあるはずだ。

ちなみに当時のおれの常套手段は、「トイレはどこですか?」と声をかけ、好感触なら簡単に自己紹介をして連絡先を交換するというものだった。万が一失敗してもトイレに行き水に流せばいいだけだ。結果的にこの作戦はうまくいき何人もの連絡先を手に入れた。

心の中は向かうところ敵なし。マリオでいうところのスター状態だ。アドレナリンが出過ぎて感覚が麻痺し、失敗を失敗と感じなくなっていたのだろうか。なんといえばいいかわからないが、当時は自分に対して謎の自信があった。どうやらLAは、映画の聖地ハリウッドを抱える都市なだけあって、訪れた人を別人に変えてしまうようである。

冷静になって思い返してみれば、留学前までの準備が功を奏したのだと思う。

・皿洗いバイトで貯めた100万円弱の資金
・コツコツ積み重ねてきたTOEICやTOEFLのスコア
・国際交流イベントで培ったコミュニケーション力

留学前からの小さな積み重ねによって、留学先についた頃には心の準備はすでにできていた。備えあれば憂いなし、である。


◇語学学校時代

留学先に到着してすぐ語学学校のプログラムが始まった。おれが通っていたのは現地の大学付属の語学学校であった。大学で授業を取りたい留学生に向けた語学学校である。そのため授業の内容は比較的アカデミックで、論文の書き方やプレゼンの方法などを教わった。

最初の頃は、ガイダンスや交流イベントが頻繁に開催されており、ハリウッドやサンタモニカビーチなどの観光スポットを見て回るオリエンテーションなどもあった。そのおかげもあって徐々に語学学校内での交友関係も広まっていった。また、クラスは英語のレベル別に分けられており、おれは運良く上のレベルのクラスに割り振られることとなった。

語学学校にいた留学生は主に中国、韓国、日本、ベトナム、タイをはじめとするアジア圏からの留学生から、クウェート、サウジアラビア、オマーンなどの中東諸国からきている留学生が多かった。「人種のるつぼ」と言われているアメリカだが、当時のおれの感覚としては「個性豊かな動物園」のような印象だった。留学開始1週間にして、世界が一気に広がったのを覚えている。

それに加えて、ちょうどこの頃おれの人生に大きな影響を与える出来事があった。

自慢ではないが、おれはこの語学学校時代に大量のブラジル人の友達ができた。その数なんと50人強。ブラジル政府のプログラムでアメリカに来ていた優秀なブラジルの学生たちである。

ちなみに、THE・一般ピーポーなおれがどのようにしてハイスペックな彼らと仲良くなったのかと言うと、理由は単純だ。おれがポルトガル語で下ネタを連呼している動画が、ブラジル人留学生の間で一気に広まったからだ。

当時おれには語学学校で知り合った兄貴分のようなブラジル人の友達がいて、事あるごとにポルトガル語の下ネタを吹き込んできた。そして、いい感じに発音できるようになったところで、カメラを向けられすぐさまビデオ撮影開始。当時、鬼のようにノリが良く羞恥心のカケラもなかったおれは、何のためらいもなく教わったワードやフレーズを身振り手振りを交えてカメラの前で話した。

こうして、捨て身の作戦の甲斐もあり、地球の裏側に知り合いがたくさんできた。

"下ネタは万国共通である"

またひとつこの世に名言が生まれた。

海外で友達を作りたい人がいたら参考にしてもらえれば嬉しい限りだ。ここぞの時に威力を発揮してくれるだろう。もちろん、最低限のモラルは守った上で、だ。

こうしておれはブラジル人たちに受け入れられた訳だが、今でも強く印象に残っているのが、生まれ育った環境が全然違うのにもかかわらず、なんというか非常に居心地がよかった。個性を尊重する文化でありながら、コミュニティ内での結束もそれなりに強い。ひと言でまとめると「程よい」つながりのまま関係性を築くことができた。

この頃のブラジル人たちとの出会いは、その後のおれの人生に大きな影響を与えている。


◇初めての一人暮らし

語学学校のプログラムが終わるタイミングで、楽しかった寮生活に別れを告げ、一人暮らしをするために自分で物件を探すことにした。当時、おれの住んでいた学生寮では毎週のように留学生を中心としてパーティーが行われていた。爆音のクラブミュージックが流れる空間で飲んだバドワイザーの味が忘れられない。

そんな楽しい寮生活だったが、とことん天邪鬼気質なおれは寮での心地よい生活を捨て、プライベートな空間を求め、ネット上で物件探しを始めた。

結果的に大学まで、自転車で通えるくらいの距離にある物件を見つけることができた。そして始まったのがシェアハウス生活である。当時は、学生や社会人を含むアメリカ人4人とナイジェリア人とおれの合計6人で暮らしていた。

シェアハウス生活は正直楽なものではなかった。シェアハウス内で友達を作ろうと意気込んでいた。しかし現実は想像以上にドライで、ハウスメイトと話すチャンスも共用スペースにいるときくらいで、それ以上の付き合いは基本的にはなかった。ハリウッド映画で見るようなアメリカ人の暮らしぶりとは少々異なっていたことに違和感を覚えた。映画で描かれていた世界に期待を抱きすぎていたのかもしれない。映画が現実に与える影響力の大きさにふと気づいた体験だった。


◇東海岸デビュー

語学学校のプログラムが終わり、夏休みに突入した。前々から計画していたアメリカ東海岸への旅行である。特段アメリカ国内でいきたい場所がある訳ではなかったおれは、誰でも一度は耳にしたことがあるであろう、シカゴ、ニューヨーク、ワシントンD.C.を2週間ほどかけて訪れた。

