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あいつは37km地点にやってきた

あいつはいつも突然やってくる。
足の筋力と思考能力をおとろえさせ、走る意欲をまる切りそいでしまうやつ。

今回は来ないのではないか。ちらりとそんな期待がよぎったのは30km地点。そこまで順調だったからだ。

「甘かった」と気づいたのは 37km地点だ。

スタート

3月27日(日)。快晴。予報では最高気温は 20℃を上回るらしい。風は少し強めで 4m/秒くらいだが間もなく落ち着くはず。今日のポイントは暑さへの対処だろう。この冬は寒かったので身体はまだ 20℃の気温に慣れていない。半袖、短パンで走るのも今年に入って初めてだ。脱水症状にならないように給水ポイントでは毎回、水分補給をしよう。そう思ってスタート地点に立った。

フルマラソンの参加者は 1,700人。朝、会場に到着すると大勢のランナーが仲間と談笑したり、少し緊張した面持ちでウォーミングアップをしたりしていた。響き渡るMCのアナウンス、風にたなびく大会の"のぼり"、抜けるような青空。やっぱりリアルな大会はいい。気持ちが高ぶる。

コロナ対策のためスタートはウェーブスタート方式。全員一斉ではなく、目標タイムごとに 10分刻みでスタートする。私はサブ3.5(3時間30分切り)が目標だから第3ウェーブだ。

マラソンの作戦には、ポジティブスプリット(前半飛ばして、後半ペースダウン)やネガティブスプリット(その逆)がある。でも最もエネルギー効率がいいのはずっとイーブンペースで走ることだそうだ。

前回の大会は3時間34分だった。今回は何としてもサブ3.5を達成したい。だからイーブンペースの作戦を立てた。ぎりぎり目標達成が可能な4分58秒/kmよりわずかに早いペースで走り続ける。30kmを過ぎて余力があれば少しペースを上げて記録を伸ばそう。

10km、そして20km

第3ウェーブのスタートは 10:35だった。道幅はそれほど広くないので常に10人ほどのランナーが一緒だ。ざっ、ざっ、ざっという足音、そして規則正しい息遣い。1kmを過ぎる度に鳴り響くスマートウォッチのアラーム。一人ひとりが自分の目標を胸に秘めて、寡黙に同じ道を走り続ける。それぞれが自分との対話を続けている。緊張感と高揚感が入りまじるこの雰囲気が好きだ。

10km 地点は49分18秒で通過した。4分56秒/kmのペース。

背筋を伸ばして、腕は後ろに引いて肩甲骨を動かす。それに連動させて足を動かす。歩幅は大きくなりすぎないように。ピッチは 1分間に180歩以上。私は気が急くと無意識のうちに歩幅が広がる。するとどうしても飛び跳ねて上下動が大きくなり余計な筋力を使ってしまう。自分の限られたエネルギーはできるだけ前方にだけ向かわせたい。歩幅に対する上下動の比率は7%未満に抑える。歩幅は小さく、ピッチは細かく。

ハーフの21km地点を過ぎた。タイムは1時間43分25秒。引き続き4分56秒/kmのペース。順調だ。

今回のコースは往復21kmの道を2往復する。ハーフ地点ということはスタートの会場に戻ってきたということ。MCのアナウンスが聞こえる。家族や友人を応援する人たちの姿も目に入る。思わずペースが上がり、次の1kmは4分41秒になった。この日の最速。

トレーニング

ランニングが日課になって約10年。タバコをやめてからの年数と同じだ。一生に一度のつもりで初めてフルマラソンに参加したのが2016年。その時は4時間27分だった。30kmを越えてからの苦しさは想像以上。何度も立ち止まって泣きながらゴールした。あれから6年。毎年フルマラソンに参加している。年々、地味にタイムを短縮してサブ3.5が目標と言えるところまできた。

コロナ禍になって在宅勤務が多くなり、走る距離は伸びた。月間のランニング距離は300km。でもこの1年は何度か大会が中止となりモチベーションを維持するのが難しかった。だらだら走って距離だけ稼ぐ日が続いた。

気持ちを切り替えたのは今年1月に入ってから。スマートウォッチでランニング中の自分の身体の変化を確認するのが楽しくなった。ペース、心拍、ピッチ、上下動比、左右の足の接地時間とバランス。

Youtubeでランニングの練習法を学んでインターバルも始めた。私の場合は4分/kmの1kmランと3分ジョグを5セット繰り返す。心肺機能を高めるのがねらいだ。

大会の3週間前には35㎞走を行った。2時間48分、4分49秒/km。これは自信になった。

30km

30km地点は2時間27分で通過した。ここまで4分55秒/kmのペース。

気温は上昇し続けている。この日の最高気温は気象庁の記録では19.2℃だが、河川敷はもっと高かったのではないだろうか。会場で「今、22℃です」というアナウンスを聞いた記憶がある。

息は少しづつ上がってきている。腰の左側に鈍い痛みを感じ始めている。でも30kmまで来た。この地点で余力を感じるのは初めてかもしれない。大丈夫だ。

数km毎に設けられた給水ポイントでは都度、水を補給した。ただし走りながらコップの水を飲むのは難しくて、毎回一口づつしか飲めていないのが気がかりだ。ランニングポーチに入れたエネルギージェルは3つ。予定通り15km、25km地点で2つ補給した。アミノ酸のBCAAも身体に取り込んだから筋力の低下を抑えられているはずだ。塩分のタブレットも口にした。あと1つ、カフェイン入りのジェルが残っている。35km地点で補給するつもり。

