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【ネーム原稿】ムーンクリエイター 後編【解説付き】

前回

 まずこの記事を読む前に注意。

最初に漫画本編をダーッと読んだほうがいいです。

解説はバカみたいに長いので、眠くなります。
挫折しちゃいますので、解説なんか読まないほうがいいです。

掲載作品は「ネーム原稿」です。

 「完成原稿」ではありません。「ネーム原稿」です。完成原稿とか、もう描く気力もありませんから……。
 もしもここに掲載されているネーム原稿を完成原稿にしたい……という人は声を掛けてください。「マジか……」とドン引きしますが、対応します。
 いっそ、版権フリーにしちゃって、「いくらでも好きに仕上げやってください」……ってやるのもいいかも知れないけど。

 それでは『ムーンクリエイター 第1話後編』をお楽しみください。

 ここから『ムーンクリエイター』の後編!
 前編公開からおよそ15日……。ネームを作るにも前準備にどうしても時間が掛かってしまう。
 それはさておき。
 第1話後半戦。冒頭のこのシーンは、もともとの脚本にはなかった。このシーンにどんな意味があるのか、「ヘイム」という謎の言葉の意味とは何なのか。それは後々明らかにしていきましょう。
 シーンの解説をすると、105~106ページは千里カノンが5歳の頃の話。現在とイメージが違う。実は千里カノンは高校卒業までずっと髪が長かった。専門学校に入る前に、髪型も服装も変えて、これまでの自分と違う振る舞いをしようとした女の子だった。もともとの千里カノンは髪が長くて、大人しい女の子だった。
 105~106ページでは“誰か”とお別れをしている。お別れをしたのは、父の弟。でも5歳のカノンには、どうしておじさんが家から追い出されたのかよくわからなかった。


 それから2年後……。家を追い出された父の弟は路上死してしまう。1コマ目は警察がやってきて、弟の死を知らせているところ。2コマ目で遺体を引き取り、火葬場で焼いている。
 3コマ目から遺骨を家に持って帰ってきて、母が「火葬代くらい自分で用意しておいてくれれば良かったのに……」という場面から始まる。
 死んだ弟に対し、家族は冷淡だった。「死んだ後も家族に迷惑を掛ける。最低の弟だった」――と父。兄弟が死んだというのに、この冷淡さ。カノンの兄は「遺骨なんて気持ち悪いから早く捨てちゃおうよ」と。
 死んだ人に対し、どこまでも冷淡な家族。この冷淡さが実は2040年代の「常識」になっている。社会から脱落した人に対し、どこまでも冷酷。冷酷であるという自覚すらない。
 しかしその「常識」がまだ備わっていない7歳のカノンは、死んでしまったおじさんを前にして、率直に「可哀想だよ」という意見を持つ。これがカノンの考え方のベースとなっている。
 2050年代には様々な「差別」があって、その「差別」には「正当性がある」とこの時代の人々は考えるようになっている。正論であるから差別しても構わない……という論理。カノンの家族はその常識にどっぷりはまっている。
 そんな2050年代の常識に対し、「可哀想だよ」という気持ちを持ってしまったカノン(そういう感覚を持っているから「差別を受けて当然」という立場の飾璃アヤナを救おう……と行動してしまった)。この気持ちを持ってしまったから、どこか2050年代の「常識」には馴染めない。明るく振る舞っているふりをしながらも、どこか孤独を感じている。

 この回想シーンがどんな意図があるのかは、もうちょっと後で説明しよう。

 目を醒ます千里カノン。子供の頃を思い出して、憂鬱な気持ちになる。
 ふと気になるものがあって、ベランダから辺りを見回す……。


 いつものようにベランダに出て、朝食がドローンで配送されるのを待っているが……。なぜか来ない。
 カノンはなにか違和感を感じて、空を見上げる……。
 ここで一番重要なのは、111ページ3コマ目。さあ、何がおかしい? 最初から読んでいて、絵をきちんと見ていればすぐに気付くはず。
 と、クイズにしてもしょーがないので、答えを言うと、ドローンが1機も飛んでない。2050年代は空を見上げるといつもドローンが飛んでいたはず。それが今朝は1機も飛んでいない。
 しかしカノンは空を見上げても、「ドローンが飛んでいない」ということに気付けない。違和感は感じるけれど、その正体がわからない。どうしてカノンは、「ドローンが飛んでいない」ということに気付けないのか? その理由はすぐに明らかになる。

 113ページに出てきているのは「無人コンビニ」。そこで朝食を買っている。2コマ目の看板に、「ノーレジ」という表記がある。
(この表記だと英語がわからない人に不親切だし、「レジ」の表記だけだと外国人に伝わらないし……この場合「レジスター」まで描かないとダメ。でもおそらく、日本企業はそこまで考えつかないから、こういう表記でやってしまうだろう……という想定で描いている)
 無人コンビニの利用方法は、まず入り口にスキャナーがあるので、それに手首のIDをスキャンさせれば入り口ドアが開く。この仕組みなので、「口座番号」を持っていない人に対しては開かない仕組みになっている。
 店内には店員はおらず、「ノーレジ」なのでレジもない。商品を自分で袋に入れて、出口のスキャナーに手首のIDをかざせば、自動で会計し、口座から引き落としたうえで扉が開く。
 この原理だから「万引き」などはできない仕組みになっている。そもそも口座番号を持っていない人に対し、扉も開かない。口座番号を持っていない人を店に入れない……というのも店側のリスクを減らす工夫である。
 あとあと出てくる話だけど、2050年代にはいろんなものが「効率化」されていって、こんなふうに色んなものが無人化、AIでの運営になっている。この話は後ほど。

 コンビニを出た千里カノンは、AIグラスを掛けるが……「エラー:AI停止」と中国語で出てくる。中華製AIグラスだから、こういうエラーメッセージなんかはまず中国語で出てきて、それを日本語翻訳しなければならない。
 とにかくAIグラスの「AI」の部分が機能停止に陥っている。でも事情を知らず「壊れた」と思い込む千里カノン。とりあえず学校へ……と歩道に出るが……。

 地面の水たまりに千里カノンの姿映る……おかしい、前日の夜には雨なんか降ってなかったはず……そこはスルーしよう。千里カノンの混乱を表現するための描写なので、多少の嘘があってもいいでしょう。
 歩道に出て当たりを見回す千里カノン。しかし周囲の風景にまったく見覚えがない。学校がどっちなのかもわからない。
 千里カノンは普段から「歩行アシスト」に頼りっきりで、動画を見ながら歩いていたので、いま住んでいる地域の地理がまったくわからない。カノンは専門学校に通うため、実家を出てこの地域に一人暮らしを始めたばかり……という子なのだけど、引っ越してきてからずっと歩行アシストを使って目的地を目指して歩く……ということをやっていた。だから「自分の目」でこの地域の風景を見ること自体が実は初めて、という状態。
 とは言っても、コンビニへ行って、そこから当たりを見回して「あれ? ここどこ?」というのは誇張表現。さすがにそこまで方向音痴ではない。
 116ページからコマ構成がグチャグチャになる。もちろん意図的にグチャグチャに配置している。パニックになっているカノンの心境を表現している。描写を見ると、「カノンが見ているもの」が描かれているわけだが、壁の落書きだったり、電柱だったり、道に生えているタンポポだったり……道に迷ったとき何を道標にするべきなのか、その勘が全く備わっていない。おそらくはかなり幼い時期にAIグラスを装着するようになって、以降はずっと《歩行アシスト》に頼りっきりの生活をしていたのだろう。道に迷ったときどうするべきなのか、その勘所がまったく身についていない。
 116ページ中段のコマですれ違う人と肩がぶつかってしまう。これも普段から《歩行アシスト》に頼りっきりだったから。自分の「肩幅」がわからなくなっている。ぶつかってきた相手ももちろん自分の肩幅がわからない。でも「相手が悪い」とまず思う癖が身についている。とりあえず「相手が悪い」と考えるのは2050年代の人のものの考え方。
 さらに横から突然飛び出してくる自転車。カノンはビックリして尻をついてしまっている。普段なら《歩行アシスト》で接近を察知した段階で「警告音」が出るし、自転車に乗っている人も普段から《歩行アシスト》を付けているはずなので、気付かないうちにかなり危険なすれ違い方をしてしまっている。

 その後で、ようやく「そうだ駅。駅を探そう」と思いつくカノン。線路を見付けることができれば、駅も見つかるはず……と考えるカノンだったが、実はそれもなかなかうまくいかず……。

 今さらだけどAIグラスの「機能」についての話。AIグラス自体は軽量化のために、実はそこまで色んな機能が贅沢に詰め込まれているわけではない。通信インフラは10年おきに刷新されるので、2050年代は「8G」が登場している頃(といっても出たばっかりなので、7Gが主流のはず)。7Gがどうなっているのかというと、1秒あたり10テラのデータをやり取りができて、しかもユーザーが密集している状態で一斉にデータを動かしても遅延なし。現代の「AAAゲーム」なんかはまばたきしている間にダウンロードできるし、メタバースは格闘ゲームに使うような精密なキャラクターを一つのエリアに1万人くらい集合させても処理落ちもしなくなっている。
 そういう状態だから、グラスそのものにデータを保持する必要なし……データの送受信をする装置だけが入っている
 バッテリーは「ワイヤレス給電」が社会的にかなり浸透しているので、AIグラスのバッテリー保持量は1時間ほどしかない。ワイヤレス給電で供給されてないエリアに出ちゃった……という時のためでしかなく、それも2050年代の社会ではほとんどないと考えられている。
 AIグラスはどんなハイテクマシンなのか……というと実はそこまで中身は詰まってない。データの送受信する装置と、ごく小さなバッテリーが入っているだけのもの。なので非常に軽い。これも2050年代の通信システムが優秀だからできるもの。
 そんなわけで基本的にオンラインに繋がらないとダメ。オンラインに繋げた先にトラブルがあると、すべてのグラスがダメになる……そういう弱点を持っていて、その弱点を今まさに突かれている状態になっている。

 どうにか学校までやってきた千里カノン。そこに突然の電話!
 なぜカノンがビックリしているのかというと、「AIグラスが故障した」と思い込んでいたから。故障して音は鳴らない……と思い込んでいるところに電話が鳴ったのでビックリしている。
 電話を受信すると、耳の側に電話マークが3Dホログラムで浮かび上がる。なんのためにこんなシステムがあるのかというと、AIグラス同士でハンズフリー対話をすると、客観的に見ると「大声で独り言を言っている人」のように見られてしまう。電話をする度に、まわりから不審がられてしまう。それでAIグラスの「つる」のところに小型プロジェクターが仕込まれてあって、電話マークが浮かび上がるようになっている。
 ナズナからの電話で、そこでようやく何かしらのコンピューターウィルスが拡散されていて、AIだけが使えなくなっている……ということを知る。AIグラスのAIだけではなく、AIタブレットのAIも使用不可。《歩行アシスト》が使えなくなっているので、学校にたどり着けなかった生徒を大量に出してしまうのだった……。

 ここまでは千里カノン個人がどんな異変に遭遇したか……を描いてきたが、次は「社会全体」でどんな異変が起きているのかが描かれている。
 ここのシーンは元々の脚本になかった場面。報道映像なんてありきたりで通俗的……と考えていたのだけど、やはり状況説明として必要でしょう……と思い直してこの場面を入れることにした。
 ただこの場面……119~120ページと121~122ページの文字情報量の密度違いすぎないか?
 これは私も想定していなかった。描いてから「あれ? バランスが悪い」と気付いた。制作が全て終わり、余力があったらページ構成をやり直そう。
 内容を見てみよう。
 報道では「謎の集団が神戸市内のデータセンターを襲撃し、一部サーバーを破壊しました」と報じている。これはどういうことかというと、「どうもウィルス感染したらしいけど、まだよくわからない……」という状況だから。
 事件当夜、現場にドローンが侵入していくのを誰も目撃していないし、防犯カメラも停止していたし、肝心のドローンは爆発してパーツから溶けてしまった。ハッキングに使用したパソコンも消失。コンピューターウィルスをまかれたにしても、いったいいつ、どうやってなのかわからない。警察もAIシステムを格納していたサーバーが破壊されたせいでおかしくなったのか、ウィルスによっておかしくなったのか、まだ判断の付けようがない。肝心なところが調査中なので、報道もやや曖昧な言い回しになっている。

 2050年の社会はあらゆるものがAIで運用されるようになっている。まずニュース原稿はAIライターが記事を書き、ほとんどの報道はAIアナウンサーが読み上げている。人間が出てくる必要のあるニュースだけが人間がやっている……という状態。だから今、ニュースをやりたくても「ニュースキャスター不足」に直面しているはず。
 次にコンビニなどの商店もほとんどAI。基本的に店員はおらず、レジも無人。品出しもロボット。
 運送会社もAI。運送は自動運転で、一般家庭への配送はドローン。人間が運ぶ必要のある品だけが人間が活動している。AIが動かなくなったので、「荷物は来ているけど配送ができない状態」になっている。今から人間の労働者を雇うべきなのか……しかし明日にも復旧、ということになったら雇った人を即日解雇しなくちゃいけなくなるし。そもそもそれだけの人間を雇えるだけの資金もない。
 ずーっと遡るけど46ページの喫茶店のシーンを思い出して欲しい。喫茶店やファミリーレストランといった飲食店もロボットアームが料理を作り、ロボットが料理を運ぶ……というシステムができあがっている。この辺りはAIがなくてもスタンドアローンで動けるものも結構あるだろうが、「食べ物を作れない」という事態に遭遇している。
 こんな感じに、AIがダメになっただけで社会が機能不全に陥ってしまっている。
 他にも《歩行アシスト》がなくなったから、道に迷うだけではなく、「人同士の肩幅」もわからなくなっている。だから人混みを歩くとぶつかり放題。これは未来の人間の能力に劣化が起きているため。さらに理性の劣化も起きているから、ぶつかり合ったらいきなり殴り合いの喧嘩を始めてしまう。これまではAIグラスで「ステイ! ステイ!」をかけてもらっていたけど、抑制するものがないから、あちこちで喧嘩が起きてしまっている。
 政府は直ちに状況の把握と事態収束を指示しているものの、エンジニアもAIがないとシステムの不調を戻せない……という状況なので、どうにもならない。
 AIに頼り切っていた弊害が一気に噴き出していく。そこでまず直面するのは、「人間の劣化」。AIによって人間は「自分たちは優れた存在」だと思い込んでいた。それは思い込みに過ぎず、実は劣化していたのだった……。

 AIがコンピューターウィルスによって動かなくなったために、《AIアシスト》なしの授業が始まる。その授業内容というのが、いわゆる「ロークラス教室」でやっているものと同じもの。生徒達が「AIなしなんて信じられない」という授業を始めるのだった。
 そこで千里カノンは、自分がまったく絵が描けないことに気付く。今までは「自分はそこそこ絵が上手い」と思い込んでいたのに……。
 一方、アナログ作画で「劣等生」と見なされていた飾璃アヤナはそんな状況下で「普通の絵」を描く。その絵を見て、カノンは初めて焦るのだった……。

