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11月22日 ヨーロッパ白人はそこまで優秀ではない。ヨーロッパ白人が世界の覇者になれた理由と、衰退している理由。

 現代は「ヨーロッパ文明」の時代である。
 ……ヨーロッパ文明ってなに? だよね。
 人類史的に見て、メソポタミア文明があって、ギリシア文明があって、ローマ文明があって、その次に来ている現代はヨーロッパ白人主導の時代だから「ヨーロッパ文明」でしょ。
 そうはいっても、世の中的に「ヨーロッパ文明」という区分などなく、私が勝手に言っているだけだが。
 「ヨーロッパ文明」はまったく存在しない言葉ではなく、ネットで検索をしてみるとぽつぽつと出てくる。どうやらメソポタミア文明がもたらされる以前、ヨーロッパで独自に存在していた文明のことを、考古学の分野では「ヨーロッパ文明」と呼ばれているらしい。
 ここで話をしたいのは、そういう考古学の話ではなく、おそらくは将来、現代のヨーロッパ文明が崩壊したとき、現代のような時代を振り返って「あれはヨーロッパ文明だった」と言うようになる。その時にやっと歴史区分の一つになる。で、その時代はもう近くまで来ているのではないか……というのが私の考え。ヨーロッパ文明はすでに衰退期に入った。どうしてそう考えるのか……をこれから語っていこう。

 まず、そもそもの話として、ヨーロッパはずっと「後進国」だった。

『銃・病原菌・鉄』より

 こちらの図は『銃・病原菌・鉄』に掲載されていたもの。農耕がどのように広がっていったか……を示した図である。
 西側の世界において、農耕が最初に始まったのは肥沃三日月地帯に発展したメソポタミア文明である。現代のイラク、クェート周辺である。なぜここで農耕が生まれたのか……というと栽培に有用な作物がこの地域に集中していた。また家畜に相応しい動物もこの地域に集中していた。さらに年間を通しての降雨量にも恵まれていた。だからこの地域で世界最初の巨大文明が築かれたわけである。
 メソポタミア文明が発達したもう一つの理由は、“自然が荒廃したから”という要素だ。農耕という当時として不確定な生活よりも、狩猟採取の生活の方が優位だった。農耕は年中働いていなければならず、古代世界では得られる作物のバリエーションが少なく、農耕のみの生活を始めると栄養が偏ってしまう。むしろ狩猟採取生活の方が色んなものを食べられて、健康的な生活ができた。それでも狩猟の生活をやめて、農耕の生活をはじめなければならかったのは、自然が荒廃して“農耕を始めなければならなかった”からだとされている。
 肥沃三日月地帯は人類にとって有用な作物、動物が集中していたから、この地域で先進的な文明が生まれ、人口爆発が起きた。しかしこの地域の自然はそこまで再生力が強いわけではなく、人口爆発に耐えきれず、破綻してしまった。
 自然と食料の関係はトレードオフの関係にある。食料を獲得するためには自然を破壊しなければならない。しかし自然を破壊しすぎると、食料が得られなくなる。自然が破壊されすぎると自然環境が変わり、雨が降らなくなり、作物が育たなくなる。そういう状況になると、文明は崩壊する。メソポタミア文明はまさにそういう“典型的な状況”に陥って文明崩壊してしまったのだ。
 しかしメソポタミア文明の足跡は周辺地域に受け継がれていった。その一つが農耕。農耕はもともとはヨーロッパではまったくやっていなかったのだが、メソポタミア文明が始めたことによって、紀元前6000年にはトルコ、ギリシャ、ブルガリア、セルビアといった地域に伝播し、紀元前5000年にはドイツ、ポーランド、ウクライナ、紀元前3800年頃にようやくイギリスに到達した。
 農耕は東西に拡散しやすく、南北に拡散しにくい……という特徴がある。なぜなら同じ緯度であれば同じ作物が栽培可能だが、経度が変わると栽培が難しくなるからだ。例えば肥沃三日月地帯発祥の小麦は、8世紀頃日本に伝わり、伝わってすぐに日本でも栽培されるようになった。それができたのは、肥沃三日月地帯と日本はだいたい同じくらいの緯度だったからだ。
 経度が変わると、つまり北へ北へ行くほど農耕が難しくなっていく。ヨーロッパ北部、イギリスやスカンジナビア半島などへ行くと、気候はほとんど北海道だ。こういった地域では作物を育てるのは難しくなる。そのためイギリスなどには農耕が伝わるのが遅く、伝わってもさほど農耕中心の生活にはならなかった。
 ヨーロッパ全体に農耕が行き渡るまで時間が掛かったし、農耕が伝わってもすぐに農耕中心の生活にはならず、この地域には文明と呼べる文明はなかなか生まれず、ずっと後進国であった。