前を走るサブ3.5のペーサーが30km地点で少しスピードが落ちた気がした。自分に余力があることを確認して、ペーサーを抜いた。

次の1kmを4分51秒。さらに次の1kmを4分50秒。

しかし、喉の渇きを感じた。無理はやめよう。33kmを過ぎてペースを戻した。34,35,36kmと元のペース、4分56秒/秒前後で走り続けた。

37km地点の給水ポイントが目に入った。ここは立ち止まってしっかり給水しよう。ついでに膝と腰、股関節をストレッチして最後の5kmに備えよう。

37km

37km地点に到着した。ここまで3時間2分11秒。4分55秒/kmのペースで来ることができた。後続のランナーに衝突されないように慎重にスピードを落として水とスポーツドリンクのコップを一つづつ手に取った。立ち止まってすべて飲み干した。もう一杯水をもらって膝と頭にかけた。ストレッチもした。

さあ、ラスト5km。走り出そうとした時、足は動かなくなっていた。

先ほど抜いたペーサーが通り過ぎていった。それに続くランナーも次々に走り去っていく。私は呆然と見送った。

まさか、ここであいつがやって来るとは。

30kmの壁という人がいる。35kmという人もいる。ケースバイケース。自分の経験ではいつもどちらかだった。37kmで来るとは思わなかった。

あいつは、突然やってくる。
足の筋力を奪い、ゴールを達成する意欲をそぎ落とす。走るのがつらいと感じる。

目の前の世界が変わった。これまで1km単位でペースを計ってきたのに、100m先の目印を探した。そして、それさえも遥か遠くに見える。

ゴールに向けて

苦行が始まった。

「サブ3.5は無理だな」

一瞬でネガティブ思考に変わった。

「インターバルも頑張ったのにな」
「またあと1年か、長いな」

でもリタイアは避けたいという気持ちは残っていた。とりあえず次の1kmまで。100m刻みで河川敷の木やトイレやゴミ箱を目印にして走った。10個の目印を積み重ねたら1kmだ。

気温は上昇を続けている。次の1kmは5分13秒、その次は少し盛り返して5分2秒と続いた。

37km地点まで平均4分55秒/kmのペースで来たということはサブ3.5のペースより3秒/km早いので、3×37=111秒の貯金があったはずだ。

39km地点、貯金は60秒ほどになった。ぼんやりした頭で計算する。合っているだろうか。

40km地点。3時間17分23秒。あと12分強。本来なら残り2.15kmのはずだが、実際の距離はスマートウォッチの計測よりも少し長いから残り2.35kmほど。

42km地点。3時間27分47秒。あと2分13秒、残り350m。

左に曲がるカーブの先にゴールが見える。「あと200m!頑張れ!」誰かの声が聞こえた。フォームはめちゃくちゃだ。歩幅は広くなり、上下動も激しくなる。あごを上げて走った。

3時間29分26秒。(手元の時計は28秒)

頭も足もとっくにしびれていたが、最後は心までしびれた。

水道の蛇口を見つけて、よたよたと近づいた。蛇口をひねって頭から水をかぶる。

見上げると青空が綺麗だった。

これからのこと

あいつは37km地点でやってきた。残りたったの5km。一瞬で世界が変わった。

あいつがやってくる原因はさまざまだ。一般的にはエネルギーの枯渇。人が体内に蓄えられるエネルギーは概ね1,500Kcalだけれど、フルマラソンで消費するエネルギーは2,500Kcal。事前のカーボローディング(炭水化物の摂取)とランニング中の補給が不足するとガス欠になる。

他には例えば能力以上にペースアップすると、乳酸値が急上昇し筋力にダメージを与える。体内の水分損失は血液循環を減少させて脱水症状を引き起こし、筋肉疲労や倦怠感をもたらす。

フルマラソンを走ることは自分との長い対話だ。身体の一つひとつの器官や、自分の心に話しかけて、膝はこのペースに耐えられるか、モチベーションは維持できそうか、補充が必要なものがあるかを確認していく。

あいつにつかまるまで、そしてつかまってからの自分との対話は、終わってみればとても学びの多い時間だったと思える。

サブ3.5は日本のフルマラソン完走者の上位10%の人が達成している。ランニングを始めて10年。人より随分と時間をかけてここまで来たと思う。

でも、もう少し、やれそうな気がしている。


(備忘録)


今回私が37km地点で失速した原因は3点。次回に活かしたい。

 ① ハーフ地点のオーバーペース
会場に戻ってきた時の雰囲気に飲まれてペースを上げてしまった。たった1kmだが、15秒/kmのペースアップ。その無理は80分後に大きな影響を足にもたらした。

② 水分の不足
気温は上昇し続けていた。給水ポイントでは毎回水分を補給したものの、量が足りなかった。立ち止まりたくないので1口づつしか飲むことができなかったからだ。

③ 30km地点のオーバーペース
今になって思えばこの時点で確実に自分は脱水症状が近づいていた。にも関わらずペースを5秒/km上げたことで脱水症状が一気に進行した。

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