 AIの怖さは、AIでアシストされたものが自分の実力だと思い込んでしまうこと。本当の自分の能力がまるっきりダメだと気付けないことだった。

 AIが機能停止に陥り、各所で大混乱だが、ロークラス教室は平常通り。それどころか、AIが動かなくなっていたことにすら気付いていなかった。
「普段からAI使ってなかったから影響なかったよ」
 としずのちゃん。嫌味で言っているのではなく、本当に影響がまったくなかった(しずのちゃんはそういう嫌なことを言う子じゃないです)。117ページのアヤナも実は何が起きていたのか気付いていなかった。
 AIから見放されたロークラスの人たちから見れば、世の中で起きている騒動はどこか遠い出来事のようだった。

 放課後。やっとナズナと合流して、帰路に着くことに。そこで登録者2000万人を誇るVTuberモモちゃんの引退を知るのだった……。
 ……あれ? このモモちゃんって、データセンターをハッキングしたアバター・モモとそっくりじゃない?? おっかしーなぁ。このネーム描いた人、キャラの描き分けができてないんじゃない?
 そうそう、AIグラスはAI機能がダメになっただけで、ネットには普通に繋がる。カノンは「AIグラスが壊れた」という最初の思い込みがあるから、動画の視聴ができることに気付かなかった。
 127ページの5コマ目に「ARモード視聴」、128ページの「VRモード視聴」という注釈が描かれている。といってもAIグラスは完全に視界を覆うデバイスじゃないので、本当はVRモードにはできない。ここは「雰囲気で」ということで……。

 モモちゃんの引退を知って、ぐったりしている千里カノンと樫月ナズナ。アヤナだけがモモちゃんのことを知らない。

 カノンたちが座っている場所はなんなのか? こちらの写真の左上。人が座っている様子が見えるが、あそこ。あのベンチはお話しの中で使う予定がなかったし、ロケハンに行ったときも人がいたので近くで撮影ができなかった。

 飾璃アヤナと別れて、千里カノンと樫月ナズナも帰宅する。対話シーンを終えて、帰宅場面へ。対話シーンはあんなにコマを敷き詰めていたのに、風景描写になるといきなり大ゴマ。キャラクターもどんどん小さくなっていく。こういうところから作者がどっちを重要視しているのかがよくわかる。私のことだけど。
 この辺りはワンワードごとに場面が変化していく。しかもすべて実在する場所なので、誰が見てもしっかりわかる絵にしなければならなかった。そうするとコマ数は少なくとも描くのに時間がかかってしまう。

 133ページ3コマ目の場所はこちら。ここのカット、構図どうしようか……と考えながら取材写真を見ていると、ちょうどいい写真が見つかったので、そのまま使用。写真をそのまま使うこともある。

 それにしてもネームってこういうものだったけ? ネームってこんなに時間をかけるものだったかな……。ふと気付くと、1日に描ける枚数が1枚半までに減っている。『天子姉妹の祝福』の頃はまだ1日3枚描いていたはずだったのに……。なにか間違っていることをしている気がするけど、今さら後戻りできない。どうしたものか……。

 ここも後編制作準備中に追加されたシーン。センタープラザを歩くと、あちこちにホームレスがうずくまっている。では消費を支えているのは誰なのかというと中国人の若者。
「ホームレス、こんなにいたんだ……AIグラスでずっと動画見てたから、気付かなかったなぁ……」
 2050年代の人々は四六時中AIグラスで動画を見ながら歩いているので、街の風景がどうなっているのかほとんど気にしない。目に入っても無視する。無視する、というのが習慣化している。千里カノンもAIグラスが使えなくなって、はじめてセンタープラザがどういう状況になっていたか気付くのだった。
 あと、そういうつもりはなかったけど、この場面を見ると中国人がカノンの左手にいて、日本人ホームレスが右手にいる……という構図になっている。中国と日本の地理的な方向と一致している。偶然だけど。

 133ページ2コマ目の地面に描かれているものはこれ。センタープラザの床には、よくこういうタイルアートが描かれている。

 街を歩きながら、千里カノンのモノローグが語られる。
 ここも元の脚本にはなく、後半パート制作時に新たに追加したシーン。
 2050年代とはどういう時代なのか? AIによる《社会信用度》がもたらした社会とはどんな社会なのか?
 ……という話は、「登場人物の体験を通して描かれるもの」であって、「文字情報で解説するものではない」……と私は考えていた。前編はその思想の通り描いてきたのだけど、しかし前編を書いているときから「あまりにも説明不足じゃないか?」と気付くようになった。あれもこれも、本編中できちんと説明されてないぞ? ……ということに気付いた。そこでやむなく「解説」を入れることにしたのだけど、でも「このタイミングでか?」「解説を入れるとしてももっと早くにすべきじゃないのか?」と自分で引っ掛かりながら、このページを制作した。
 こういうバランスの悪さは、脚本の段階で問題点を洗い出せていなかったから。後で問題に気付いて、後手後手で対応……ということになってしまう。『ムーンクリエイター』は構成が良くない。

 改めて本編について掘り下げていこう。
 まず「ヘイム」とは「靄」という意味。「ロークラス」は底辺とはいえまだ社会と関わりを持っていられるけど、「ヘイム」になると完全に社会との関わりが断たれる。
 なぜ「ヘイム」つまり「靄」という呼び方をするのかというと、2050年代はAIによる《社会信用度》がなによりも重要で、進学にも就職にも影響してくる。《社会信用度》が低いと入店拒否されることもある。「ヘイム」はそういう《社会信用度》の“審査外”になってしまった人。AIからすれば、「認識不可」……つまり「いない」と認識される。AIには「目」がないので、実在する人間だったとしても、認識不能の状態になると「いない」と認識される。
 AIが認識できない人間……2050年代の社会では「いるのかどうかわからない」という扱いになる。だから「靄」。
 AIは現実に存在する「誰か」ではなく、あくまでもバーチャルな存在。そのバーチャルな存在に認識されるように2050年代の人たちは頑張らなくてはならない。そのAIから認識されなくなったら、社会からも「存在しない人」という扱いになってしまう。これがAI社会の恐怖。
 ここで、後半冒頭、カノンのおじさんがどういう状態に陥ったかわかる。カノンのおじさんは失業し、《社会信用度》の審査外の存在になってしまった。それで「ヘイムになった」と言われた。そしてそういう人は家族であっても関係が断ち切られてしまう。AIに認識されない人間は、社会的に無価値な人間だからだ。それが2050年代の常識。もっとも、家族が関係を断ち切らなくても、社会のあらゆるものが関係を断つので、どっちにしろ孤立した存在になってしまう。

「労働生産性向上を名目にAIとロボットの導入を推し進めた結果、30年前と比較して労働人口の40%の削減に成功した」
「それはつまり、40%の人が仕事を喪うという意味だった」

 ここで40%の失業者が出た……という話が出てくるが、この数字はテキトーに出したものではなく、実際、40%の人々が失業するという試算が出ている(ソースはわからんけど)。
 ただし、これには注釈が必要で、社会構造が変化するとき、というのはその以前の仕事がなくなり、今までなかった仕事が生まれ、そこで人々が雇用されていくもの。
 例えば石炭産業から石油産業に変わった時も、産業構造が大きく変わって、多くの人が失業すると同時に別の仕事に雇用された。昔は電話に交換手がいたし、エレベーターガールなんてものもいた。それが実際なので、AI時代が来たら40%の人が現在の職を失うというのは事実だと思うが、そうなったら新しい仕事が生まれるはずである。
 ただこの物語は、「本当に40%の労働者が仕事を喪って、その後、新しい仕事が生まれなかったら」という「もしも」で描かれている。
 その時、《ベーシックインカム》を導入するかどうか……という話は間違いなくあるだろう。ところが国民自身で反対したのだった。これもきっと「そうなる」と思っている。なぜなら日本は「妬み文化」だから。
「自分たちはこんなに苦労して働いているのに、働いてないやつのために税金を使うなんておかしい!」
 ……日本人は妬み文化なので、そう考えるはず。「相互援助」の思想がない。自分だけ今だけ金だけ……が基本思想。では仕事を喪った40%の人々はどうすればいいのか……それに関しては誰も新しい提唱しない。「自己責任だ」……でおしまい。それにマスコミはこの件について、絶ッッッッッ対に分断を煽ってくるはず。マスコミを通して、そういう思想に染まっちゃう人が一杯出てくるはず。これによって2050年代には「所得差別」が生まれ、しかもそれが正当化される空気が作られていくはず。
 その結果、日本は失業者だらけになって、力のない企業は中国に買収。日本企業は生存しているけど、ハイクラスしかその商品を買えない。日本人は中国人旅行者のためにモノを作る中国の経済植民地になっていく。
 ではどうして2050年代になっても中国が日本の企業を買収し、中国人旅行者が日本にやってきてモノを買いに来るのか? 経済がまったくダメになったとしても、相変わらず日本人の作り出す「モノ」の品質が良かったから。一方、中国の作るモノは中国人自身が信用してないし、中国で買うと偽物である可能性も高い。それなら物価が安く良質なものが一杯ある日本にやってきて買い物した方が安く上がる……という考えるようになる。
 そうなるから弱者への手厚い保護は必要でしょ……という話。現実はさすがにここまで酷くはならないでしょうけど、この作品は「最悪な未来」を想定して描かれている。

「自分たちの地位が誰にでもわかるように《社会信用度》というシステムが作られて、みんなそれを頼りに人と接するようになった」
 2050年代の人々はいろんな能力がダメになってきている。まずAIグラスの《歩行アシスト》を使わないと学校や職場に辿り着くことすらできない。AIに頼りすぎて、知らないうちに能力がダメになっている。身体能力がダメになるなら思考力も想像力も弱くなるでしょう。
 そういうところに《社会信用度》という「わかりやすいシステム」なんかが導入されてしまった。すると2050年代の人たちは、まずその人の《社会信用度》を見るようになった。《社会信用度》で自分がどういう立場か考えるし、相手が自分より上か下か考えるようになった。
 階層が下の奴はとにかくダメな奴。階層が高い人間は優れている。……AIがそのように規定しているのだから、自分より階層の下の奴を差別しても良い……。そう考えるようになってしまった。
 そうすると「階層差別」「所得差別」が激しくなる。ハイクラスはミドルクラスを差別するし、ミドルクラスはロークラスを差別する。ロークラスは鬱憤が溜まって、ブラックアウトを引き起こす。
 どうしてそうするのかというと、みんな不安だから。いつハイクラスの立場から転落するかわからない。いつミドルクラスの立場から転落するかわからない。ロークラスは上へ這い上がれない絶望でブラックアウトを起こす。実は「実力」はあまり関係なく、ほとんど「運」次第だとみんな薄々気付いている。でも運次第だということには目を逸らして、「精神論」を持ってきてしまう。だから階級叩きをやって、やった瞬間は「自分たちは彼らより上だ」ということを確認できて安心する。そこで安心してしまうから、「《社会信用度》というシステム自体おかしくないか」という考えには至らない。みんな《社会信用度》に振り回されていく。
 そもそも日本人は「社会システム」がおかしい……ということに気付かない民族性なんだけどね。2050年代の人々はさらに「思考力」も落ちているから、マクロな視点で物事を考えることができない。考えたところで、AIに基づく社会がすでにできあがっているからどうにもならない。
(ちなみに一番不安を抱えているのはミドルクラス。ハイクラスはまだ「ミドルクラスより上」という優越感はあるし、ロークラスには特有の開き直りがある。ミドルクラスはハイクラスから苛められ、自分もいつロークラスに落ちるだろうか……と不安がある。ミドルクラスはロークラス叩きをやって、ブラックアウトでハイクラスが被害に遭っているのを見て「スッとした」とか言っている。一番荒んでいるのはミドルクラス)
 千里カノンのおじさんは失業した途端、家族からも切り離されて、路上生活者になってしまった。階層が低くなると、身内からも切り離されてしまう。この冷酷さが2050年代の人々の「常識」。ヘイムになったのは自己責任……能力が劣っているからヘイムになったのだ……だから家族とはいえ、それを助けてやる義理はない……これが2050年代の人々の冷酷さ。千里カノンは表向きは言えないけど、なんとなく違和感を感じている。だから飾璃アヤナを助ける……という行動に出てしまった。

 とにかくもAIが提供する《社会信用度》というものがあって、日本人全員がそれを絶対的なモノだという思い込みがあって、誰も疑問に思わない。優秀な人間を選別する画期的システム。ダメな人間を炙り出し、手軽に視覚化できるシステム。少なくとも、《社会信用度》を導入してからは回転寿司屋で変なイタズラをする客はいなくなったし、バイトテロもなくなった。以前より社会が平和になったのは事実。
「私たちにとってAIはもう神様」
「神様の言うことだから絶対に正しい……私たちはみんなそう信じているけど……」
 もはや「AIを信仰している」という状況。異端は許されない。そういう社会になってしまっている。
(ただし、ここのモノローグ、物語作法的によくない。これは「作者の視点」であって、千里カノンの思想から出た言葉ではない。この瞬間だけ、視点がキャラクターよりも上になっている。でもこれは書いておかないと伝わりづらいところだし……。こういうのは書かずに、うまく伝える工夫が必要だったのだけど……良いアイデアが思いつかなかった)
 「私たちにとってAIはもう神様」……と考えながら千里カノンは見上げる。ビルの壁面に「天使」が描かれている。どうやら映画の宣伝広告らしい。リアルに考えると、こんな高いところに看板が掲示されるわけはないのだけど、これは観念的な図。はるか高いところから、天使が人間を見下ろしている……という構図に意味がある。その絵をよく見ると、天使さまは大鎌を持っている。「優しい天使」ではなく、空から容赦なく人間を刈り込む天使だ。これが2050年代の人々が信仰しているAIという神様の姿。

 解説が長くなったので、ロケーションの解説は手短にしよう。千里カノンが歩いているその場所は三宮フラワーロードという場所。5コマ目にやたらとデカい建造物が描かれているが、あれは神戸市市役所。未来の仮想建築物ではなく、実在する。
 というか、あれは市役所だったのか……。ということは一般人でも入れるはずなので、今度通りがかったら見学させてもらおう。
 ここもロケハンに行ったのだけど、残念ながらカメラの電池切れになってしまった。仕方ないので、漫画はストリートビューからこのシーンを構築することになった。