 人口が増えると、社会の形を変更せざるを得なくなっていく。小規模な血縁のみの社会では「長」は必要なく、文字を発達させる必要もない。何かを決定するときはみんなで集まって会議するし、それを文字として記録する必要はなく、隣人が常に近いところにいるのだから直接言えばいい。しかし人口が多くなっていくと、社会階層を作らなければならなくなる。大人口を抱えると集落の全員が集まって合議制で……なんてことをやるとひたすら揉めるだけで何も決定できなくなる。そこで政治を専門とする人が生まれる。さらに他部族との話し合いをするための代表者が必要となり、そこでも政治家が必要となっていく。こうやって社会は複雑になっていく。
 しかしヨーロッパは世界的に見ても遅れた地域であり続けた。なかなかこの辺りで独自の文化は生まれなかった。

『銃・病原菌・鉄』より。文字を独自に発達させた地域。

 その一つの例として「文字」を見ていこう。小規模血縁集団的な社会では文字は必要ないものだった。隣人が常に近くにいるのだから、直接言いにいけばいい。しかしより遠くの人に言葉を伝えるときや、言葉そのものを残す必要に迫られたとき、文字が必要になる。
 その文字を最初に発明したのはメソポタミア文明の一つであるシュメール人だとされる。
 シュメール人は紀元前3000年頃、楔形文字を発明する。初期の頃には粘土板に尖筆などでひっかいて、羊の数や穀物の数などを記録していた。おそらくはそうした交渉の記録をつける「帳簿」のような役割で文字が開発されたのではないかと思われる。
 その帳簿的なものから、文字は次第に複雑化していくことになる。もともとは記号的な「$」や「%」といったものが中心だったが、次第に人間の発話そのものを記録するようになっていく。母音・子音に対応した言葉を次々に編み出していき、それができるようになると、そこから発展した新しい言葉を作れるようになる。
 例えば「話す(speak)」と接尾辞erを組み合わせて「Speaker(話し手)」という言葉を作ることができた。同じやり方で「教える(teach)」を派生させて「教師(teacher)」という言葉を生み出すことができた。言葉を生み出されると、それに基づいた思考ができるようになっていく。こうやって文字を持つ文化は人々に多様な思想を考え、より多く語ることが可能になっていった。
 このシュメール人の発明が、西側世界に拡散していくこととなる。紀元前2000年~1000年ほどの間に、現代のシリアからシナイ半島に暮らしていたセム語を語る人々の間で「アルファベット」が生まれる。アルファベットはシリアの人々が独自に発明したものではなく、基本的にはシュメール人の発明を受け取って、模倣し、改良することによって成立した言葉だった。
 その成果を農耕とともに受け取ったのが、ヨーロッパ人たちである。

 発明の歴史を見ていこう。
 氷河期が終わる頃、狩猟採取民は加熱融解した砂と石灰石が炉床に焼け残っていることに気付いた。この発見が、紀元前4000年頃「焼き物」に繋がる。さらに進んで紀元前2500年頃、エジプトやメソポタミアのガラス製品となり、紀元前1500年頃にはガラス容器となった。西暦1年頃にはローマでガラス窓となる。
 私たちはいわゆる「原始人」と呼ばれる人々を舐めているが、彼らは非常に観察力が高く、日常の些細な変化から新しい発見をする。そうやって私たちの文明は少しずつ積み上げる形で成立していったのだ。
 メソポタミア人は紀元前2000年頃には石油を発見し、それを兵器に利用していた。中世イスラムでは蒸留技術が発達し、石油をさらに分留する手法を編み出していた。
 中国での科学文明の発達は素晴らしいものだった。世界三大発明と呼ばれる火薬、羅針盤、活版印刷だけではなく、運河の水門、鋳鉄、掘削技術、能率的な家畜の引き具、凧、紙、磁器、船尾舵、猫車……。発明品でも思想面でも中国はどの地域よりも秀でていた。
 しかし中国には支配者が変わると、その前の支配者にまつわる文化を片っ端から破壊する……という因習があった。この因習のために、15世紀頃までは間違いなく世界最大の文明国だったはずなのに、その地位を放棄してしまう。
 その成果を受け取ったのがヨーロッパである。
 こうして見るとわかるが、15世紀以前、ヨーロッパ発で発明されたもの……というものはほとんどない。農耕、文字も伝わってきたものだし、それ以外のありとあらゆる文化、技術、知識はヨーロッパの外で生み出されたものだった。ヨーロッパはずっと後進国だった。
 だがヨーロッパ周辺の文明はことごとく滅んでいくこととなる。高度な文明を築いたメソポタミア文明が滅び、ギリシア文明も滅んだ。その後に勃興したローマ帝国はヨーロッパ全土を支配し、開拓し、文明化し、そして滅んだ。

