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映画感想 コーダ あいのうた

 耳が聞こえなくても、聞こえるもの。

 2021年のアメリカ映画『CODA あいのうた』は、2014年のフランス映画『エール!』のリメイク作品だ。オリジナル版は農場であるのに対し、『コーダ あいのうた』は漁場が舞台となっている。ストーリーの大枠は一緒だけど、描かれているものは大きく異なる作品となっている。タイトルになっている「Coda」は「聴覚障害を親に持つ子供」という意味。
 2014年の『エール!』は批評的にも興行的にも大成功し、プロデューサーの一人であるフィリップ・ルスレが自らリメイク権を獲得し、アメリカへと売り込みにいった。間もなくシアン・ヘダー監督にリメイクのオファーがいくことになる。
 シアン・ヘダー監督は2006年の短編映画『Mother』の監督と脚本を務め、アメリカン・フィルム・インスティチュートのDWW(女性のための監督ワークショップ)のフェローシップに選ばれた8人の1人となった。その後、2016年の『タルーラ~彼女たちの事情~』で長編映画デビューし、本作が2作目となる。
 映画の舞台がマサチューセッツ州グロスターに選ばれた理由は、ヘダー監督が幼少期に訪れたことがあって馴染みがあったからだそう。主人公一家が住んでいる家は、街に実際にあった一般住宅を借りて撮影された。
 本作はサンダンス映画祭で初上映されたが、そこで大絶賛され、監督賞、オーディエンス賞、審査員賞、審査員特別賞を受賞。Appleは本作の配給権を史上最高額で落札した。その後も各所で大ヒット、称賛され、2022年の第94回アカデミー賞では作品賞、脚色賞、助演男優賞を受賞。本作で受賞したトロフィーの数は、Wikipediaで別ページが作られるほどに多いので、ここでは省略する。
 日本ではその後の2022年劇場公開されたが、当初は200館でスタートする予定だったが、アカデミー賞の結果を受け、さらに口コミ評価が広まり、最終的に300館以上で公開された。
 映画批評集積サイトRotten tomatoでは297件のレビューがあり、肯定評価は94%。オーディエンススコアは91%。世界中で大絶賛される名作映画となった。

 それでは前半のストーリーを見ていこう。


 ルビー・ロッシは高校生の女の子だけど、毎朝海に出て家業である漁業の手伝いをやっていた。
 高校ではルビーは浮いた存在……。早朝から海に出て働いているから、昼の授業は眠たい。仕事に出てそのままの格好で学校へ行くから、同じクラスの子から「魚臭い」とからかわれる。それに、やはり親がろう者だから……そのことで馬鹿にしてくるクラスメイトもいた。
 そんなある日。学校で部活動を選択する日がやってきた。どの部活にしようか。やっぱり楽な部活がいいよね……と友人と話し合っていたルビーだったが、気になっている男の子が合唱部を選択するのを見て、自分も合唱部を選ぶ。
「合唱部? 本気なの?」
 友人はルビーの行動に驚く。なぜならルビーはろう者を親に持つから、入学当時は「話し方がヘン」と笑われたことがある。そんな彼女が歌なんて……。
 間もなく合唱部の部活動が始まる。担当顧問はベルナルド・ヴィラロボスというちょっと怖い先生。
「座れとは言ってないぞ。立つんだ。ほら立って。早くしろ。みんな壁際に移動しろ。先週の火曜日は私の誕生日だった。ハッピーバースデーを歌って祝福してくれ。君からだ」
 一人一人前に出て歌う……ということになった。ベルナルド先生は一人一人の歌を聴きながら、アルト、ソプラノと選り分けていく。
 やがてルビーの番が回ってきたけれど……。ルビーは“耳が聞こえる”人の前で歌ったことがない。その場の空気に耐えきれず、ルビーはそのまま逃げ出してしまう。
 次の部活動の時でも、ルビーは後ろでひっそりと歌っていた。しかしベルナルド先生がルビーを指して「前に出ろ。歌って!」と指示を出す。
 言われたとおり前に出てくるけど、ルビーは恥ずかしくて歌えない。
「違う! 呼吸がなっていない。腹に息を溜めろ。小型犬と大型犬の練習をしたろ。小型犬! やるんだ! 息を押し出せ! 恥ずかしいのか? 全員で小型犬と大型犬をやるぞ! 息を吐け! 呼吸だ! 押し出せ! よし、歌ってみろ!」
 言われたとおり歌い始めると、ルビーは自分でも思いがけないくらいの声が出る。合唱部の一同もルビーの発声に驚きの顔を浮かべる。
「いいぞ。砂と糊じゃない」
 こうしてルビーは最初のハードルを乗り越えたのだった。