 137ページに描かれているこの場所は「東遊園地」という公園。実はこの周囲はいま改修工事中で、入れる場所がここしかなかった。ここ以外にロケーションとして使える場所がなかった。
 ここにロケハンでやってきたとき、カメラが電池切れになっていたため、後でストリートビューを見ながら画面を再構築することにした。しかしストリートビューの画像も私の記憶と少し違っていて……この公園の中央には人工の滝があったはずなんだが……。まあいいや。
 それにしても、急にホームレス一杯出現しすぎじゃないか? 今までそんなの描いてなかったじゃないか……。
 と、思われるかも知れないが、最初の方をよーく見てみると、実はホームレスは描かれていた。絵をちゃんと見ている人だけが気付く。
 でもお話しの展開として、どうして急にホームレスの存在がクローズアップされていたのか? それは千里カノンがAIグラスを付けていて、動画を見ながら歩いていたので、千里カノンがホームレスのいる街の様子を見ていなかった。これは千里カノンだけの話ではなく、2050年代の人々はみーんなAIグラスをかけて動画を見ながら歩いているので、街の中になにかあったとしてもスルーして歩いている。本当は視界の端に引っ掛かっているのだけど、あえて無視する。そういう現実のつらいものなんて誰も見たくないから、楽しい動画を見ながら歩いている……というのが2050年代の人たちのスタイル。
 ただ、千里カノンは2050年代の時代にあって少し変わった感性の持ち主。例えば42ページまで遡ってほしいのだけど、千里カノンは路地の向こうにいるホームレスの存在に気付いて、買ったジュースを開けずにそこに置いている。一方、一緒にいたナズナは気付きもせず、気付いていたかも知れないが気付かないフリをしていた。2050年代ではナズナのほうがノーマルな感性。そういう性格の千里カノンだから、不良たちに絡まれている飾璃アヤナを助けようと行動してしまう。
 とにかくも、今までAIグラスという「目隠し」をしていたから、街の本当の姿が見えなかった。AIグラスが動作不能になってしまったので、今までスルーしていたものが目に入るようになってしまった。それで改めて、「私たちの住んでいる街ってこうなってたんだ……」と気付いてショックを受ける……というのがこの場面。
 公園に入った千里カノンは、タブレットを引っ張り出して、何かを描こうとする。しかしペンを持つ手を下げて、絵を描こうという意欲すら見せない。
「私、アヤナちゃん下に見てたな…」
 飾璃アヤナの絵を見て、「まあまあ上手いね」くらいにしか考えてなかった。例えAIがなかったとしても、「自分のほうが実力は上」……と思い込んでいた。
 それにやっぱり飾璃アヤナを「下に見ていた」。自分はミドルクラスで、アヤナはロークラス。対等なつもりでも、どこか上から目線で接していた。自分がそういう人間だと気付いて、しかも自分の方が実力が下だったことに気付いて、落ち込むカノンだった……。

 そのまま「みなとのもり公園」までやってきてしまう……。そこには一杯のテントが。
 労働人口の40%が失業している……ということは、こういうことになる。これが2050年代の風景。

 この漫画を読んでいる人は、みんな違和感を持ったでしょう。2050年代という近未来なのに、空飛ぶ車がまったく飛んでないし、500階建ての超高層ビルもないし、夜を煌々と照らすネオンサインもない。ぜんぜん「未来」って感じがない。むしろ2020年代とほとんど風景が変わってないように見える。
 なんで??
 こういうことです。日本は経済破綻した。政府は失業者に対し、手厚い保証もしていない。政府初の公共事業も一切やってないから、「未来的な500階建ての超高層」も建たない。
 もしかしたらこういう時代になっても、高学歴エリート層は「日本にもっと移民を入れよう」みたいな戯言を言っている可能性すらある。エリート層ほど現実が見えない……というのがあるけど、AI時代になると「階層差別」の意識が生まれて、より「庶民の世界」が見えなくなってくる。そこで理想だけを唱えるような人が増える可能性がある。
 少し前に、「産業構造が変わったら、新しい仕事が生まれ、そこで雇用が生まれてくるはず」という話をした。もしもAI時代がやってきたら、今までの仕事は消えるかも知れないけど、その代わりとなる新しい仕事が必ず生まれてくるはず……。しかし日本全体がこういう有様だから、「新しい仕事」を生み出す余地すらなくなってしまった。
 日本は完全に「後進国化」してしまった。これが2050年代の日本。
 こういう状況があるから、失業するかどうかはみんな「運」でしかない。みんな薄々わかっている。わかっているからこそ、一時の安心が欲しくて、所得差別をする。所得差別をすると、自分は「あいつらより上だ」という安心が得られる。その一時の安心を得て、根本問題とは向き合わない。それが2050年代の日本人が直面している問題。

 場所はどこなのか? 架空の場所なのか?
 実在する場所です。
 場所は神戸の「みなとのもり公園」。脚本を仕上げた後、このロケーションに相応しい場所はないだろうか……と神戸の公園巡りをやっているところで発見した。脚本を書いた直後はこの場面の具体的なイメージは浮かんでなかったのだけど、この場所を見て「やった! ここだ!」となった。
 ロケーションとして完璧。まず広い空間があって、その空間を高速道路の高架橋がぐるりと囲んでいる。周辺には高層ビルがドーンドーンと立ち並んでいて、そのビルの向こうには六甲山が見える……。近代的な風景に囲まれた閉ざされた空間……2050年代の歪んだ社会状況を表現するのにも相応しい。ここにやって来た瞬間、イメージが確立したし、見開き映えする画面ができると確信した。
 ここがどういう場所なのかというと、周辺のビルというのがタワーマンション。つまり、2020年代のこの場所にやってきているのはみんなハイクラスの人々。私のようなロークラスが迷い込んじゃ行けないような場所。休日だったので、明らかに私とは違うクラスの人たちで賑わっていた。
 しかし2050年代になると日本は経済破綻するので、タワーマンションのほとんどが廃ビルに。ハイクラスの人たち自体少数派になっているはずなので、この広い公園はホームレスが集まる村になってしまう……。

 こちらが139ページの資料写真。
 写真そのまんまやないか! もっと工夫せい!
 ……と言われそうだけど、そのまんま使ったのは、ロケハンやっている最中に明確なイメージができあがっていた。このシーンの構図はこうで、あそこからキャラクターが歩いてきて、次にこの位置で立ち止まって公園の様子を見る……。
 見開きで公園を見ているシーンの元になっている写真もあるんだけど、人が一杯映っているのでここには掲載しないよ。でもこの公園に行ってみると、漫画に描かれた通りの風景が見られる。2020年代はまだテントは1つも立ってないけど。

 ホームレス村の様子を見て歩く千里カノン。暗澹たる気持ちになっていく。
「消費税って30%もあるけど、どうしてこういう人たちのところに行かないんだろう……」
 ふと疑問を抱く千里カノン。でもその答えはなく……。

 この答えは簡単。政府が「内部留保」している。つまり国民から30%の消費税を徴収して、そのお金を使わず貯め込んでいる。「経済対策」は一切やらない。すると当たり前だけど市場を巡るお金の量が減っていき、国民が貧困化する。
 なぜ政府がそうするのかというと、第1に国民が政府の支出に関心を持たなくなったから。政府が貯蓄をつくり、市場にお金が回らなくても、国民の方がそれが問題だと考えなくなった。なぜなら「知らない」から。国民の考えることは、「所得差別」することで終わっている。それより上が何をしているか知らない。財務省からしてみれば、「これ幸い!」とどんどん歯止めナシに消費税を増やし続ける……というフェーズに入っていく。だって反対する人がいないんだから、そうなる。
 30年間の間になんで消費税30%にもなってしまったのか……というとこの辺りが理由。

 第2の理由は国民自身がこの状況を作ったから。政府もどこかの段階で「ベーシックインカムをやろうか」と提案したけど、国民自身が反対した。「怠け者に血税を使うな!」……じゃあお金は使わず政府が溜め込むよ……となった(国が国民にそう考えるように仕向けたのかも知れないけど)。
 つまり国民の自己責任。国民自身が「やらかしている」ことに国民が気付いていない。
 2050年代の日本人は、ひたすらミクロでしかものごとを考えられなくなった。ミクロでしか物事を考えられないから、問題の根本を考えず、所得差別をやって一時の安心を得て、それで終わってしまう。失業者の問題がそこにあっても「自己責任だ」でそれ以上先を考えられない。自分が将来そうなるかも……とは考えつかない。政府からしてみると、「お金を使わずにお給料のストックが増えてメシウマー!」という状況。

 AIというものの性質を考えてみよう。
 別のところに書いたけど、「AIによる診断」はどこか人ならざるものが私たちを公正に判断してくれそう……という雰囲気があるけど、実際には設計者の「無意識の偏見・差別」が入り込みやすい。例えばAIの顔面認証は白人男性は100%検知するけど、白人女性、黒人男性、黒人女性と少しずつパーセンテージが減っていき、黒人女性はほぼ検知不能になる……という話はすでに紹介したとおり。実はAIはわりと差別をする。それも設計者が潜在的に抱いている差別意識が入り込みやすい。AIの設計者は当然ながらエリートたち。しかも2050年代は中流階級、下層階級に対する差別が現代よりも苛烈になっている。所得差別を正当化してもいいような空気がある。
 そして実はAIは「言論」の良し悪しも判定する。エリートの視点から見て、「よからぬ主張」をする人がいると、その人の《社会信用度》スコアは減っていく。
 もしもエリートが「消費増税肯定派」だったとしよう。「消費増税反対だ!」と言う人はどう判定されるだろうか。そう、そういう人は「日本の経済を狂わそうとする反社会的は発言をする人」とAIが判定し、《社会信用度》のスコアはどんどん下がっていく。するとそういう言論活動をおさめた動画発表しても、検索に引っ掛からなくなる。
 だから例えば三橋貴明さんとか、藤井聡さんといった人たちはこの時代では失業しているか、誰もあのあたりの人たちの話は聞かなくなっている。
 どうしてそういう未来になってしまうのか? というと、高学歴エリートはみーんなグローバリズム派、ネオリベラリズム派、消費増税イケイケドンドン派になるから。どうやら大学でそう教えているから……ということらしいけど。私の知っている範囲で言うと、東大とかその辺りの高学歴エリートってみーんな「日本は高齢化だからもう経済成長しない」「消費増税しないと日本はハイパーインフレを起こす!」とか言っているんだもの。テレビに出ている経済学者って、みんなこういうことしか言わない。これに反対している人たちってみんなこういうエリート層からちょっと外れた人たち。
 AIの設計者はどちらかというと「高学歴エリート」側の思想に寄りかかっていくと考えられるから、AIの診断もそちらの考えに寄りかかっていくと考えられる。「消費増税反対だ」「政府は財政支出をすべきだ」という意見は社会的に不穏当……つまり「日本を経済破綻に導こうといている悪しき言論」扱いになる。「消費増税反対だ」「政府は公共事業を興せ」とか言っていると《社会信用度》のスコアはどんどん下がっていく。

 でも2050年代の人々はAIを信仰しているので、「AIは絶対に正しい」「《社会信用度》は公平なシステム」と信じているから、疑問に思わない。《社会信用度》スコアが下がりそうな言論は言うこともなくなるし、考えなくもなる。すると経済破綻しちゃっているこの状況を「正しい」とすら考えるようになる。どうしてこうなったか、根本など考えない。

 さて千里カノンは……タブレットを取り出すけど、やっぱりテント村の風景を見て憂鬱な気分になってしまい、描く気になれない。
 そこからちょっと離れて、森の方へ入っていく。そこで、足元に咲いている花を描く。
 ここは……どうなんだろう。今まで千里カノンが「小さなお花が好き」なんてエピソードなんて出てこなかった。「設定」にはあったのだけど……。設定にあったとしても、エピソードとして取り上げられなくちゃ意味がない。どことなく「脈絡のない行動」に見えてしまい、うまくいっているように見えない。この辺りの物語の引っ張り方は、どう描けば正解だったのかわからない。

 足元の花を描いていると、風が吹いてきて、紙がペラペラと飛んでくる。
 ここからちょっと嘘が入ってくる。この辺りは実際に「森」はあるのだけど、人工的に管理された森なので、まず木の幹が非常に細い。下草も管理されている。植生をみた感じ、シロツメグサとかも咲いてなさそう。

 この辺りは物語上の嘘。2050年代になると、この辺りは「ハイクラス御用達の公園」ではなくなり、「ホームレスの村」になるので、森も管理されず荒れてくる。2020年代には細く頼りなげだった木々も、30年後にはかなり太く立派になっているはず。
 本当はこの森はかなり小さい森なんだけど、2050年代はその向こうにあったはずの住宅地も消失し、森に変わっている。それでこういう風景になった……という設定で描かれている。

「誰がこんなすごいの描いたんだろう……」
 知りたい。誰なんだろう。すると散らばった絵を集めているおじいさんがいた。千里カノンは紙を集めている素振りをしながら、おじいさんに近付く。
 おじいさんと少し話すけれど……。
「ああそっか。うん。じゃあね、おじいさん」
 やっぱり警戒心のほうが先立ってしまい、別れようとする。
 でも、なんか気になる。どうしてこんなに気になるんだろう……。
 振り返ると――あっと5歳の時に別れたおじさんの後ろ姿が浮かんだ。
 これが千里カノンの幼女時代の回想シーンを入れた理由。最初の脚本だと、「ここで千里カノンがおじいさんに声を掛ける理由がない」というのが問題だった。そこで5歳の時に家を追い出されたおじさんの設定を新たに作った。あの時、どうしておじさんは追い出されてしまったのだろう。どんな気持ちだったんだろう……。あの時、「かわいそう」という意識を持ってしまったカノン。ずっと頭の中に引っ掛かっていた。あの時できなかった「心残り」を回収できるチャンスじゃないか……。
 しかしだからといってすぐに声を掛ける……ということができない。千里カノンは18歳の女の子。見ず知らずのおじいさんにもう一度声を掛ける勇気が出ない。どうしよう、どうしようと躊躇って……。

 AIグラスを外す千里カノン。
 たかがメガネを外す……というだけで1ページまるまる使っている。どうしてこんな描き方をしたのか?
 スティーブン・スピルバーグ監督の傑作エンタメ映画に『レディープレイヤー1』という作品がある。面白い映画なのだけど、1つだけ失敗してるな……と思うところがあった。というのも、『レディープレイヤー1』は映画が始まった最初のシーンから、「映像で描かれているものと語られているものが違う」……ということをやっていた。映像を見るとかなり悲惨なディストピアなのだけど、ところがみんなVRゴーグルを付けてゲームをやっていてハッピーに見える。音楽もアップテンポだし、語りも楽しげ。そこでみんな勘違いしちゃったんだよね。映像を見るとあからさまなディストピアなのに、「ハッピーな未来風景」と思い込んで見ちゃった。
 『レディープレイヤー1』の一番簡単なメッセージは、「現実を見ろ」。VRゴーグルで目隠しして現実逃避するのではなく、今そこにあるはずの「悲惨な現実」のほうを見ろ。そして行動しろ。
 でも映像で描かれている意図に誰も気付かず、プロの映画評論家すら気付かず、「スピルバーグがゲーム文化を否定した」と批判する人がものすごく多かった。それもこれも、ゲーム・オアシスをあまりにも魅力的に描きすぎた……というのが失敗原因だったんだけど。

 本作『ムーンクリエイター』のAIグラスを外す……という行動も意図は一緒。カノンはずっとAIグラスを通して現実を見ていた。AIグラスでえんえん動画を見ていて、現実を見ていなかった。AIが壊れてるのにかかわらず、いまだにAIグラスをかけて、AIに依存した暮らしを続けている。
 だからAIグラスを外した。AIグラスを外す……という行為には「己の目で現実を見る」という決意の表れ。
 あるいは、自分自身の心理的な切っ掛けを作るために、普段からずっと身につけているAIグラスを外す……という行動をした。

 ……だったのだけど、それがドラマ的なクライマックスとしてうまく着地させられているか……というと失敗している。作者が見ても「ああ、失敗しているな」と感じる場面。
 なぜ失敗しているのか? まず読者に「AIグラスを通して“まやかし”を見せられている」ということを伝え切れていない。この時代の人たちが「AIに依存している」ということを前提として語り切れていない。
 だから多分、この場面を見たほとんどの人が、「で?」と思ったはず。「なんでこんな場面に1ページも使ってるんだ」……って普通は思うはず。感動しないんだ。脚本がここに感動を集約するように作られていない。読者に「AIグラスなんて外せ!」と思わせるように仕向けていない。明らかな「助走不足」だ。この瞬間に感動するように脚本を書くべきだった。

 この辺りが『ムーンクリエイター』の脚本が失敗しているところ。致命的な失敗。
 物語を読んでいけば、ここで千里カノンの行動は変わっていく。その切っ掛けが「AIグラスを外すこと」だったんだけど、普通に読んでいて、そんなのまず気付かない。気付けるように書けてないのが脚本のダメなところ。
 誰だよ、こんなダメ脚本書いたの……オレか!