ビザンツ芸術

 絵画・芸術という面を見ても、ヨーロッパは後進国だった。ヨーロッパはある時期まで「ビザンツ絵画」という平面的で面白くもない絵画を作っていた。ヨーロッパでは絵画といえばお皿に描く絵のように、テンプレートのように同じようなものを描く……という習慣があった。

ルテミス像 紀元前100年頃

 ところがすでに崩壊した古代王国時代の芸術が発見される。その凄まじいまでの完成度にヨーロッパ人は衝撃を受け、芸術に対する考え方を急速に変えていく。これがルネサンス頃の話。
 芸術もヨーロッパは世界的にもっとも発達している……というふうに考えられているが、やはりもともとは後進国だった。周辺の偉大なる古代王国の成果を受け取って、ようやく発達したものだった。

ウィリアム・アドルフ・ブクロー 濡れたクピド

 モチーフも様々な地域からの引用だ。例えば、西洋的な神や天使のイメージは例外なく翼が付いている。

豊穣神イシュタル 紀元前1800~1750年

 こういった「翼を持った者」の原型イメージはメソポタミア文明に遡る。例えば豊穣神イシュタルは翼を持った姿で描かれていた。これは「天なる存在」と結びついていたからだ。古代世界において、人間の手にはどうにもならない空の問題……雨が降るか降らないか、嵐が来るかどうか、といった問題は神々の領域だった。その表現として、あるいは地上の人間との区別として翼を付けた人間が描かれていた。
 この「翼を持った者」のイメージがギリシャに伝わり、クピードー(キューピッド)、ニケ、ハルポクラテス、ニンフのイメージとなり、そこからキリスト教的なイメージとして入ってくる。
 こうしたイメージもヨーロッパ発のものではなく、周辺国から借り受けたものだった。

 私たちは「大昔の人は頭が悪かったので、地球が中心で天体が周辺を回っていたと思い込んでいた」……と考えている。これは実は正しくない。古代ギリシャの時代では、「天動説か」「地動説か」で大議論が交わされていた。
 その中でも傑出した人物がエラトステネスだ。

エラトステネス 紀元前275~194年

 エラトステネスは紀元前240年頃、地面に落ちている影がから「地球は丸い」ということに気付いた。そこからさらに2箇所の違う地点の影の差から、地球の全周を4万6000キロという推定を導き出した。実際は4万75キロだから、間違っていたが、かなりいい線をいっていたといえる。どんな時代でも、頭のいい人はとことん良かったのだ。
 しかし古代ギリシャ時代の議論では、最終的に天動説が勝利することとなる。地球からの観察では、どうして天体の一部が見えるようになったり見えなくなったりするのかが説明できなかった。当時、観察できた範囲内では天動説のほうが説得力があったからだった。
 その成果を受け取って、ヨーロッパ人たちは「天動説が絶対に正しい!」という考え方を権威化し、地動説的な考え方を非難し続けていた。
 だから「昔の人はみんな天動説を信じていた」ではなく、「ヨーロッパ人が……」が正しい。それよりさらに前の人達は、「どっちが正しいか」を深く考え、議論していた。