アメリカに来て初めての長期旅行だったため、この時も新しい発見が多かった。そもそも国土の広いアメリカでは、西海岸と東海岸で時差があったり、気候や植物、各都市にいる人々の特色など、地域差が大きく現れていることに衝撃を受けた。百聞は一見にしかず、である。

ハプニングもいくつか経験した。シカゴでは旅慣れていなかったこともあり、夜中に治安の悪いエリアに足を踏み入れ、血の気が引くような思いをしたことがある。また、最終目的地だったワシントンD.C.では、空港のアンテナ故障により2、3日飛行機が飛ばず足止めを食らった。吹っ切れたおれは、レンタサイクルを借りて、ワシントンD.C.の街をチャリで爆走したのを覚えている。周りから見たら株主優待でおなじみの桐谷さんのような感じだっただろう。そのため、ワシントンD.C.の主要な観光スポットはほぼ完全に網羅した。

いずれにせよ、おれが海外旅行好きになったのは、この時から始まったのかもしれない。好奇心を刺激されたアメリカ東海岸旅行であった。


◇学部留学時代

語学学校での生活が終わると後半は、現地大学の授業を現地の学生と一緒に受ける「学部聴講プログラム」が始まった。

おれの留学先の大学では、授業を履修する際、制度上、以下のような形で優先順位が設定されていた。下に行けば行くほど、履修をするための要件が厳しくなる。

・現地学生
・正規留学生
・学部聴講プログラム

見ての通り、おれが参加していた学部聴講プログラムは見事に最下層だ。そのため飛び込み営業さながら、授業の合間の教授が空いている時間を見計らって、授業を取れるか教授と交渉しなければならなかった。語学学校で伸ばした英語力を実践の場で使わざるをえない状況が自然と出来上がっていた。この仕組みを考えた人は天才に違いない…と交渉に苦しみながら考えていたのが懐かしい。

そして最終的におれが取ることのできた授業は全部で4つ。「心理学」「プレゼンテーション」そしてジャンルの異なる「言語学」のクラスを2つ取っていた。日本の大学では主に法律を学んでいたが、せっかくだったのでアメリカでは日本の専攻とは全然関係のない授業を取ることにした。

個人的に語学自体は好きだったこともあり、言語学の授業は非常に興味深かった。想像以上に言語と文化は密接に結びついていて授業に出るたびに新しい発見があった。

また、プレゼンテーションの授業では、何度もメンタルが折れそうになったが、かなり貴重な経験が積めたと思っている。最初は1、2分の自己紹介から始まり、最終的には自分の気になるトピックについてスライドを使いながら5分ほどのプレゼンテーションを数回行った。発表当日は朝から頭が真っ白になるくらい緊張していたが、実際のところ発表が始まってしまえば、思いのほか英語もぽんぽん出てきて「意外になんとかなる」という感覚を掴めるようになった。

また、クラスにはアメリカの大学らしく個性的な仲間が多かった。中でも際立っていたのが、メイクアップ系のYouTuberがクラス内にいて授業が始まって時間がそれほど経っていないのにもかかわらず堂々と発表していたのが懐かしい。彼女いわく「資生堂のメイクブラシは最高よ」とのことだ。思わぬところで、クールジャパンとYouTuberのポテンシャルに気づいたのはこの頃だった。

こうして振り返ってみると、語学学校を経て現地大学の授業に参加できるというのは非常に有意義なものだった。繰り返しにはなるが、この仕組みを作った人物は天才に違いない。

さて少し話は変わるが、学部聴講のプログラムを受けるタイミングで、新たにヨーロッパやブラジルから新しく留学生が来た。この時、鮮明に記憶しているのは、彼らの英語力の高さに衝撃を受けたことである。

彼らは死ぬほど英語ができたのである。おれが10年近くかけて積み上げてきた英語力をほんの一瞬で超えてきた。それもちょっとしたレベルの差ではなく圧倒的なレベルの差を感じた。それはもう、アメリカに到着して授業内でネイティブの学生と問題なく意思疎通している姿をみて、絶句したのが記憶に残っている。

留学中何度か挫折を経験しているが、この時のダメージは半端じゃなかった。

後に、ヨーロッパ系の言語は歴史的に英語との繋がりが強いことがわかりその理由に納得した。言語学の授業を取っておいて正解だと感じた好例だ。


◇留学終了、そして帰国

学部聴講のプログラムも終わり「帰国」という現実が近づいてきたタイミングで、おれは留学時代に知り合った友人とアメリカ国内を巡るべく旅に出た。すでに東海岸の有名都市は訪れていたため、この時はテキサス州やマイアミ 、アトランタ、カントリーミュージックの聖地ナッシュビルなど、主にアメリカ南部の都市を20日ほどかけて巡った。この時も各州、各都市の違いを肌で感じ、自分の中で価値観がアップデートされていくのを強く実感した。

余談にはなるが、アメリカの中でおれが唯一複数回訪れた都市がある。そう、みんな大好き「ラスベガス 」だ。上で述べたアメリカ南部旅行のスタートとゴールもラスベガスだった。ちなみに留学期間の11ヶ月の間に4度も訪れた。どうやらおれは欲望の交錯するギラついた街に吸い寄せられていたようだ。

こうして帰国前最後の旅を終え、再び留学先で出会った友人たちに別れを告げるべく、おれはロサンゼルスに戻った。そしてアメリカ留学最後の夜は、仲の良かったブラジル人たちとベニスビーチ近くのナイトクラブで楽しく飲み明かした。

こうして楽しかったおれの留学生活は終わりをむかえた。

帰りの飛行機の中で、隣に座っていた旅行帰りの女子大生たちの会話を聞いて、ようやく現実に引き戻された…。


【第6回】留学後に続く。


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