 5歳のエピソードを挿入したのはいいアイデアだったけど、あと「もう一歩」何かエピソードが必要だった……。

 おじいさんのテントの中へ入っていく千里カノン。
 おや? 千里カノンの服が替わっている。上着の前を閉じている。これは「カノンだったらそうするでしょう」と考えたから。自分から声を掛けたからといって、おじいさんが1人だけいるテントの中に入る……相当勇気がいるはず。胸の谷間出しっ放しで入る……というのはあまりにも不用心(太ももは出しっ放しだけど)。人並みに警戒心はあるはずだから、服くらい整えるでしょう。

 おじいさんについてだけど……。
 千里カノンは見た目の雰囲気で「おじいさん」と呼んでいるけど、実はこの人、結構若い。43歳。特別講師の道こずえ(51)より若い。2023年現在だと10歳。しかしその後の生活に相当苦労したので、髪はすっかり白くなって、無気力状態。カノンちゃんのようなスタイルのいい女の子を側にして、性欲がまったく起きないくらいに無気力。絵を描いているけど、「意欲的に描いている」のではなく、ただただ手を動かしているだけ……という状態。
 このおじいさんが10歳くらいの頃、世の中的にAIイラストやAI文章作成なんかが出てきて、時代の移り変わりをリアルタイムで経験した。しかしおじいさんは貧乏世帯だったので、AIとかそういうものに触れずに育ってきた。

 おじいさんの回想シーンに入っていく。
 最初の1コマ目、お父さんの顔が描かれていない。これはだいぶ後になって子供の頃を思い出しながら描いた絵。七五三の写真だから、7歳の頃でしょう。その頃のことだから、もう父親の顔が記憶にない。
「母は体を売って貯金を作っていた」
 ……わかると思うが、性風俗で働いていた。少年は早くから母の仕事に気付いていて、自分のせいで苦労させていることを察して、負い目を感じていた。
 間もなく詐欺師に全財産を持って行かれ、高校進学を諦める。ここでロークラスから抜け出すチャンスを失う。
 7コマ目、新聞配達をしながら、女学生を見ている……。これは恋愛すらできなかったため。高校に行っていたら、もしかしたらあんな女の子と恋愛ができたかもしれない。でもそのチャンスも喪ってしまった。
 まっとうな人生はもう歩めない……毎日暗澹として、ただ生きるためのお金を稼ぐために一日一日を浪費していく絶望。周りを見ると、自分を置き去りにして変わっていく。自分だけが何もできないまま……。
 この頃はまだ「新聞配達」や「郵便配達」の仕事があった。あと数年くらいすると、ロボットでの配達がはじまるので、この辺りの仕事も消滅する。「働く場」がどんどん限られていく時代に入っていく。
 でも少年には絵描きの才能があった。コンクールに作品を送ると賞をもらえた。でも仕事は回してくれなかった。少年がコンクールなんかに作品を出す頃、《社会信用度》の仕組みが作りだされ、それをもとに社会は一気に変わっていく。2023年頃に起きている「スシローペロペロ事件」のような事件はこのさき何度も起きて、店側はロークラスになった人は店に入れたくない、雇いたくない……という心境になっていく。《社会信用度》はそういう迷惑行為をするような客や従業員をあらかじめ排除できるので、大多数の人に歓迎されるシステムだった。
 そんな時代の変化で、真っ先に「排除」を受けたのが少年だった。154ページ4コマ目は45ページと絵が似ている。これはわざと似せて描いている。「ああ、あれと一緒ね」と思って欲しかったからだ。
 店にも入れてくれない、だんだんアルバイトも雇ってくれなくなる。そもそもどこに行ってもロボットが導入されて、人間が働く必要がなくなってくる。ロークラスだから、それだけで「危険人物」扱いで仕事を回してくれない。社会の中で孤立していくのだった。
 それと同じ頃、道こずえ先生は20歳ですでに漫画家デビュー。漫画家も急速に「AIを利用して漫画を描く」がトレンドになっていく中で、「手書き漫画家」で地位を築いていく。それができたのは、道こずえ先生がAIが登場する前に漫画家になれたから。《社会信用度》のシステムが確立する前に一定の地位を築けたから。 
 千里カノンや樫月ナズナが生まれたのは、AIや《社会信用度》がすっかり広まって、それが「当たり前」の社会になった後。だから特に疑問に思うことなく順応できた。おじいさんはそういうAI社会が作り上げられていく過程で完全に孤立していく。高校にも行けなかったから同世代の友達は1人もいない。完全なる「孤立」状態に陥っていく。

 ついに母が死去。過労死だった。

 その後、彼がどうしたかというと……ひたすら絵を描いた。本当はこのタイミングで絵を完全にやめて、働けるところを探して、社会にしがみついたら、ロークラスという地位に貧しくとも社会参加可能だった。でも彼は心情的にそれができなかった。母親の死、貧困……この苦しみから逃避するように絵を描き続け……そのまま社会に戻ることはなかった。

 それから20年……。おじいさんの時間は止まり続けている。心はずっと母親が死んだ、あの狭い部屋の中。おじいさんは終わりなき煉獄の中で、絵を描き続けている……。
 これが2050年代の貧困層によくある人生の話。
 こういう人に対して、ミドルクラス以上の人々は「自己責任だ」と言っている。

 ヘイムになったら立ち直り不可の社会。完全なる孤独。絶望。運良くそういう立場に落ちなかった人たちは無神経に「自己責任だ!」と言ったりする。それが「正論だ」と正当化して。たぶん、30年後の社会ではこういうことを言う人が一杯現れてくるんだろう。なぜなら人々は、自分がどういう社会の上に立っているか、なにも考えなくなっていくから。

 おじいさんのテントを出て、家へ帰ろうとする。その道すがら、えんえんおじいさんのことと、5歳の時に家を追い出されたおじさんのことを考えていた。考えながら、涙を浮かべる。テントでは「ここで泣いたら失礼だ」という意識があった。今になってぽつぽつと涙がこぼれる。
 2050年代は社会から脱落していく人のことなんて、誰も考えなくなる。「それはそいつが悪いんだ」「怠け者だからヘイムになったんだ」……そういうことしか考えなくなる。というか、今の時代でもそう考える人はわりと多い。しかし千里カノンはそういう人たちのことを考えようとしていた。

 三宮駅前交差点までやってきたところで、飾璃アヤナの後ろ姿を見かける。
 センタープラザで飾璃アヤナと別れたのは3~4時間ほど前のことなので、アヤナちゃんはこの時間まで別のバイトをやっていたのだろう。これから「夜のバイト」に向かうところらしい。
 カノンは声を掛けようとするが、なんとなく後をついていくことに。さっきまでおじいさんの話を聞いていたから、なにか嫌な予感がしたらしい。「バイトってなにをしているんだろう?」……ロークラスの飾璃アヤナを雇ってくれるところって、どういうところだろう。

 飾璃アヤナはいかがわしい繁華街の裏道へと入っていく……。いったい何の店だろう? 千里カノンが店の前まで行くとそこは――18禁のエロカフェだった。

 アヤナちゃんはどうしてこんな店で働いているのか? やっぱりエロ漫画を描いているから、そういう店が好きなのか?
 そうではなく、アヤナちゃんはロークラスでしかも女装癖があるために《社会信用度》がとにかくも低い。店側は「バイトテロ」を防ぎたいのでロークラスの人なんて雇いたくない。でもアヤナちゃんは「見た目」がすごくかわいい。そんなアヤナちゃんが働ける場所……といったらもはやこういう仕事しかない。他に選択肢がないから、こういう仕事をしている。

 それはそれとして、この時代、「人間が働ける場所」って何が残されているんだろう? アルバイトなんかまだあるのだろうか? 工場生産もロボットだし、配送もロボット、店舗管理、レジもロボット……。あれ? 人間の働く場所ってもうないんじゃ……?
 ロボットで代替えが効かない仕事、絶対に人間がやらなくちゃ行けない仕事……そこで考えると、最終的には「エロい店」しかないんじゃないかな。人間が人間に求めるもの……その究極的なものがあるとしたらセックスしかないんじゃないかな。人間は人間でしか満たされない生き物だから。AIとロボットが完全に人間の代わりに仕事するようになったら、人間ってセックスする以外もう何もなくなるんじゃない?
 それも、セクサロイドが発明されたらどうなってしまうのか……。そういう時代が来たら、人間は「働くこと」以外で生活すること、自己実現を見出すこと、を考えねばならなくなる。それはいったいなんなんだろうね。

 そんなエロカフェに潜入するカノンちゃん。すごく勇気があります。
 店の様子を見ていきましょう。座席に着くと、席の前に立体ホログラムが「目隠し」として入る。こういうお店だから、客同士の目が合うと気まずいでしょ。でも側にやってくると、エロ衣装の店員の姿は見えるようになっている。
 でも実は食事はロボットが運んでいる。ロボットの方が人間が運ぶより安定性があるので、事故がなくて安心。実際、こういう飲食店で人間が働く必要はほぼない。作るのもロボット、運ぶのもロボット。そんなお店で人間が働く必要があるとしたら、ご飯を食べているあいだお喋りに付き合ったり、「あーん」をしてもらったり、あるいは「お触り」したり……くらいなもの。そういうものは2050年代になっても人間にしかできない。
 でもこのお店は食べることがメインなので、「性器を出す」「性器を触る」というところまではやってない。お酒がメインの店だったら、そういうこともするのかも知れないけど。
 160ページ、うっかりしていたが、カノンちゃんのところに運ばれているコーヒー、紙パックで描いてしまった。普通、マグカップだよね。後で気付いて「しまった」となった。

 お店の様子をじっと観察する千里カノン。女の子が出てきて、お尻を触らせている様子に、険しい顔をする。嫌な気分になっていく。
 しばらく待っていると、アヤナちゃんが出てきた。

 アヤナちゃんはしばらく客を楽しげに話して……5コマ目、わかりづらいが乳首を見せている。男の娘の雄っぱいにそんな需要があるのか? と聞かれそうだけど、めちゃくちゃ需要がある。その界隈に行くと、そういう絵は山ほどある。かわいい男の娘が勤めているお店がある……なんて話が出ると、こういう界隈ではすぐに噂で知れ渡るほど。
 で、そんな様子を見て、千里カノンはざわざわと嫌悪感に捕らわれる。
 でもどうしてカノンちゃんはこんなに不機嫌になっているのだろう? たぶん、カノンちゃんはアヤナちゃんに対し、かなり感情移入しているから。どこか「自分が触られている気」になって、ゾゾゾッと不快な気分になったし、耐えがたい羞恥心にも捕らわれる。それに友人の体が触られている、消費されている……ということに耐えられない。不快だし、恥ずかしい。最後の、お尻を触られている場面はもう目を逸らしてしまっている。直接触られる……という場面は感情移入しやすいタイプだからもう見ていられなかったのだ。
 ここで「たぶん」という言い方をしているのは、作者である私自身、千里カノンの考え方をすべて理解できているわけじゃないから。私の制御を越えて行動することのある女の子だ。描いてから「さて、どうしてだろうか?」と解釈する……というやり方をしている。描いている私の方が考えさせられるキャラクターなので、ちょっと楽しい。

 ここでちょっと裏話。
 バックヤードに戻ったアヤナちゃん、お店の人に、
店員「あ、アヤナちゃん、奥のお客さん、アヤナちゃんのことすごく睨んでたよ」
アヤナ「え、本当に? 怖い。近付かないようにしよう……」
店員「知ってる人? 女の人だよ」
アヤナ「ええ、わかんない。僕、女の人とお付き合いもしたことないのに……」
 ……というやり取りがあったとか。いつか4コマ漫画で描こう。

 162ページ。アヤナちゃんの出待ちしているカノンちゃん。バイトの終了時間まで3~4時間あるはずなのだけど、カノンちゃんはどうやらずっと外で待っていたらしい。
 あからさまに不機嫌なカノンちゃん。アヤナちゃんは不穏な気配を察して、冗談でやり過ごそうとする。
 しかしカノンちゃんは溜め息を一つ付いて、怒りをさっと振り払う。お店の雰囲気にはすさまじい嫌悪感を感じたけれども、それをアヤナちゃんにぶつけたって意味がない。むしろアヤナちゃんはここで苦労している人。アヤナちゃんに怒りをぶつけるのは間違っている……。カノンちゃんにはそれくらいの冷静さがある。
「今日はもう遅いし、うちに来る?」
 すこしアヤナちゃんを労う声になって、そう言うのだった。

 カノンちゃんのお部屋に場所を移して対話……。
 ここからのお話しが12ページもある。絵面が変わらない対話シーンが12ページも続くってどうなんだ? 読者が途中で飽きちゃうんじゃないか? 週刊漫画誌だったら週16ページなので、こんな構成は許されない。
 かといって台詞の一部省略……というのはやりづらい。コマサイズを小さくして圧縮すれば短くまとまるけど画面がゴチャゴチャしてしまう。
 こういう時の正解がなんなのかよくわからない。

 それはさておき、本編。
 カノンちゃんは怒るよりもまずアヤナちゃんの話を聞こう……と。話を聞いて、そのうえで「あんな仕事やめさせなくちゃ……」と考えている。でもアヤナちゃんはロークラスだから、ああいう仕事でもやらなくちゃいけない理由もあるのかも知れない……とかカノンちゃんは考えている。
 そういうわけでカノンちゃんは緊張しているため、腕組みをしている。57ページでもカノンちゃんは自分の作品を見せている間、腕組みをしちゃっている。61ページでアヤナちゃんがエロ漫画志望だとわかり、自分がキャラとして登場していると気付いた時も腕組みをしている。ここから見てわかるように、カノンちゃんは緊張すると腕組みをする癖がある(これは普遍的に色んな人がやる癖だけど)。
 でも上に着ていたスカジャンは脱いでいる。キャミソール1枚。着ているものや姿勢は“心理的な防御”を意味するので、カノンちゃんはいま「ノーガード戦法」でアヤナちゃんと向き合っている……といっても無意識にやっていることだけど。

 163ページ。あんな仕事をしているのは実家から仕送りがないから。ロークラスではなく、お母さんと仲が悪いから……と話すアヤナちゃん。
 それからグラタンを一口食べて「おいしい」と一言。これは元の脚本になく、ネームを描き起こすときに付け足したアドリブ。アヤナちゃんはああいう仕事しているから、もしかするとキャバ嬢っぽい立ち回り方をするんじゃないかな……と思って。見るからにカノンちゃんが緊張しているから、すこし和ませようとしている。

 アヤナちゃんがぽつぽつとお話しを始める。
「僕ね、一人っ子なんだ。幼い頃にお父さんが死んで、それ以来お母さんが働いて僕の面倒を見てくれた」
 アヤナちゃんの生い立ちは、どこかホームレスのおじいさんに似ていた。
 これは現実でも起こりうること。稼ぎ手である父親が死ぬと、シングルマザーは経済的にかなりつらい立場に追い込まれてしまう。「男女平等」と言われてかなり時間が経っているけど、女性の経済的立場、給料格差はなかなか埋まっていない。
 2050年代はこういうときのセーフティがほとんどない時代になっている。なぜなら国民自身が「そういうのは自己責任だから、そんな奴らに血税を使うな!」と言ってしまっているから。自分がいつかそういう立場に立たされるかも……という想像力がなく、その一方で猛烈な不安を抱えている。だから「弱者叩き」がやめられない。2050年代の日本人はそういう国民性になってしまっている。

