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「花をもらう日」第二章 苔が生えた⑥

 細い廊下の先に、公開放送の番組でよく見るような広々と明るいスタジオが開けていた。
 数台のカメラ、天井と床に取り付けられた照明、雲のような曲線のテーブル、一脚の椅子がいっぺんに目に入る。パールをまぶしたようなきらきらした壁が、立ち働く人のTシャツをより白く見せている。
 ADの男性は、じゃああちらへ、と椅子を示した。床の上にうねる数本の太いケーブルを注意深くよけ、セットの段差をあがって、わたしはゆっくりとその固い椅子に座った。ピンマイクを付け、ディレクターから説明を受ける。原稿はテーブルの上にあるが、正面にあるモニター画面に内容はそのまま映し出されるので、モニターを見て文字を読めば、視聴者にはカメラ目線で喋っているように見えるのだった。へえ、テレビってすごいですね、と口にしたら、ディレクターが苦笑した。こういう素人っぽい人材も面白いんじゃないかと思ってもらえたらなと、わたしはせこい計算を働かせたのだった。
 「じゃあ、キューランプでお願いします」
 ディレクターがテーブルから離れ、わたしはモニターに目を向けた。片目だが、なんとか原稿の字は読める。大丈夫。大丈夫だ。
 「はい、カメラ回ります。5,4,3,2,1」

 『おはようございます。9月9日の朝、お目覚めはいかがでしょうか。まず今朝のニュースの項目です』
 広い場所ならではのエコーがうっすらとかかっている自分の声を、わたしは聞く。うん、うまい。すごくいい。そうやって、その気にさせて加速を促すエンジンが稼働し始め、一方で、そんな自分を冷静に観察する司令室が立ち上がる。頭の中にこの2つが同時に生まれる感覚を、わたしは久しぶりに味わっていた。
 ───ああ、出てるな。ニュースの声、ちゃんと出てる。
  
 楽しいとか、達成感が得られるというのは、ほかの仕事でもあるだろう。でもわたしにとって仕事をすることは快い、気持ちのいいことなのだった。
 これしかない、と思う。自分にとって自信を持つということを実感できるのはこの仕事しかない。うぬぼれでなく、お金のもらえる技量が、自分にはある。
 3本の原稿を初見で、一度もつっかえることなく読み終え、ディレクターの「ありがとうございましたー」の声を聞いてわたしはセットから下りた。カメラマンの隣にいるマネージャーに向かって歩いて行くと、番組の男性スタッフが彼女に「あの方の声、いいですね」と言っているのが聞こえた。「でしょー」と彼女は笑って頷いていた。
 田舎くさいと切り捨てた人材が継続的にお金をもたらす存在になったら、途端に態度を変えるのだろう。いいよ。それがあなたの仕事だもんね。すごく芸能界っぽいよね。かばうような、労うような、余裕のある気持ちでわたしは思った。
 「お疲れ。これで終わりだよ」
 微笑んだまま彼女は言った。スタジオの袖でわたしは、ありがとうございましたと四方に頭を下げ、廊下に足を向けた。
 次の居場所はきっとここだ。
 充実感が身体を満たしていた。

 出来上がった眼鏡は母に取りに行ってもらうしかなかった。オーディションの翌日、左目にも激痛が走り、やはり角膜がはがれかかっていると言われたのだった。コンタクトレンズの保存液や洗浄液を買うお金を渋ったのがよくなかった。レンズの汚れはばかにできない。
 久しぶりに、眼鏡をかけて鏡を見る。度がきついせいで目が不自然にちいさくなっているうえ、太く大きい黒縁が滑稽さを打ち出し、アンバランスに不機嫌な顔が映っていた。美容整形の広告のようだ。くしゃっと笑ってみたら、顔の半分が眼鏡になった。仕方ない。しばらく家で本を読んで過ごせばいい。手元には叔父から借りた『ワイルド・スワン』と『砂のクロニクル』があった。かなりのボリュームで、読みでがある。
 あの数分間の満足感は、数日経っても心地よいだるさのように身体の中に残っていた。片目なのに全力を出せた自分を、わたしは評価していた。自分の人生のストーリーは、会社員⇒ラジオ⇒テレビという流れで進んでいくのだ。そうとしか考えられなかった。
 待ち望んでいた電話は、きっかり1週間後にかかってきた。鳴ったときに、これだとすぐに分かった。ああ、こういうときはなんて言われるんだろう。おめでとうございます? それとも、合格しました? わたしはことさらゆっくり受話器を取った。
「あ、浩子さんですか」
 ビンゴ! 事務所のKさんの声だった。先日はありがとうございました。わたしはそう言って次の言葉を待った。

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