 ここまで見てきてわかるように、ヨーロッパは西暦1500年頃まで特に何も生み出していなかった。ヨーロッパ発と思われがちな発明品の多くは、別のところで生まれ、育てられ、最終的にヨーロッパに行き着いただけだった。ヨーロッパの幸運は地理的にそういった他の文明が生み出し、育ててきたものを引き受けやすい場所にあったことだった。
 ヨーロッパでは15世紀頃、ルネサンスと呼ばれる時代に入り、先進的な文化に目覚めるわけだが、その頃というのはちょうど、ヨーロッパ以外の周辺地域の文明が衰退し始める頃だった。ローマ帝国は崩壊し、その後を引き継いだ神聖ローマ帝国もゆっくりフェードアウトしていった。その当時最大の文明国家だった中国は明朝時代になぜか衰退。まるで世界の文明がヨーロッパにそれまで育ててきた文明を預けるように衰退していった。
 そのヨーロッパもルネサンスという時代を経ていきなり理性的な意識に目覚めたわけではなかった。この時代はヨーロッパ中に梅毒が広がり、「梅毒患者を熱した水銀漬けにする」というまるで効果のないトンデモない治療法が広まっていた。梅毒にかかった者はついでに水銀中毒になる……というのがこの時代だった。
 魔女狩りも始まった。1486年ハインリヒ・クラーマーによる『魔女への鉄槌』が出版され、これを切っ掛けに魔女にまつわる迷信がヨーロッパ中に広がった。魔女裁判によって意味もなく殺された女性は数万人にもなる。
 1517年、マルティン・ルターによる宗教改革が起きて、カトリックとプロテスタントに分離。以降。カトリックとプロテスタントによる骨肉の争いが始まる。また梅毒が広まっていた最中だったから、性習慣も宗教改革によって激変することとなる。
 ニコラウス・コペルニクスは1508年頃、「地動説」に気付き、発表するが、当時は誰も信じず、バッシングされる。ヨーロッパ人はその後も相変わらず「天動説」が権威だった。

 ヨーロッパの転機が西暦1500年以降というのは間違いない。この時代を転機として、ヨーロッパはようやく文明国らしい知性に目覚めることになる。が、同時進行で因習や迷信も相変わらず人々の間にはびこっていた。人々は悪魔や魔女に怯えて、意味もなく何万人という女性を殺害していた。

フランソワ・デュボワ サン・バルテルミの虐殺 1584年

 カトリックとプロテスタントの対立も始まった。1572年、フランスのカトリックがパリの広場で突如プロテスタントを虐殺する事件が起きた。『サン・バルテルミの虐殺』である。この虐殺によって3万人が殺害される。
 この報告を聞いたローマ法王は大喜びし、この事件を記念する絵画を描かせた。それが上に掲げる作品である。
 野蛮の極みである。
 ヨーロッパの宗教対立はこれで終了というわけではなく、この後も宗教戦争は続く。
 ルネサンスを経てヨーロッパはいきなり理性的な文化に目覚めたわけではない。その後もずっと荒れていた。混乱もしていた。それでもどうにかこうにかで、やっと現代の文明を作るに至るのである。

 オーストラリアの先住民アボリジニや、ニューギニアの石器人を発見したとき、ヨーロッパの学者達はみんなこの地域を目指した。いまだ石器の暮らしをしている人々を調査し、彼らと自分たちの間にどんな違いがあるのかを調べ、そのうえで「ヨーロッパ白人が世界でもっとも優れた人種である」ということを証明しようとした。
 ところが何も出てこなかった。身体的にも、脳の形質にしても、石器人と文明人との間に違いはなかった。単に生まれてきた地域で生活様式が変わっただけに過ぎなかった。
 ヨーロッパの学者は石器人が発見されたとき、彼らがどんな野蛮な生活をしているのか、調べてやろうと思っていた。野蛮人だからきっと忌まわしい因習があって、悲惨な暮らしをしているに違いない……と決めつけていた。
 ところが調査してみると、石器で暮らしている人々は思いのほか聡明で、落ち着きのある人々だった。それどころか石器人の集落は規律や統率といえるものがしっかりあった。「原始人の暮らしを調査してわかったのは、ロンドンのほうが治安が悪い」ということだった。
 原始人の暮らしより、ロンドンでの暮らしの方が酷い……という話は一つの笑い話ではあるが、その一方でヨーロッパというものの正体を語っているように思える。おそらくヨーロッパは、文明が築かれる以前から「酷かった地域」なのではないだろうか。むしろ世界でもっとも野蛮な生活をやっていたのは、ヨーロッパだったのではないか。世界のどこを探しても、ヨーロッパのように迷信と因習で意味もなく人を殺しまくった地域はなかったのではないか。だからヨーロッパからは文明が生まれず、周辺国の成果を受け取ることによって初めて文明的な暮らしができた……ということではないか。

 ヨーロッパといえば「キリスト教文化」だが、そのキリスト教ももともとはユダヤ人のものだった。ヨーロッパは宗教を取り上げ、自分のものとし、ユダヤ人迫害なんて行為をやりはじめた。そのうえで、「キリスト教を信仰する自分たちは、世界でも先進的な考え方を持っている」などと思い込み、お節介にも「周りの国は遅れているから、自分たちと同じ生活をして、自分たちと同じ考え方をするべきだ」なんて言ってくる。
(まずいって、キリスト教はお前達の本来的な文化じゃないだろう。例えば北欧にはケルトと呼ばれる人たちがいて、それがその地域に住む本来の宗教観だったはずだ。なぜヨーロッパ人はそういう文化を軽視する?)
 私にはヨーロッパ人のやっていることや考え方が「蛮族」のそれに見えるのだが……? そんな連中についていくべきだろうか?