 2050年代の日本は経済的に破綻していて、ほとんどの企業が中国に買収されている。ほんの少しの間違いがあればあっという間に困窮する。事故、病気……今ある仕事に必死にすがりついていないと一瞬にして低所得者。もしかしたらそこからも脱落してヘイムになってしまうかもしれない。
 そういう立場に落ちたとき、「やっぱりセーフティは必要だった!」と気付いた時はすでに遅い。2050年代はあらゆるものに《社会信用度》が関係してくる。ロークラスになると「発言力」も弱くなっていく。「貧困」の実体がどういうものか、なにが問題なのか、いくらSNSで発進したところで、誰も聞いてくれない。という以前に、検索から引っ掛からない。みんなの視界から都合良く消える仕組みになっている。クラスが上の人々は、そういう底辺の不快なものを見ずに済む。
 そんな社会状況だから、自分が転落するまでそういう状況に対する想像力が働かない。
 それは未来において……ではなく現代でも色んな意味で危うい。例えば食糧自給率の問題。今のままだと一つ間違えれば国民が飢餓に陥る可能性がある。現代の日本人はそういう危機がある……という想像力がない。
 もしも食料を頼っている相手国との関係が悪くなったらどうする? ……そういう話をするとたいていの人々は鼻で笑う。「そんなこと起こらないよ」と。でも起きたじゃないか。ロシアとウクライナの戦争は一見すると日本と遠い国のお話しのように思えるけど、あの戦争を切っ掛けに原油価格が上昇、それにつられて輸送費が上昇、結果的に輸入品が高くなる……という連鎖が起きている。世界情勢が一つ変わっただけでもこれだけの危機がある。そういうことが起こりうる……という想像力が大事。日本人はそういう想像力のない。ということは、未来における貧困に対する想像力もきっと働かない。
 AIが人間の代わりに難しい問題を考えてくれるようになったとき、人間の想像力はもっともっと下がるんじゃないか。そういう危惧がある。

「カノンちゃんは兄弟いる?」
 と尋ねられて、カノンちゃんは腕組みを外す。自分とアヤナ……という1対1で向き合っているつもりだったけど、そう問われてふと自分と自分とで向き合う形になってしまった。そこで心理的なガードを外してしまう。

 ここから業界昔話。
 一昔前まで、漫画・アニメの業界は次男坊、三男坊、末っ子ばかりの世界だった。今ちょうどそういうのがなくなって自由になったけど、昔はごく普通の親の感覚として、漫画やアニメといった不安定な仕事に我が子を送り出したくない……だから長男はちゃんとした仕事に就かせて、二男坊や三男坊は自由にさせる……というのがあった。
(次男坊や三男坊を自由にさせる……というのは現代に限った話ではなく、江戸時代でもそうだった。江戸時代まで遡ると、次男坊や三男坊は親の仕事や土地を相続できない。場合によっては地域にとっての「あぶれ者」になる。それで江戸に出て一旗揚げてやろうか……みたいな考え方になっていた。現代では「親の仕事や土地を引き継ぐ」という考え方は消滅したけど、末っ子の考え方はあまり変わっていない)
 どういうところでこれがわかるのかというと、一昔前の漫画・アニメの主人公って末っ子ばっかりだった。長男や次男……という設定はほとんどなかった。この理由は簡単で、作り手が末っ子の心理に感情移入しやすかったから。
 今はそういう時代ではなくなってきたから、竈門炭治郎みたいな長男の有名キャラクターなんかが生まれてきたりしている。
 人は無意識に「一族」でものごとで考える。親は「一族存亡」のことは考えるし、子供たちも自分たちは「一族の成員」として考えるから、長男は自然と「親や社会の期待通りであろう」とする。本人はそこまで「一族」の意識はないかも知れないが、無意識にそういう役回りをやってしまう。
 今はそういう感覚がなくなって自由になった……とはいうけど、それは逆に言うと「自分勝手になった」といえる。「一度しかない人生なんだから好きにやればいい」……今どきの人がよく使う言葉だ。それで親がどう思うか考えたことはあるか? そう問われたとき、どう答える? そのための答えをほとんどの人は用意していない。まあそれだけの想像力を働かせる必要のないくらい、自由な時代がきました。良かったね……ってな話だけど。
 2050年代の日本は経済破綻を起こしているので、慎重に判断しないと、一瞬にして自分がロークラスに、失業したらヘイムに陥ってしまう可能性がある。2050年代の日本人は現代人よりも想像力を喪っているけど、潜在的にその不安を抱えている。だから親は兄弟がいたら、長男は絶対にまっとうな仕事に就かせたいし、長男自身もなにがなんでもまっとうな仕事に就こうと考える。こういう一昔前の考え方が戻ってきているのが2050年代だ。
 そして実はマンガアカデミーの生徒達みんな兄弟がいる。一人っ子はほとんどいない。みんな弟か妹……という設定になっている。
(それがやたらと女子生徒ばっかりの世界になっている……という理由に繋がる)

「カノンちゃんはお兄さんに嫌なことを押しつけたと思ってる?」
 そう問われて、カノンちゃんは胸に手を当てて、少し体を引くような体勢になっている。もう「自分とアヤナ」との1対1対話ではなく、自分の痛いところを突かれてしまっている。それでどんどん居心地が悪くなっている。

「ごめんね、嫌な聞き方したよね。カノンちゃんのことが嫌いでこういう話をしたんじゃないよ」
 でもアヤナちゃんは気を遣う子なので、軽めのフォローを入れている。
 アヤナちゃんは低所得家庭で一人っ子なのに、漫画学校にやってきてしまった。しかも普段から女装なんかしてしまっている。一見すると、「好きなことをやっているだけ」……に見える。でも本当は後ろめたさを感じている。心の底で「母親を裏切っている」……その負い目を抱えている。
 本当なら、一人っ子だからこそまっとうな仕事に就くべき。母親をずっと苦労させてきたから、真っ当な仕事について、手っ取り早く母親を安心させるべき……。そんなことはアヤナちゃんだってわかっている。
 なのにどうして漫画学校なんかに来てしまったのか?

「なんで? アヤナちゃんはどうしてそこまで漫画家になりたいの?」
「僕ね、たぶん普通の社会に行ってもうまく行かないと思うんだ」
 低所得者の一人っ子だからこそ、まっとうな仕事に就くべき。頭でわかっているけど……心ではそれ以外の生き方を求めている。自分の見た目がかわいいという自覚はあるし、かわいい格好が好き。今よりもっともっとかわいくなりたい。
 現代ならまだ「フェミニンな男子」というカテゴリーは存在するけど、AIが《社会信用度》で人間の良し悪しを判断するようになったから、「男なのに女の子っぽい」という“言葉上の矛盾”は肯定されなくなってきた。AIはこういう“相反する概念”を理解するのが苦手だ。「男は男らしくあるべき」――AIなら間違いなくこう考えるはず。
 AIがそういう価値規定をし始めると、人間も次第にAIが提唱するとおりの振る舞いをしはじめる。男は男らしく、女は女らしく。
 でもアヤナちゃんはそういう価値観にどうしてもなじめない。「僕は違う」という感覚がある。だって見た目がかわいいから、「男らしい」格好をして、大股になって肩を切って歩く……なんてやっても様にならない。どうしてもそう振る舞うことじたいが嘘くさくなってしまう。自分にとって正直であろう……と思うと女の子っぽい格好になっていく。かわいい格好が好きだし、スカートを穿くのも好き。ブラジャーもする。でもトランスジェンダーでもゲイでもない。

「こんな僕でもこうしてきちんと生きていることを見せたい。僕という人間がいてもいいじゃないか」
 母親の信頼を裏切って漫画の業界に飛び込んでいる。困難は承知の上。相応の覚悟を決めている。だからこその“本気”なのだ。

 アヤナちゃんはどうしてエロ漫画を描くのか?
 これは単純に「性欲」の問題とか、「セックスしたい」という欲望の話ではない。「人間の権利」の問題。アヤナちゃんは女装っ子だけど、中身はしっかり男だし、普通に女の子とセックスがしたい。その権利は当たり前のようにあると考えている。
 でもアヤナちゃんは見た目があまりにもかわいいから、しかもAIによって「男らしさ」が求められるようになったから、学生時代を通じて一度も女の子の恋愛の対象にも、性の対象にもされなかった。それはある意味、「人間」として扱われていない状態。「お前は引っ込んでろ」と言われているような感覚。

 僕だって人間だ。人間として女の子とセックスがしたい。もちろん女の子の格好をしたまま。
 ――これがアヤナちゃんのアイデンティティの在り方。エロ漫画を描いているといかにも「軽そうな人」と見なされるかも知れないけど、アヤナちゃんなりに時代に抗って、覚悟を決めて普段から女装なんかやっている。
 ただ、そういうメッセージって読者に届かんもんだけど。みんなエロ漫画を読むときって、ただただ「抜く」ためのエロい絵が欲しいときだから。アヤナちゃんのようなテーマ性を持った「性のアイデンティティ」のお話しなんて、誰も見たがらない。

 ……本当はね、アヤナちゃんは「トランスジェンダーです」……ということにすれば楽なんだ。そうしたら世間的に受け入れられるから。AIも「特例で良しとしよう」と判断するはず。LGBTが現代よりも浸透している社会だから、「トランスジェンダーです」っていうことにすればイジメを受けることもない。
 でもアヤナちゃんは「それは違う」とわざわざ自分からLGBTから離れた存在になっている。それは社会に対して偽っているだけ。本当の自分で対峙しているとは言えない。アヤナちゃんは何度も書くけど、見た目がかわいいし、かわいい格好が好きだけど、中身はしっかり男で、女の子とセックスがしたい。それが一番正直な自分の実像だから、その実像で生きていきたい……そう考えている。

「それであのお店?」
 あのエロカフェについて、もしかしたら勘違いしている人もいそうだけど、基本的に従業員はみんな女の子。男の娘店員はアヤナちゃん1人だけ。アヤナちゃんは特別かわいいし、男の娘は需要があるから店員採用されているだけ。
 いかがわしいお店だけど、アヤナちゃんは「イヤイヤやっている」わけではない。むしろああいうエロいお店であったほうが、自分の肉体が必要とされる。それは嬉しさに繋がっているから、やめるつもりはない。 

「お尻を触られても?」
「みんな僕みたいになにかを抱えてああいうお店にやってきている人達だから、僕のお尻でいいんだったらどうぞって感じ」
 こういうところはエロ漫画家志望だからこそ言える話。
 経験的に言える話だけど、「精神の歪み」ってだいたい「性」の部分に現れてくる。人によっては「酒」や「暴力」という形で現れる人も多いけど、一番多いのは「性」の部分。
 例えばよく聞く話だけど、ごく普通のサラリーマンが、仕事のストレスに精神的に摩耗してしまい、そのストレスを逃がそうと始めたことが外に出て性器を露出すること。他にも盗撮だったり下着泥棒だったり……。ああいう事件の大半は変質者がやるんじゃない。ごく普通の人がある時やってしまう。その切っ掛けがストレス。
(別名義でエロ小説書いているけど、そこでそっち界隈を覗くと、そういうお話しが山ほどある……ということに気付いた。そう思うと、エロコンテンツってそこでストレスを発散できるから、どれだけ現実の性犯罪を抑制しているのだろうか……)
 そう、ごく普通の人に起きる話。普通に働いていて、普通に友人がいる……という人でもストレスで摩耗すると、どこかでふっと社会倫理の感性が崩壊して、性犯罪を犯してしまう。ストレスというものは厄介なもので、その人間が持っているはずの社会規範がどこかで壊れて、なんだかわからない行動を取らせてしまう。酒、賭博、薬……いろんなケースがある。その中で一番陥りやすいのはエロ方面。

 アヤナちゃんは自分でエロ漫画なんか描いていて、ああいうお店で働いているから、そういう人々が世の中に一杯いる……ということを理解している。「他人事」にしていない。
 でも何度も書くけど、アヤナちゃんはゲイではない。男にお尻を触られたところで1ミリも嬉しくない。それどころか不快。
 でもお尻を触ってくるこの人は、きっとなにか悩みを抱えているんだろうな……ということを察しているから、「僕のお尻でいいんだったらどうぞ。でもその代わり、電車の中でお触りとかしちゃダメだよ」というつもりで触らせている。自分のお尻で性犯罪を一つ防げるんだったら、いくらでも触っていいよ……というのがアヤナちゃんの考え方。だからお尻を触ってくる、あるいは“前”を触りに来るお客さんがいても、拒絶せずに、受け入れている。

「だから、ね……。カノンちゃんにもお客さんとして来てほしーなぁ……」
 ここで「スケベなアヤナちゃん」が顔を出してきてしまう(だって男の子だもん)。お店に来てくれたら「お店のプレイ」としてカノンちゃんとエッチなことができる……とか考えてしまう。
「行かない! 私、ああいうの嫌いだから」
 と言いながら、ちらっと心が揺らいでしまったカノンちゃんでした。

「アヤナちゃんさ……今日からこっちに住まない」
 カノンちゃんはなぜ急にこんなことを言い始めたのか?
 カノンちゃんの脳裏には――5歳の頃に家を追い出されたおじさんと、ホームレスのおじさんの姿があって……その姿がアヤナちゃんと重なる。このまま自分がアヤナちゃんを見捨てたら……もしもアヤナちゃんがなにかの病気や事故に遭ったら……その時はヘイム確定。一般社会のカムバックは不可能になる。
 その時、自分はアヤナちゃんを見捨てるのか? 「自己責任だ」といって見捨てるのか? そもそもアヤナちゃんは女装して漫画学校に来る……という2050年代において非常識なことをやっていたから《社会信用度》が低い。本当なら自分を押し殺して、しっかり勉強して、大学に行って、中国の下請けでもいいからどこかの会社に就職すれば《ミドルクラス》にランクアップできたはず。その機会を自分から投げ捨てて、好きなことをやっている。それで失敗したら「自己責任だ」……というのは正論に聞こえる。正論だったら見捨ててもいい? 挑戦しようとしている人を「バカな奴」と嘲笑ってもいい?
 カノンちゃんは「守りたい」と思った。「自分なら守れる」。5歳の頃、おじさんを守れなかった。ホームレスのおじさんはもう自分では助けられない。でもいま目の前にいる男の子なら、自分でも手が届く。
 それは、あの時の「心残り」を取り戻せるチャンスだった。

 と、こういう時でもカノンちゃんの心情を強調できるので、おじさんのエピソードは足して良かったなぁ。

「でも僕……男だよ」
「僕、エッチな漫画を描くよ」
 アヤナちゃんはわざと嫌な気持ちになる問いかけをしている。なぜなら「カノンちゃんが無理して行っている」……というのは見ていてわかるから。アヤナちゃんは母親だけでなく、目の前の女の子にまで迷惑掛けたくない、そういう負い目を感じたくないと考えている。だから「僕はエロ漫画を描くような男だよ」と女の子が嫌な気持ちになるようなことをわざわざ言っている。こう言えば、たいていの女の子は迷って「ちょっと待って」って言い始めるはずだから。
 でもここでカノンちゃんの申し出を断ると、2人の「友人関係」は解散になるかも知れない。そうするとアヤナちゃんは再び学校で孤独な存在になる。「女装している変な奴」という扱いを受ける。アヤナちゃんはそうなることを察している。でも自分の孤独よりも、カノンちゃんに迷惑を掛けるくらいなら……。

