中島敦『わが西遊記』
本日は中島敦の生誕日であり、過去にもこのnoteでも関連記事を投稿してきた。最近Twitter/Xで紹介した古書・中島敦『わが西遊記』に対して少々反響をいただいたので、こちらであらためて紹介してみたい。
本書は京北書房から、戦後の1947(昭和22)年9月に刊行された。もちろん中島敦の死後の出版である。『わが西遊記』というのは、「悟浄出世」・「悟浄歎異―沙門悟浄の手記―」をまとめて称したもので、中島自身がこれらの二作品の末尾に「わが西遊記の中」と記していることにならったタイトルであることは明白である。当初はさらに続くシリーズとして構想されていたに違いないが、中島は志半ばで世を去ってしまった。「西遊記」というキャッチーな物語をとっかかりにして、終戦直後の段階ではまだ十分に知られていなかった中島敦という作家を知らしめたい、との出版社の思惑が見えるタイトルのつけかたであるが、中島敦作品のなかで「わが西遊記」二作品がことのほか好きな私のような読者にはばっちりと突き刺さる。
ところで「わが西遊記」といえば、無頼派の一角として太宰治の弟子を自称した作家・田中英光も、1944(昭和19)年に、『我が西遊記』という書籍を出版している。その名の通り西遊記に元ネタをとった小説を上梓したわけだが、その序文に出て来るエピソードがなんともエモい。
太宰治と田中英光が中島敦について話しているのがまずは興味深いし、中島敦の「わが西遊記」シリーズ二作に刺激されて、また太宰に慫慂されて、田中は西遊記を書こうと思ったわけである。もちろんこの時点ではこの京北書房刊『わが西遊記』は出版されていないので、もしかしたら京北書房は田中英光の著書を憶えていて、戦後に中島敦の『わが西遊記』を構想したのかもしれない。ちなみに中島敦は34歳で没し、田中英光は36歳で自死しており、両者とも青春を西遊記に託した小説を書きつつ、早世した。
本書『わが西遊記』にはこの二作品のほか、古俗(「盈虚」・「牛人」)、過去帳(「かめれおん日記」・「狼疾記」)、さらには「山月記」が合わせて編まれている。
この本には巻末に、『近代文学』同人で、評論家としての活動を開始しつつあった文学者・平田次三郎の「青春の文学」と題する解説が付されている。その冒頭には「中島敦はいまは亡き詩人です。彼は青春の浪曼的心情を、近代的ペシミズムの色どりのうちに歌ひあげた詩人であります」と書かれ、中島敦をいわば「青春の詩人」と規定している。そして中島敦の年譜などを紹介したあと、次のように続いて中島作品の特徴を解説している。
すなわち、「青春の特権」を色濃く反映されていることが中島作品の第一の特徴であるとする。また、平田は中島作品の第二の特徴としてエキゾチズムを挙げ、南蛮もの、キリシタンものを書いた芥川の直系とまで言っている。そして、第三の特徴として教養の幅広さ・深さを挙げている。単に教養が深いだけではなく、それを作品の骨肉として生かしていることに特徴があるという。また、それをふまえたうえで、中島作品の難点を、社会との関わりを考えることなく自己の内面に限って自意識を探求していることであると述べている。
そして、中島敦は私小説的ないくつかの作品を除いてはほぼフィクションで創作した作家であるとし、完全なフィクションに基づく文学は、いかに主体的真実性をそのうちに確立するかにその成果がかかっていると述べたうえで、そのリアリティの確立がどの程度成功しているかは読者自身の判断によるべきだとしている。昭和文学史上の異色ある「青春文学」だと改めて規定する。
「悟浄出世」・「悟浄歎異」の二作品には、文学研究としては様々な解釈があるものの、素直に読めばこれらは沙悟浄を主人公にしたいわば「自分探し」の物語であり、自意識の究極には何があるかを究めんとする悟浄の精神的苦悩が描かれている。戦後の混乱が覚めるかどうかの時期において、青春の懊悩にも近い日本の再生に迷っている状況において、この青春物語を中心に『わが西遊記』という形で出版した出版社の慧眼を喜びつつ、本書を愛でたいと思う。
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