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そもそも脳と体の作りが違うのだから|生きづらさを感じていた私が開きなおれた楽になる考え方

日本で暮らしていて、「今日は肌寒いな」と感じるような日に半袖短パンで元気に道を歩く欧米の方をたまにみかけませんか?

あの方たちは、気合いと根性で寒さに耐えながらあの恰好をしているのでしょうか?

かじった知識なのですが、欧米の方たちと私たち日本人とでは、そもそも体感が異なっているそうです。だから私たちが肌寒いと感じる気温でも彼らは寒いと感じていないので薄着で歩いても平気なのです。

私はここで欧米人の方々の体の作りを説明したいわけではありません。

感じ方が違うという出来事は、同じ日本人同士でも起こっているのではないかと近頃感じるようになり、自分自身の生き方や考え方にも適用できると思い今回この記事を書いております。

例えば今生きづらいと感じている人たちは、たまたまこの現代のシステムに合っていない脳や体の作りで生まれてきてしまっただけで、場所や時代が変われば生きやすくなる可能性もあるのだということを伝えたいのです。

この現代のシステムに適合した脳や体の作りをもって生まれてきた方たちは、生きづらいと思っている人たちが「苦しい、つらい」と感じることが、10分の1位のダメージしか受けていないのかもしれません。

あと私にとっては全く信じられない「嫌なことがあっても寝たら忘れられる」「パーッと飲んだら忘れられる」という回復法ですが、現代システムに合っている方々はこの方法で本当に回復している可能性もあります。

何が言いたいかと申しますと、
同じ国籍だからといって、全く同じ条件でこの社会で生きているわけではない可能性があるのだから、もう他の人と比べて「あの人はあんなに頑張って成果を出しているのに…」と自分を卑下することはやめようよ、そして現代システム適合者の方々と同じ生き方を目指すのももうやめませんか?ということを、今生きづらさを感じている人たちに伝えたいのです。(といいながら実はまだ未練のある自分に一番言い聞かせたいのですが…)

私もずっと生きづらさを感じて生きてきた人間でした。
でも最近この「そもそもの作りが違うんだから仕方ないじゃん」という考え方になって少しずつ楽になってきました。

ここに至る経緯を少し長くなりますが書いていきたいと思います。

幼少期の私は無邪気に遊ぶことができない子でした。みんなが楽しんでいる時に自分は楽しめないことが多く、友達の輪に入ることがとても怖かったです。

先生の目や友達の言葉にとても敏感になってしまい、そっちに気をとられて遊ぶことに集中できないのです。しかもその緊張感がそこから離れた後も続き、常に疲れていました。

その当時私は、周りのみんなも私と同じように感じているけど、みんなは無理して明るく楽しくふるまっているのだと本当に思っていました。
なのでそれができない自分は努力不足だと感じ、自分の弱さをコンプレックスに感じていました。

また私の育った家が様々な家庭内トラブルを抱えた環境でして、母親が苦労している姿を毎日間近で見ていたので、自分も辛いけどこんなことで母親の心配事を増やしてはいけないと子供ながらにひっそりと心に誓っていました。そしてとにかく早く母親の苦しさを取り除いてあげたい、そのためにはお金が必要だと思いました。

そして小さな子供ができることといえば、その時一番耳にしていた「いい大学に入っていい会社に就職すれば幸せになれる」という方法を愚直に信じて進むことしかありませんでした。

こうして私は自分自身としっかり向き合わないまま、一般的な幸せのレールが自分にあっているのかなんて考えずに、受験勉強を始めることにしました。

学校生活の中で、モヤモヤすることが起こっても、とにかくまずは幸せのレールに乗ることを優先させ、その時出てきた自分の感情にはフタをして我慢をするというワンパターンでやり過ごし、対処スキルを磨かないまま成人になった為、社会人になってから大きな挫折を味わうことになりました。

詳しくはこちらをご覧ください。


大人になっても自分の弱さに悩まされていました。周りの同期が楽しそうに仕事をしている中で、私は仕事のストレスと人間関係で心身ともに疲れ切っていました。

当初の目的であったお金を稼いで母親を幸せにするという目標は、今考えれば当然なのですが、新卒ですぐに大金をもらえるわけはなく、それどころか仕事のストレス発散の為に給料を使ってしまい、母親に楽をさせるような大金を貯めるには、この苦痛な日々を何十年と続けなければならないことがわかり、その前に自分が壊れてしまいそうだと感じ、新卒で入った会社を退職することにしました。幸せのレールに乗ったはずなのに、そこで私は幸せになることができませんでした。

そこから転職を2回して、結婚して今に至ります。その間に、実家の問題のいくつかは時間とともに解決していました。(不本意ながら解決したものが大半ですが)

結婚して仕事を辞めて、自分が追い求めていた生活とは違っていますが、生まれて初めて、安心できる環境に身をおける日々を経験できるようになりました。

そこで改めて自分と他者についてじっくり冷静に考えるようになりました。そして自分で考えるだけだと限界がくるので、主人の考え方も聞いてみるようにしました。

私の主人は私と全く違う性格です。人生楽しそうに生きている人の思考回路を知りたいという気持ちが、主人との縁を結んでくれたのかもしれないと今になって思います。

そんな主人の考え方を聞いていくうちに、「これは楽しもうと努力しているのではなく、もともと持って生まれた感じ方や見え方のフィルターが私とは全く違うんだな」という発見をしました。私にとってはとても新鮮で考え方ががらっと変わる経験でした。

生まれてくる環境も体型も得意分野も自分では選べません。それなのに、みんなで同じ競技をさせられているのが今の現代社会のような気がします。そしてほとんどの日本の学校ではその競技で勝つ為だけの教育しかしてもらえません。

実際は、その競技が生まれつき得意な人もいれば、努力して食らいついている人、努力したけどダメだった人(←私)、全く得意分野じゃない人など、様々です。

そして最近になって私は気づいたのですが、既存の競技ではなく、全く違う競技にチャレンジしている人も増えているような気がします。

努力したけどダメだった人や、全く得意じゃない人も既存の競技から離れて、新しい競技で生きていく覚悟と練習を始めた方がいいと思うのです。

それじゃあ、自分の子供にはどうさせるか?

既存の大多数が参加している競技をやらせるのか、それともまだ誰もやったことがない新しい競技に挑戦させるのか、子の適性をみて子供と一緒に決めたいと思っております。
ただ、どちらに進むにしても、身に起こる出来事からこの世の中で起こっている出来事まで、広い視野、高い視点で俯瞰して考えられる力をつけさせたいと思っております。

そして何より大事なのは、子供が帰ってくる家を、じっくりと自分と向き合える安心できる場所にしてあげることだと思っています。

最近私はふとした時に、フタをしていた感情が溢れてきて、苦しくなることがよくあります。

これは過去の自分が感じるはずのものが、今になって出てきているのだと思い、しっかりと受け止めるようにしています。

そして感じきった後、日常生活に戻りしばらく過ごしていると、自分の意志とは関係なしに、思いもしないタイミングでふと「ああ、これはこういう風に考えればよかったんだな」というような俯瞰した考え方が頭に浮かんでくることがあります。

本当ならこのプロセスを小さい時に両親に守られながら体験出来ていたら、自分のキャリアも全く変わっていたかもしれないのに、と思います。

だけどそれは叶わないことなので、今の私にできることは、この私の苦い経験を我が子にどう生かすか考え、実行していくことだと思っています。

以上で終わりになります。
思いつくままに書いてしまったので、まとまりがない記事になってしまいましたが、最後まで読んでくださり誠にありがとうございました。

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