 でもカノンちゃんはまず頬杖をついて「それもいいわ」とさらっと流してしまう。次に軽く背伸びをしながら「ちゃんと口説いてその気にさせてくれたら許すわよ」と――つまり、「ちゃんと恋愛をやってくれたら、そういう関係になってもいいわよ」という譲歩だった。
 それでアヤナちゃんもカノンちゃんの本気がわかって、緊張を崩して「アハハ……ありがとう。じゃあカノンちゃんのお世話になるね」と微笑む。いかにも軽そうな描き方だけど、これは内心「参りました。カノンちゃんが本気を疑いました」という感じになっている。アヤナちゃんも本気だけど、カノンちゃんだって同じくらい本気。それがわかったから「参った」という感じと、緊張がほぐれた笑いが出てしまった。

 ただ……カノンちゃんは「アヤナちゃんなんて女の子みたいなもんでしょ」と言うけど、これは「強がり」ではなく、本当にアヤナちゃんを「女の子」だと思い込んでいる節があって……。
 よくよく考えてみようよ。このシーンおかしいでしょ。部屋の中に男と二人きり。しかもキャミソール1枚。まるで「襲ってください」というような状況と格好。相手が本当に「男」だと思ってたら、この格好はできないでしょ。
 といっても、これはカノンちゃんの“天然”なんだけど。

 さて同棲生活がはじまったカノンとアヤナ。2人で仲良く学校に登校。

 授業は相変わらずAIが使用不能になったままなので、「AIを使わない授業」をまた継続している。カノンちゃんは「AIなし授業」に順応し始めていて、それなりの絵が描けるようになっている。

 176ページはロークラス教室の様子を覗き込んでいるカノンとナズナ。ロークラス教室の後ろ3人は「やる気なし」グループだったのに、真面目に授業を受けている。ロークラスにも変化が起きている。

 放課後、3人で並んでアーケードを歩く。ここでもやたらと仲良しになっているカノンとアヤナ。ナズナが「どうしたお前ら」という顔で見ている。小学校時代からの親友を、3日前に知り合ったばかりの女装男に取られた気持ち……になっているナズナ。ナズナはまだ2人が同棲していることを知らない。
 2コマ目と3コマ目はだいたい同じ場所。センタープラザを出たところでアヤナはバイトでお別れ。カノンは「絵描き教室」に行くためにナズナとお別れをする。

 4コマ目、カノンは食べ物を持参しておじいさんのテントを尋ねる。ご飯を授業料代わりにしている。
 178ページ、絵描きを教わっているカノン。といっても、絵を描いているところを見せてもらって、それを真似して描いているだけ。
 これも絵描き修行では意外と有効なやり方。絵の上手い人の描いている様子を見せてもらって、その絵の描き方、手の動かし方、その他もろもろを真似てみる。どんな勉強でもまず「真似てみる」が一番有効なやりかた。
 武道でもうまい人の動きを見せてもらって、その動きを真似るところから始めるでしょ。でも世の中的に絵描きだけはなにか特別なもの……というふうに思われていて、すべて自己流でなければならない、独創的でなければならない……みたいに思われている。そんなわけはない。世の中のあらゆる勉強法と一緒。武道と一緒。まず真似るところから始めた方がいい。「独創性がなければならない」というのはそこそこ描けるようになって、オリジナルの作品を発表しなければならない……というときに考えればいいのであって、「学ばなければいけない」というときには徹底的に真似て吸収したほうが良い。
 なぜか絵画の話をすると、みんな一段飛ばしに考える。基礎はまずきちんと学ぶ、オリジナリティはそれからにしなさい。
 カノンはそういう絵の描き方をおじいさんから教わっている。

 4コマ目5コマ目は帰宅中の様子。もうAIグラスを掛けていない。自分の目で街の風景を見ている。おじいさんから絵を教わるようになってから、風景の見方も変わってくる。
 以前までは漠然と「建物が一杯だなぁ」という感覚だけど、今は建物の形を捉えるように見る習慣がつきはじめている。そういう見方が習慣付き始めると、街の風景は今までと違うものに見えてくる。

 結局、アヤナはエロカフェのバイトを続けている。カノンの部屋に住まわせてもらっているとはいえ、生活費は必要だし、今後の活動資金も必要。なにもかもカノン家の仕送りに頼るわけにはいかない。
 それに、アヤナはゲイではない……とはいえ、自分の肉体がこうやって必要とされることにはいくらかの充足感がある。「生活のため」……という以外にも「この仕事を続けたい」という意思があった。

 180ページ。帰宅するアヤナちゃん。家では料理をして待っているカノンちゃん。これまでの食事は配送だったけど、自炊するようになっている。
 ちょっと同棲始めたばかりのカップルさんに見えるでしょ。でも本人はそのつもりがぜんぜんない。特にカノンちゃんは。

 ご飯の後のまったりした時間。1コマ目は入浴後、カノンちゃんとアヤナちゃんが一緒に保湿クリームを顔に塗っている(お風呂は一緒じゃないよ)。
 カノンちゃんは「アヤナちゃんなんて女の子みたいなもんでしょ」と話していたけど、あれは冗談でも強がりでもなく、本当にそう思い込んでいる。一緒に過ごしてみると、アヤナちゃんはカノンちゃんより体が小さいし、振る舞いも女の子だし、化粧水を塗ったりという生活習慣もだいたい一緒だし、そのうち服も共有するようになっていく。するとカノンちゃんの意識の中で「女の子と過ごすのと一緒」という感覚になっていく。アヤナちゃんから「男」を意識することがほとんど……いや、まったくない。
 なのでだんだん仲の良い女の子同士でするようにぴったり体をくっつけて、スキンシップするようになっていく。
 でもアヤナちゃんは中身はしっかり「男の子」。「いいなぁ」と思っている女の子が、ひたすら無防備で側にぴったりくっついてくる。男の子なら「たまらなくなる」気持ち、わかるでしょ。アヤナちゃんはそういう感じになっている。
 2コマ目はタブレットで一緒にアニメを見ているのだけど、アヤナちゃんが見ているのはカノンちゃんのお尻。3コマ目は一緒に座って絵を描いているのだけど、楽しげなカノンちゃんに対し、アヤナちゃんは緊張してしまっている。
 182ページ。
 夜、一緒のお部屋で眠っているけど……。アヤナちゃんは見た目がかわいくても中身は18歳の《スケベ盛りの男の子》。夜になるといよいよ我慢できなくなって、こっそり起きてカノンちゃんの体に触れようとして……顔面を蹴られる。
 カノンちゃんは「ちゃんと口説いてくれてその気にさせてくれたら許すわよ。でもそういうのなしでいきなり来たら、グーで顔を殴るから」……と言っていたので、宣言通り顔面を殴って(蹴って)いる。
 「ちゃんと恋愛やってくれたら、そういう関係になってもいい」……とまで言ってくれているのに、アヤナちゃんもおバカです。スケベ盛りの時期だから仕方ないのだけど。
 こんなことを毎晩やっている2人だけど、朝が来たら後腐れなく、もとの仲の良い友人関係に戻る。175ページ1コマ目の様子に戻る。夜になるとつい魔が差してしまうアヤナちゃんだけど、そこまで本気じゃないし、カノンちゃんも本気で蹴っていない。毎晩やっている2人にとってのお馴染みの「おふざけ」くらいの感覚になっている。
 2人が恋仲になるのは、当分先の話。

 いつものようにおじいさんのテントを訪ねると……おじいさんがすでにお亡くなりになっていた。

 うん……唐突だよね。どうしてこの場面でおじいさんを死なせなくちゃいけなかったのか? 物語としての必然がない。
 と……みんな思った通りだ。その通りだ。ぐぅの音も出ない。
 私はこの場面まで書き進めてきて、「困った事態」に遭遇した。エピソードをどう終了させていいかわからない。
 そもそもこの作品、構想が弱い。それぞれのキャラクターから物語が生まれていない。物語の全体をどうしていきたいのか。それぞれのキャラクターをどうしたいのか。その過程でどんな物語を作るべきなのか……その構想がない。だからこういう時に、物語をどう展開させればいいのかわからなくなる。
 そこで行き詰まってしまって、「仕方ない、このおじいさんを殺そうか」……となってしまった。
 うん、みんなが指摘するとおり、これはシナリオ制作上の悪手だ。ダメシナリオの例だ。「人を感動させるために無理やりにキャラを殺す」……もっとも薄っぺらいシナリオの作り方だ。
 しかもおじいさんの死の前後にドラマの組み立てがないから、まったく感動できない。「なんで死んだ?」という感じになってしまう。「ああ、そう」くらいの印象しかない。
 最低なシナリオを書いてしまった。ここは反省すべき場面だ。

 それに「おじいさんの役割」って、ここで終わりだったのだろうか。こうやっていま反省会をやりながら、おじいさんにももっと語るべき物語があったんじゃないか……そんなことをずっと考えてしまう。
 とにかくも、この展開は失敗だったな……と思うのだった。

「あのおじいさんのことは……きっと明日には忘れられる。あそこにおじいさんがいたこともなかったことになって、明日が始まってしまう。最初からいなかったみたいに……。ヘイム……「靄」みたいに」

 ヘイム……それはAIに検知されない人のことで、AIに検知されない人は2050年代社会では「いない存在」として扱われてしまう。
 でもカノンは確かにおじいさんがそこにいた……ということを知っている。その存在が誰からも認識されることなく、消えていく……。そして“なかったこと”にされてしまう。
 カノンはもしも遺族が見つからなかったら、遺骨を自分で引き受ける……と申し出る。「おじいさんの死」を他人事にせず、自分事として引き受けたい。それが「現実を受け入れる」ということだから。そこには、7歳の時、おじさんの死をきちんと受け入れられなかったという心残りもあった。
 ただ、こういうのって、法的に良いことなのかどうかわからない。親族でもない人が遺骨を引き取っていいのだろうか?

 婦警が去って、ホームレス村に1人取り残されるカノン。
 2コマ目、うなだれるカノン。望遠レンズふうに描かれた構図で、ホームレス村の光景が迫ってくるように感じられる。これが2050年代、みんなが目を逸らして、なかったことにしている現実だ。
 3コマ目、耐えきれず涙がこぼれる。
 その場を去るカノン。こうしておじいさんとのエピソードが終わる。


 エピソードの最後は必ず道こずえ先生の授業で終わろう……と決めていた。この構成は第2話以降も続けたいが、うまく構造を作れるかが心配。

 まずは190ページの内容から。
 スクリーンに誰が見ても「下手な絵」が映し出される。下手なのは見ればわかる。ではこんな絵を描く人に、どう指導すれば上手くなるか?
 下手な絵を描くのは、下手な人が描いたからだ……というのは当たり前の話。あまりにも当たり前の話をしているので、生徒から失笑が漏れる。

 道こずえ先生は、「下手な絵」の特徴として「頭から後ろから消失する」と指摘する。ではなぜそうなるのか?


 答えはシンプル。その人が「人の顔」といったら額からアゴまでのみを「顔」と認識しているからだ。「頭」を認識していない。だから絵を描くときに「頭」が消失する。

 絵というものは正直なもので、書き手がどう考えて、どう見ているのか……それを明らかにする行為であると言える。


 例えば「子供の絵」というものを考えてみよう。子供の絵としてありがちなパターンといえば、地面が線1本で表現されて、人間、木、太陽が一つの画面に並んで表現される。子供がどうしてあんなふうに絵を描くのか……というと子供はそのように世界を認識しているからだ。
 では大人になると何もかも明晰に世界を認識できるようになるのか……というとそんなことは絶対にない。大人になっても人間の認識能力は実はさほど上がることはない。認識能力を上げようと思ったら、相応の訓練が必要になる。

 漫画の中では一つの例として「パース」が挙げられている。パースの概念ははるかな古代からあったわけではない。日本においては江戸後期になってようやく入ってきた。だから例えば葛飾北斎の『富嶽三十六景』シリーズにはパースの概念がなかった。


 上の2枚の絵を見ても、手前と奥とで数学的な精密な距離感が表現されていない。ふわっとした感覚で「遠くのものが小さく見える」という雰囲気だけで構図が作られている。


 一方の歌川広重の『江戸名所百景』の頃にはパースの概念が入ってきているので、しっかり空間表現が入っている。
 ただ、パースの使い方はさほどうまくない。これは後の明治時代の絵を見てもあまりうまくなかった。日本人がパースの概念を使いこなせるようになるまで、やや時間を要した。
 といっても、ルネサンス前後のイタリアの絵画を見ても、パース表現はあまりうまくなかった。いくらパースの概念が発見されていたとはいえ、その技法を即座に使いこなせた……というわけではなかった。使いこなすには相応の時間が必要だった。日本は西洋でも手こずっていた歴史を、江戸後期から明治にかけて、猛烈な速度で追いかけていったわけだ。

 次に示されたのはヘラルト・ドゥ(あるいはジェラルド・ドゥ)の作品だ。

 ヘラルト・ドゥの『窓辺のメイド』1660年の作品だ。
 ヘラルト・ドゥは日本ではあまり知られていないので彼の紹介から始めよう。
 1613年オランダ生まれの画家で、レンブラントの弟子。15歳でレンブラント工房の徒弟に入り、その3年後には独立。当時のオランダの人気画家で、現在も作品が200点ほど残されている。
 絵を見るとわかるが、ヘラルト・ドゥは非常に精密な絵を描く作家だ。当時でもその精密さで評判の作家だったようだ。しかし瓶から出る水の表現を見てみよう。明らかにそこだけおかしい。
 どうしてヘラルト・ドゥの水表現がおかしいのか? これはたぶん、当時写真がなかったからじゃないだろうか。写真がなかったから、水がどう動いているのか、よくわからなかった
 ただ当時はヘラルト・ドゥのこの絵画を見て、「水表現がおかしい」と指摘する人はほぼいなかったんじゃないだろうか。というのも、誰も知らなかったから。現代人は写真なんかで水の静止写真を一杯見ているから、パッと見ても「あれ? おかしいぞ」とすぐに気付く。それは現代人だからわかることであって、当時の人はわからなかった可能性がある。

 比較として提示されているのがフェルメールの作品である。

 フェルメールの『牛乳を注ぐ女』。1657年だから、『窓辺の明度』とほぼ同時期の作品だ。
 見てほしいのが、瓶からそそがれる牛乳の液体表現。現代人の目で見ても、液体表現は正しい。これはモデルに実際に牛乳を注ぐ動きをさせて、カメラ・オブ・スキュラで覗きこみ、その動きを写し取ったからだろう。こういうところで「正しい形」を「知っている/知らない」の差が出てきている。

 こういう話をすると、多くの人は「画力問題」の話をする。「ヘラルト・ドゥの水表現がおかしいのは画力が低いからだ」と。そう思う人は、絵の全体を見てほしい。ヘラルト・ドゥは間違いなくあなたより絵が上手い。しかし水表現がおかしい。これは水がそういう動きをすると知らなかったから……と推測される。
 葛飾北斎の絵も同じだ。葛飾北斎はめちゃくちゃに絵が上手い。現代のほとんどの絵師でも勝てないくらいの画力がある。でも現代の視点で見るとおかしなところがある。それは画力問題ではなく、そういう視点で見る……という意識がなかったからではないか。