2015年9月3日 トルコの通信社撮影

 そのヨーロッパは、いま崩壊へと進んでいる。
 2015年、ヨーロッパに逃れようとしたシリア難民の船が沈没。この沈没によって少なくとも12人が死亡。砂浜に打ち上げられた幼児の死体写真が、ヨーロッパ中に衝撃を与えた。
 2015年は移民問題の始まりの年だった。シリア、イラク、アフリカ、アフガニスタン、エリトリアといった国の人達が、自国での戦争、自然災害、迫害、病気、失業を理由にヨーロッパを目指した。しかし先進的とは言えない船で脱出しなければならず、そのうちのいくつかは辿り着くことなく沈んでしまう。そのうちの1枚が撮影され、BBCで放送され、これがヨーロッパの「人道精神」に火を点けることになる。
「移民に対する厳しい規制があったから、あんな悲劇が起きたのだ」
「国境を緩めて、移民を受け入れよう!」
「それが我々先進的な国としての在り方なんだ!」
 その結果、こうなった↓

 こちらはフランス↓

 イギリスでは移民をルワンダに移送する……という計画が持ち上がり、これに対する反対運動↓

 こういった画像はネットで検索するといくらでも出てくる。いまヨーロッパはどこに行ってもこういう有様。人道精神に基づいて移民を受け入れた結果、治安は崩壊、文化も崩壊。今ヨーロッパ旅行はとてもじゃないが危険すぎてオススメできない。イギリスではもう移民問題はどうにもならないから、移民達をルワンダに移送しよう……という話も出ている。イギリスはかつて囚人をオーストラリア開拓に送り出していたが、現代ではルワンダというわけだ。
 ご存じのように、ヨーロッパでは「環境活動家」も活発に活動している。環境活動家たちがトラックの前に座り込んで仕事を妨害したり、文化遺産を攻撃したり……という意味がまったくないことをやっている。これもヨーロッパの混乱の一つとなっている。
 こんな有様だというのに、人道主義者は(バカなのか)恐ろしいもので、「もっと難民を受け入れよう!」なんて言っている。むしろ「難民受け入れ」のデモなんかやっていたりする。

 その上に戦争だ。ウクライナーロシア間で戦争が起きて、物流の混乱が起きた。ロシア発の石油、ガスが止められて、さらにウクライナとロシアといえば小麦の輸出国だったがこれも止められた。日本も無関係ではないが、国境を接している国々は大きな影響を受けている。
 次にイスラエルーパレスチナ間でも戦争が起きた。すでに骨肉の争いとなっていて、この戦争はどうやったら終わるのかすらよくわからない。

 こうしたヨーロッパを中心に起きている混乱を見て……私は、「あ、ヨーロッパ文明終わるな」と直感した。「終わりの始まり」が始まった……ように感じた。
 といっても、数年以内にいきなり終了するとは思っていない。50年とか100年とかそれくらいの時間をかけて、じわーっとフェードアウトしていく。その段階に入ったんじゃないか……という気がする。
 もちろん、あの地域の文明が消滅し、誰も住んでいない地域になる……とも思っていない(ローマ帝国は滅んだけど、イタリアという国は普通に今もあるし)。おそらくはイラクやクェートのように、何も生産がない、ただ混乱だけがある……という地域に変わっていくのではないか。
 ヨーロッパはもともとはろくな文明もないような蛮族の地だった。それが地理的な幸運があったため、たまたま世界の先進国になれた。ヨーロッパ白人が優秀だったわけではなく、ただ運が良かっただけ。しかし数百年にわたるヨーロッパのボーナスタイムは終了した。あとはどんなふうにヨーロッパ文明が衰退し、かつて偉大な文明があったね……と言われるようになるか。その経過を見ていくフェーズに入っていくのではないだろうか。

つづく


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