 では本題に戻って、絵の下手な人にどうやってそれなりの絵を描かせるのか? その答えはシンプルで「正しい形」を認識させてやれば良い

 ほとんどの人が勘違いしていることの一つに、自分は目の前にある情報を100%受け取っている……ということだ。そんなわけはない。人間の脳はそこまで高度ではない。人間が認識できるものは、「目」というセンサーをそこに向けて、意識しようとしたものだけ。それ以外の99%くらいは意識されることなくスルーされる。人間は想像以上に、身の回りにあるものについて、特に気に留めることなく過ごしている。
 それが当たり前なんだ。なぜなら人間の脳というのは基本的にシングルスレッド。「マルチタスク」なんて言葉が最近あるが、あれは嘘だ。人間の脳は同時に二つのことを処理できるようにできていない。マルチタスクは意味もなく脳の負荷を高めているだけで、実際にはシングルスレッドが基本だ。シングルスレッドだから、基本的に注意を向けられるものは一つだけ。どうしてそのようにできているかというと、そうしないと危ないからだ。もしも車の運転中、目に映るあらゆるものを認識して脳で処理していたら……絶対に事故になる。だから不要な情報は意識から排除するように仕組みができている。
 この辺りが現代の危ないところで、というのも現代の都市生活はあまりにも情報量が多い。あちこちに広告看板があって、人の視線を惹きつけようと差し向けている。脳への負荷を不用意に高めさせてしまっている。……という話は別のところにしよう。
 最後のコマは「もしかしたら現時点でも、自然世界に当たり前にあるはずなのに、認識していないために見落としているかもしれないものはたくさんあるかもしれない」
 ……と道こずえ先生の足元を妖精が歩いている。私たちは普段から色んなものを見過ごしているので、もしかしたら足元にいる妖精にも気付かずに通り過ぎているのかもね……という軽いジョーク。本当かも知れないけど。

 ではなぜ人は絵を描くのか? 絵を描くことにどんな意味があるのか? 特にAI時代において、わざわざ人間が絵を描く意味はあるのか?
 絵は「それがそこにあること」を認識するために描くのである。あるいは相手に「それがそこにある」という意識を促すために提示されるものなのである。

 昔、なにかの映画で見たのだけど、「人は美しい風景があっても目を向けない。絵にするまで気付きもしない」――と、だいたいこういう感じの台詞があった。
 ごく普通に日常を過ごしている人は、風景を見てもとくに「美しい」とは思わないそうだ。ああ、建物が建っているね、ああ、夕日が射しているね……という感覚なんだそうだ(そんな感覚だから、平気でその風景を破壊して、ソーラーパネルなんかを並べたり……なんてことができてしまう)。建物が建っている、木が立っている……それをさらに「綺麗だ」と感じるためには、もう一つ別の脳の処理が必要となってくる。美術家はそこに「美しい風景がある」ということを知らせる役目がある……といえるかも知れない。
 本当いうと、全ての人が日常世界にある「美」を認識していれば、わざわざ美術家がそれを表現する意味がない。でも美を見いだすことは特定の人間に限られた能力であり、さらにその美を表現するのはことさら限られた人に与えられた能力である。だから美術家は「美しいもの」を表現しなければならない。そして人々に新しい美とは何か……を常に提唱し続けねばならない。

 高畑勲監督の言葉だったと思うけど、実写で表現された人間の動きというものは、人間の目で見てもほとんどわからないものだそうだ。特に、職人の手の動きやダンスの体の動き……というのは普通の人が見ても何が起きているのかよくわからない。情報量が多すぎるからだ。
 ところが同じ動きをアニメにしたものであると、不思議とスッと頭に入ってくる。これがアニメの効果だ……という話をしていた、と記憶している。

 さて、ではどうしてそんな感覚になるのか? 実写だと伝わりにくいのに、漫画だと伝わりやすい理由は?
 人間の認識能力は思った以上に低い……という話を前のページでした。1枚の写真を提示して、そこに何が映っていますか……と尋ねてもパッと答えられる人はそうそういない。写真だと情報量が多すぎるのだ。
 そこで漫画で表現する。するとスッと理解できるようになる。情報量が一気に削ぎ落とされ、見せたいものが明確になるからだ。
 絵で表現することの意義は、伝えたい相手に対し、どの程度の情報量で提示するか……という問題が存在する。例えば幼児は認識できている情報量が非常に低い。幼児の描く絵を見ると、それがよくわかるはずだ。そんな認識能力しかない幼児に、大人が見るような絵を見て即座に理解できるか、大人と同じ解像度で理解できるか……そんなわけはない。
 幼児に情報を伝えたい場合、幼児の認識能力に合わせた絵にすると理解されやすくなる。例えば児童書の挿絵などを見てみよう。たいていの児童書の挿絵は情報量が低く抑えられて描かれている。あれは幼児の認識能力に寄り添って表現されていることだ。
 絵は写真に忠実であれば良い……というわけではない。その画像を見る人の認識能力に沿わせて、情報量を減らしたり増やしたりしたほうがよい。これがわざわざ絵で表現し、提示することの意義である。

 ここまで絵の性質がどういうものかわかってきたところで、最初に提示した「下手な絵」を描いた人の絵をどうやってアップデートさせられるかがわかってきただろう。
 その人の認識の解像度を上げてやれば良い。まず「人の顔」といったら「頭まで含む」「首も含む」ということを認識させてやれば良い。
 絵の経験が少ない人がどうやって現実世界を認識しているのか? というと意外と単純なパターンで認識している。「目の形はこうでしょ」と。絵の下手な人に「目の前の人物の顔を描け」といったら、たいてい目の前にいる人を見ずに、自分の手元だけを見て「目の形ってこうでしょ、鼻の形ってこうでしょ」で描いてしまう。ある程度絵の描ける子供もいるけど、そういう子はたいてい「漫画の絵」で絵を憶えちゃっている……というケースが多いので、やっぱり目の前にいる人を見ずに、手元だけを見て「目の形ってこうでしょ」ってやってしまう。
 そうじゃない。目の前の人間がどういう姿をしているか、それをまず見ろ、と。それをやることが絵を描くことの第一歩。実はこれが難しい。うるさく言っても、大抵の人は「見ているつもり」になって、自分の手元だけを見て絵を描いてしまう。そういう癖がついちゃっている……ということに気付かせてやらねばならない。

 そこで4コマ目でそれを解消する方法が示されている。絵を描こうとしている対象に枠線を当てはめて、キャンバスにも同じ枠線を作り、その枠線の中だけを見ながら描く。枠線の中だけを見て描け……というとやっと「目の形ってこうでしょ」ではなく、その枠線の中にある形のみを見て描くようになる。
 これは現実の人物や風景だと情報量が多くて、普通の人だと認識オーバーになるから……というのもあるけど、「目の形はこうでしょ」という思い込みで描く習慣を一回崩し、「目」を「目」だと思って見るのではなく、単純な「形」だと思って描く。頭の中の思い込みを崩して、対象がどんな形になっているかを見るためにはこの方法が手っ取り早い。

 他にも、お手本になる絵を逆さまにして模写する……という技法もある。正位置に置くと、どうしても「目の形ってこうでしょ」「鼻の形ってこうでしょ」という思い込みが出てきてしまう。逆さまにしただけでその思い込みで描く習慣が一気に崩れる。とにかくも「人の顔ってこうでしょ」という思い込みを崩すところから始めなくてはならない。上手くなるのはそれからだ。

「ここからわかることは、「絵がうまくなる」とは「技術問題」もあるが、それ以上に「認識が変わること」と考えられる」

 これはどういう意味なのか?
 2コマ目を見ると、飾璃アヤナを見ている千里カノンが描かれている。アヤナのことをじっと見ているカノン。しかしカノンの目の前には「認識のフィルター」が何枚もあって、その結果、実像とは違うものが見えている。
 本編70ページで、アヤナの顔を描いてみようとして「アヤナちゃんってショートだっけ、ボブだっけ……髪に何か……星?」と、思い出そうとしてもぜんぜん思い出せなかった……という場面がある。あれはつまり、側にいる人の顔を、見ているようで見ていなかったから。見ているつもり、わかっているつもり……実は認識のレベルはかなり低かった。
 人間は誰しも「偏見」を持っている。絵はその偏見も露骨に明らかにしてくれる。例えばある相手を見下しているとき、その相手を絵に描こうとすると露骨に「見下しています」という気持ちが絵に現れてしまう。絵が上手くなるためには、この偏見のフィルターを1枚1枚剥いでいく必要がある。その上で、その対象がどういう形をしているか、曇りなき目で見る、ということをやらねばならない。

「絵描きはジワジワと上手くなっていくものではない。あるときポンとレベルアップする。どうしてそうなるのか? というとその瞬間「認識」のグレードが一段階上がるからだ。ならば認識能力をとことん上げればよい」
 絵というのはジワジワ上手くなっていくのではない。これはわりといろんな絵描きの先生が話していることだし、アニメの演出やっている人も「アニメーターってのはジワジワ上手くなるものではなく、あるときポンとレベルアップする」という話をする。どうしてそうなるか……というとその瞬間、レベルアップがあったからだ。その瞬間、認識のグレードが1ポイント上昇する。
 ただ、絵というのは難しいもので、葛飾北斎やヘラルト・ドゥのように、「認識が間違っているけどめちゃくちゃに上手い」画家はたくさんいる。ここから推測するに、「画力」というのは「経験値」に相当するものではないだろうか。それがあるとき、「認識の変化」と結びついた瞬間、「レベルアップ」がくる。
 だから葛飾北斎みたいにめちゃくちゃに経験値が高まっている人に、現代の絵画技法や概念を教えると、一瞬にしてレベルが10コくらい上がったのではないか。……実証はできないけど。

 ではその認識を変化させてやれば、絵は即座にレベルアップする……という理屈になるが、これが難しい。

「ところがこれが難しい。「頭で理解する」と「認識が変わる」との間には格差がある」

 現代人はなにかと「頭」で考えて理解する……という習慣が付いてしまっているから、「頭で理解する」と「認識が変わる」の違いが理解できない。「頭で理解した」で終了だと思っている。しかし「頭で理解した」と「認識が変わった」は全くの別モノ。
 その例として、ゲームの攻略本を読んで、「よしわかった」と思って実際のゲームをやってみてもぜんぜんうまくいかない。それは単に「頭」だけで理解したつもりになっているからだ。この場合はぜんぜん理解できていない。本当に理解できていたらならば、脳内でシミュレーションしたとおりに動けるはず。それができないってことは理解できてないってことになる。
 思い込みというのは厄介なもので、あらゆる局面で人間を「思い込み」に引きずり込んでしまう。キャラクターの絵を描いていても、「目の形はこうでしょ」「鼻の形はこうでしょ」という思い込みについつい引きずり込まれてしまう。その思い込みだけで絵を構築しようとしてしまう。私ですらそんな感覚がある。そういう思い込みを破壊しなくては、絵のグレードが上がることはない。「絵が上手くなる」ということは「絵が変わる」という意味なのだから。

 ではどうやって認識のアップデートを促すのか……というと一歩一歩やっていくしかない。あるとき急に、レベルが10コくらい上がる……なんてことはない。それだけの認識が突如ガッと変わる……なんてことはない。認識の変化は1コ1コ変えていくしかない。
(レベルがいきなり10コくらい上がるなんてない……と言いたいところだけど、実は絵描きの世界にはしばしばある。数日前まではものすごく下手だった人が、ある日突如上手くなる……本当にこういうことがある。だから絵の習熟度というのはどう作用するのか、よくわからない)
 時々は自分が描いた過去の絵を振り返ってみるといいだろう。なぜなら現実の世界はレベルアップファンファーレなんて聞こえないから。自分ではレベルアップしたかどうかなんてわからない。客観的にはわかるみたいだけど、自分では本当にわからない。
 どうやったら自分が「レベルアップしていたか」を確認できるか、というと数年くらいして振り返るとわかる。そうやって「絵が上手くなっている」という実感を確かめていかにと、絵描き修行ははっきりいってしんどい。定期的に過去絵を振り返るのも、自分の実力の現在地を確かめる上で重要なのでオススメだ。
 といっても、自分の過去絵って見たくないものなんだけどさ。

 ここから「生まれたときからAIがあることが当たり前」の世代へ向けたメッセージとなっている。
「君たちは生まれたときからAIがすでにあって、AIの手を借りることが当たり前になっている」
 現代はまだ「AIを使うか、否か」というテーマで論争が起きているフェーズだ。しかし「生まれたときからAIがあるのが当たり前」という世代が間もなく生まれてくる。その彼らはどう思うだろうか?
 公正な目で「手書きの絵」と「AIの絵」を見比べてみよう。どうみたって「AIの絵」のほうが見栄えが良い。「AIの絵はデッサンが奇妙に崩れていたりする」という指摘もあるが、それは手書きだって同じだ。ほとんどの手書きの絵だってデッサンが崩れている。比較して見ると「AIのほうが良い」はず。すると「AIネイティブ世代」は「AIのほうがいい絵ができる」「AI使った方が楽じゃん」「手書きダサいよね」と考えるのは自然なことだと考えられるだろう。2050年代くらいの子供たちはそう考えるだろう。
 46ページで喫茶店が出てくるシーンで、「2050年代の飲食店は基本的にはロボットアームが料理を作り、ロボットが配膳する」と書いた。2050年代の人々はわざわざ誰かの「手料理」を食べたいとは思わなくなってくる。ロボットの方が信頼できる……と考えるようになる。ただし、料理人の中でも「一流」になれば人々も信頼して、その人の料理を食べてもらえる。そのかわり、2流、3流の料理人はロボットに信頼感とクオリティで負けるので、誰も食べてもらえなくなる。
 絵描きも同じで、1流絵師であれば、手書きの絵も見てもらえる。しかし2流3流の絵師はAIに負けるので、もはや誰にも見てもらえない。2050年代の子供たちはそういうのはわかっていて、しかも自分は1流絵師でもないことを知っているから、AIの手を借りる……という選択を採る。
 すると何が抜け落ちるのか? ひとつ考えられるのは「リテラシー問題」。この場合のリテラシー問題は、「AIに頼り切ることでどんな問題が起きるか?」。
 何度も繰り返す話題だが、人間の認識能力はたいして高くない。絵描き修行をすること……というのはこの認識能力をひたすら磨いて、それを作品に反映させることである。
 この認識能力がたいして高くない状態でAIに頼り切る状態になるとどうなるか? 自分が認識可能なものより、ちょっといいものをAIが提供してくれる。するとそれだけで「凄いものができた」と満足してしまう。AIが出してきた絵から、何が問題なのか、何が反省点なのか、そこを考える力が身につかなくなっていく。
 AIは絶対的なものではないので、頻繁にデッサンやパースやキャラ設定のおかしな絵を出してくる。絵描きになるなら、まず何がおかしいのか、即座に見出し、即座に修正を入れなければならない。ところが自分の認識能力以上の絵が出てきてしまうと、どこがおかしいのか永久にわからないまま……になる。
 そういうとき、どうやったらAI絵の欠点を見つけ出し、直せるようになるのか? というと自分がうまくなるしかない。
 絵の下手な絵師がAIを使ったところで、いい絵ができることはない。「平均的な絵」はできるだろうけど、それ以上にはならない。「AIの限界」を越えることはない。
 怖いのはAIが出してきた絵のどこがおかしいのかわからず、「自分は絵が上手い!」と思い込むこと。こういう思い込みを続ける可能性がAI時代の学生には起き得る。

 3コマ目、千里カノンのタブレットから天使の飾璃アヤナが飛び出している。
 どういう意味があるのかわかりづらいが、人間の普遍的な性質として、自分の認識を越えるものと接すると、その対象を崇める……という習性がある。例えば大昔、火山や台風といったものがどういう仕組みで起こるのかわからなかった。自分たちの認識のはるかな外で起きる現象。こういうものを昔の人々は「神」による現象だと考えていた。これが「自然信仰の神」が生まれる理由。
 この習性って大昔だけの性質ではなく、現代でも、飛び抜けた能力を持った人と接すると、その相手から神聖さを感じたりする……ということがある。優れた能力を持って功績を残した人が死後、神として祀られるのはこういう理由だ。
 AIの手を借りて絵を描くと、自分の認識能力より一歩上の絵ができてしまう。すると自分の手先から神聖さを持ったものが生まれてくるように錯覚しはじめる。その感覚を視覚化したものとして、「タブレットから天使が飛び出す」という表現をした(こういう広告を作るAIタブレットの会社って出てきそうだ)。

 198ページの内容。

 未来の人々は、通勤通学中、ずっと《歩行アシスト》に任せっきりで、《歩行アシスト》が優秀なので動画を見ながら歩いている。そうすることが2050年代においては「スマートなやり方」だと考えるようになっている。2050年代はそうやって、特に身にもならないようなYouTuberの動画をえんえん見続けているのだ(動画の内容はユーザーが選ぶでのはなく、AIが相応しいもの選んでくれる)。
 すると問題なのは、通勤通学時に、その周りにあるものに注意を向けなくなる。専門学校に通っている生徒達は、実家から離れて一人暮らしを始めたばかりで……そういう状態で《歩行アシスト》を当たり前のように使い続けているから、その《歩行アシスト》が使えないという状態になったとき、自宅から学校までの道順すらわからなくなる。自分の家のすぐ近くで道に迷う……という事態になってしまう。
 そしてやがて認識能力が下がっていく……。自分たちの周囲に何があるのか、何が起きているのか……そういうことに関心を向けなくなっていく。

 その一つの例として「一日で更地になってしまったらそこになにかあったのかさえわからない」という言葉。
 カノンは普段なにも考えずに道を歩いているから、一日で更地になったらそこになにがあったのか、まったく思い出せない。一方のアヤナは普段から身の回りのものを観察する習慣がある。だから更地になってもそこに何があったのか思い出せる。
 現代でもごく普通の人は、街の風景をぼんやりした意識のまま、通り過ぎている。そのなかで何がなくなっているのか、何が生まれているのか、なにひとつ関心を向けずに生きている。AI時代に入ると、それが加速度的に強くなっていくと考えられる。
 そこで道こずえ先生は、「自宅から学校までの風景を絵で描いてみろ」という課題を出した。おそらく生徒のなかの誰1人、その課題をこなせないだろう……と考えていたからだ。だがそれが描けるようになること……が絵描きになるための最初の一歩だ。だからこの課題だった。

 このあたりでそろそろ気付いてほしいのだけど、第1話のエピソード全体が道こずえ先生の授業内容になっている。
 千里カノンは最初、外出時はいつもAIグラスを装着していて、動画を見ながら歩いて、その道の途中になにがあるのか、なにひとつ注意を向けていなかった。友人になったアヤナについてもさほど注意深く見ていたわけではないから、ふとその姿を思い出して描いてみよう……と思っても描けない。それくらいに何も見ずに、ぼんやりしていた。AIアシストがあまりにも優秀なので、「ぼんやりしていた」という自覚すらなかった。ドローンが来ない……というとき、ベランダから辺りを見ていて、空をドローンが一機も飛んでいない……ということさえ、気付かなかった。
 その後、AIグラスを外して身の回りを見回して、街がどういう状況になっているか気付いた。あちこちホームレスだらけ。そっか、日本の経済って崩壊していたんだ……とそういうことにようやく気付いた。
 気付いて、深く関わろうとした。「認識する」というのはそういうことだった。
 一方のアヤナはすでにロークラスで普段からAIも使ってなかったから、「崩壊した日本」の当事者だった。だから最初からいろんなものを認識できていた。
 そこに気付くまでが第1話の全体像だった……ということ。

 自分がどういった時代のどういう場所に住んでいるのか……その自覚を持つこと。絵が上手くなるということは「知る」ことである。
「絵というものはすでに説明したように、その人がどのように認識しているか……これを写したものである。その人間がどのように見て、思い込んでいるのか。絵にすれば他人に自分の思い込みを伝えることができるし、自分でも向き合うことができる」
 という解説の背景で、街中でカノンとアヤナがばったり出会う場面が描かれている。
 カノンの脳内には「カテゴリー:女友達」となっている。もちろんアヤナが「実は男の子」というのは知っているけど、脳内認識では「カテゴリー:女友達」。それも「かわいい」と思っている。だからカノンが描くアヤナは「かわいい女の子?」みたいな絵になる。
 一方アヤナは……最初のプランでは、ここはカノンの裸が描かれる予定だったが、小さなコマの中にそこまで書き込めないし、露骨すぎる……と考えて、「♥18禁」と描くことにした。これで伝わるだろうと考えたからだ。要するにアヤナはカノンについて「エロ目線」で見ている。だからアヤナがカノンを絵に描くと「エロ絵」になってしまう。
 相手をどういう目線で見ているのか、どう思い込んでいるのか……それが絵に現れる。それが絵というものの正体。
 これがAIを使うと喪われてしまう。AIを使うと、パブリックな絵になる。「その人の絵」にはならない。

 200ページ。
「漫画家にとって一番大事なものは《個性》だ」
 荒木飛呂彦先生は著作で、「良い漫画絵の条件」は10メートル離れて見て、一瞬で何のキャラクターかわかること……と語っていた。「絵が上手いこと」は絶対条件ではない。絵が上手いことより、個性的であることの方が重要。
 その個性がどこで作られるのか……というと思い込みや思い入れから作られる。例えば、やっぱり美少女に対する偏愛を持っている人の描く美少女は、いいものになる。メカが好きな人の描いたメカは、いい感じになる。「偏愛」が個性の基礎となる。
「デッサンやパースが狂っていても、絵としての魅力がそこにあればそれでよい」
 もちろんデッサンやパースは押さえておかなければならない。やはりある程度絵が上手い中でないと、魅力的な絵の魅力的な構図は生まれない。「偏愛」を表現するだけの画力は絶対に必要。でも《個性》と《主張》がそこに乗っていたら、多少のデッサンやパースの狂いは許容される。場合によってはそれが「味」になることもある。絵描きの基礎が狂っていても、面白かったり格好よかったりしたら、それでいいのだ。
 そういうのも、AIを使ってしまうと出てこない。AIは「平均的な能力」しか出してくれないからだ。きっとなにもかもAIにお任せしちゃった漫画は、面白くもないんだろうな……と想像している。

「絵というものは間違っていたり歪んでいたりしてもいい。大事なことは「魅力的であること」だ」
 と例に出てきたのが「鵺」。鵺はそもそも存在しない。夜にひっそり鳴く鳥の鳴き声から「きっとこういうものに違いない」と昔の人が想像で生み出したものだ。
 でも鵺というキャラクターはやたらと格好いい。鵺という存在自体格好いいから、現代でもいろんなフィクションに出てくる。みんな格好いいと思っているから、平安時代から現代までフィクションの世界から生き続けている。
(ちなみに「鵺」とは「トラツグミ」のこと――つまり私のことだ)

 これは私の学生時代にもすでにあった感覚で、「絵はこうでなければならない」という意識。女の子キャラクターだったら目の形はこう、鼻の形はこう……そのテンプレートにしっかり合致した書き方をしないとダメ。
 日本人は特に「減点方式」で物事を考える癖が染みついちゃっているから、頭の中に「理想のテンプレート」を作っていて、それに合致しないと一つ一つ減点させてしまう。そういう感覚だから、みんな似たようなキャラクターを描き始めてしまう。理想の「上手い絵」を描かなくちゃいけないと思っている。
 これだと永久に「自分の作品」が生まれることはない。
 AIはオリジナルの作品を作ってはくれない。過去作を学習して再現する……という道具に過ぎない。0を1にする……ができるのは相変わらず人間のほう。「正しい絵」は出てくるけど、間違った絵は出てこない(間違った絵、出てくるけど……)。でも「こうするのが正しいんだ」という意識で創作を始めてしまうと、永久にオリジナルを作ることはできなくなる。

 一つの例として葛飾北斎の絵だけど、北斎の絵は空間表現が間違っている。実際に外に出て風景を見たら、あんなふうに見えないはずだ。でも構図がばっちり決まっていて、ものすごく格好いい。「正しいこと」よりも「格好いいこと」「美しいこと」「面白いこと」のほうが重要。そういう意識は「偏愛」を切っ掛けにしないかぎり生まれないもので、この偏愛に基づいたものを描かないと、「自分の絵」が永久に生まれることはない。

 そして自分が果たしてどんな偏愛を持っているのか。どんな傾向を持っているのか。自分でわかっているようでわかっていない。だから一回、絵を描いてみろ……と。絵に描いてみれば、自分がどんなふうに物事を考え、自分の身の回りのものを見ているかがわかる(俺ってこんな女の子好きだったんだ……とか)。さらに描き続けることで、その偏愛は磨かれ続ける。
 自分で自分を見つめ直す切っ掛けになるから、“自分の手で”絵を描いてみろ。その切っ掛けを作るための課題であった。

 ここから職員室。また先生達の講評が始まる。
 提出率は悪くなかったものの、まともに絵を描ける生徒がほとんどいない。所詮専門学校、「働くのも嫌、勉強するのも嫌」というモラトリアムな若者が集まる場所。
 ここでちょっと継手はぐむ先生の独白がある。
「これもよくあることです。手応えがないと教える側としてももどかしいです。でもできるなら、叱るよりもできたことを評価したいです」
 これは元々の脚本にはなかった台詞。継手先生のキャラクターが第1話全体を通してあまり掘り下げられなかったから、ここで台詞を入れたかったけれど、するとどうしても1ページあたりの文字量が増えてしまう。どうやったらこの台詞が入るかな……とギリギリ調整して、どうにか入れられた台詞だった。

 生徒の大半がAIなしではやっぱりまともに絵が描けない。子供のような絵を描いてしまう。そうした中で存在感を発揮するのは女装っ子・飾璃アヤナ。
 もう一人上手い生徒は……千里カノン。ついに先生に目を付けられるくらいにまで実力を上げてきた。千里カノンもようやく作り手としてのスタートラインに立った瞬間だった。

 ここで「編入生」がやってくる。
 おやおや?? この天戸ウズメって女の子、VTuberのモモちゃんや、ハッカーのアバター・モモとそっくりじゃないか? 描き分けができてないんじゃあないの??
 うそうそ。天戸ウズメ=VTuberモモちゃん=アバター・モモ、みんな同一人物。キャラクターを見てわかるように、隠す気もない。こういうところで正体を隠しても意味もないでしょう。
 「天戸ウズメ」の名前である「天戸」が意味しているのは、「AI」のこと。作中でも「AIは神様」という台詞があるので、すぐにわかるはず。45~100ページまでのアクションシーンはなんだったのか……というと天戸=AIを開くシーン。防衛プログラムを突破するシーンが「舞を奉納」している場面となっている。
 つまりウズメちゃんはすでにその名前が持っている役目を果たした後。AIを完全に破壊したうえで漫画学校へとやってきている。
 さて、その理由は……。
 そこはまだ考えてないんだよなぁ……。というか、この後の展開を描く予定すらないので、この辺りのストーリーはないかもしれない。第1話打ち切りで終わるかどうかは……採用する編集者次第。

 ともかくもこれにて第1話完了! 206ページ。3ヶ月かかってやっと終わった……。

終わりに

 『ムーンクリエイター』の第1話の制作がやっと完了! 3月12日だった。
 もともと2月に完了予定だったから、半月もオーバー。本当なら、『ムーンクリエイター』の制作が終わったらすぐに別の作品……という予定を立てていたのだけど……しばらく延期にします。疲れちゃって……。何か描く、という意欲をなくしちゃって、何も描く気がしない。

 『ムーンクリエイター』はいい作品じゃなかったなぁ……。脚本を急ぎすぎた。ネーム制作に入ってから、脚本の欠陥にいくつも気付く。
 どこがまずかったのか……まず2050年代の格差社会、格差差別の実態が描き出せていない。《社会信用度》は重要なファクターであるのに、きちんと説明されていない。このあたりの説明が中途半端だから、その後のドラマが響かない。ブラックアウトが低所得者達の怨嗟……ということも伝わりづらい。どのシーンも中途半端、いまいちドラマに深みがないし、感動もできないような作品になっている。

 脚本の段階でこれらの問題に気付かず、ネーム制作にはいったところで「あ……ダメだこれ」と気付く。しかし気付いた時にはもう引き返せない。後編制作前に脚本修正が入ったのだけど、いかにも付け焼き刃という感じ。どっちにしても「これじゃ伝わらんよ」という内容。
 後半はお話自体もグダグダになって、「なんでおじいさん死んだの?」と聞きたくなる。合理的説明ができないから、感動もできない。「なんでだ!」と言いたくなるような終わり方になっている。

 それにお話しも長過ぎ。私の計画では、100ページほどですべて収まる見込みだった。ところが蓋を開けてみると2倍の200ページ。誰がこんなグダグダしたお話しを200ページも読んでくれるんだよ!
 というか、前半、天戸ウズメのAIハッキングのシーンまで脚本の6割ほど。普通に考えれば後半はもっと短くなるはずだったのに、追加シーンがあったため、ほぼ前編と後編が同じページ枚数になっていた。

 あ……これ、ダメな作品だ。こんなネーム、どこも企画採用しねーよ……それ以降は頑張って描いたけれども、激しい虚無感だった。
 これ、絶対ダメな奴だ。いくら頑張ってもゴミになる。なんでそんなものを、こんなに時間と労力を掛けて描いているんだ……。
 時間と体力を消耗して、ゴミを生産し続ける。これほどむなしく感じる3ヶ月はなかった。
 前作である『空族のラーニャ』と『天子姉妹の祝福』と比較しても内容が薄い。深みがない。やっぱり脚本が突貫工事すぎた。前2作よりも確実にグレードダウンしちゃっているのに、どこかの出版社に送っても採用されることなんてまずねーよ!

 徒労の産物というか、徒労そのものみたいな代物を作ってしまい、今の精神状態のまま「次の作品」……という気分にならない。身体的な疲れ以上に、精神的にしんどい。モノ作りからはしばらく手を引きたい。
 これからどうしようか……少し働きに出るかも。資金もとっくに底をついている。もしも次の作品を描き始めるにしても、今の環境はしんどい。体勢を立て直す必要がある。それにもうすぐ『ゼルダの伝説 ティアーズ・オブ・ザ・キングダム』も発売になるしね。新しいゼルダを買うお金すらない。
 働くとすると半年くらい。それくらいの期間を置いて次……という感じかな。とにかくしばらく何もしたくない。
 もしかしたら、漫画のネームを描くのもこれでおしまいかもね。短い夢だった。

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