 ここまでで25分、だいたいAパートの終わり。気になっていた男の子についていって合唱部に入ったけれども、ルビーは“耳が聞こえる”人の前で歌ったことがない。人前で歌うのが恥ずかしい……。それが歌えるようになる、というルビーにとって最初のハードルを乗り越えるまでが描かれている。

 内容を詳しく見ていきましょう。

 家業である漁業に朝から勤めている主人公ルビー・ロッシ。
「胸から溢れ出る想い。こんな気持ちは始めてよ。今すぐあなたに伝えたい。心を捉えて離さない」
 ……と歌っている。この場面ではルビーは「自分の感情を声にして誰かに届けたい」と歌っている。これがルビーの最初の心境。
 主演ルビーを演じたのはエミリア・ジョーンズ。両親はどちらも歌手という超サラブレッド。映画出演は8歳の時で、出演作は『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』。現在21歳だが、すでに結構な本数で映画出演のキャリアを積んでいる。ジョーンズはすでに歌手だったのだけど、撮影前に9ヶ月間もボイスレッスンを積み、アメリカ手話(ASL)を習得した。授業中で居眠りしている場面で、起こされてとっさに手話で反応する……という場面がある。手話がしっかり染みついている印象が出ている。

 父親のフランク・ロッシ。演じたトロイ・コッツァーは本当に耳が聞こえないろう者俳優。本作の出演でアカデミー賞助演賞を受賞した。
 実は映画制作にあたり、本当の聴覚障害者を使うかどうかに一悶着があった。映画の出資者が聴覚障害者を起用することに難色を示していた。本当の聴覚障害者を採用すると、一般観客は「そういう人向けの映画だ」とこの作品を避けるのではないか……。しかし監督とすでにキャスティングが決まっていた母親役マーリー・マトリンは「聴覚障害者を起用しなければ降板する!」と抵抗。それでようやく出資者達に認めさせた……という経緯がある。こういうところでも“健常者による無自覚な差別”があった。
 この場面についてだけど、本作では結構あけすけに性の話をする。これが実際の障害を持つ人たちに響いたポイントで、映画やドラマに障害者が登場する時、批判を恐れてあたかも“去勢”されたかのような聖人君子として描かれる場合が多い。しかし実際には障害を持っていてもクソはするし、暴言は吐くし、セックスもする。それは当たり前の話。映画やドラマの中でそういった部分はオミットして描かれるので、障害を持つ人からすると、なにか自分からそういう属性が排除されてしまったかのように感じる。“人間味”を感じない。それがある種の“差別”というふうに感じられるのだ、という。
 あえて触れないようにしよう……という、それはそれで一つの差別だ。というのが健常者たちの“無自覚の差別”。こういった映画に本当の聴覚障害者を使うのはやめておこう……というのと同じように、健常者達による無自覚な差別……というものがたくさんある。
 この映画ではそういうところを積極的に取り上げて、肯定的に描いた……ということで評価されている。

 もう一人紹介したい俳優は、ルビーの兄、レオ・ロッシ役を演じたダニエル・デュラント。ダニエル・デュラント自身はろう者ではないが、両親がろう者でまさに「CODA」だった。そうした経緯もあって、最初から手話の心得があった。映画出演はほとんどなく、テレビや舞台を中心とする俳優だったが、2015年のミュージカル『春の目覚め』が監督の目にとまり、本作に起用となった。
 この場面では漁業仲間達の話に付いていこうと、喋っている人たちの口の動きやジェスチャーを一生懸命読み取ろうと緊張している場面。ろう者が健常者コミュニティに加わる苦労が描かれている。

 家族で食事を摂る時は、こんなふうにサンルーム……かな? みたいな場所に集まってくる。なかなか雰囲気がいい。実際にある一般住宅を借りて撮影したらしい。生活観が感じられるのは美術スタッフの努力の結果……というよりはもともの住人達の生活観が反映されているから。

 ベルナルド・ヴィラロボス先生の授業風景。ベルナルド先生は主張が強い人で、ちょっと怖い雰囲気はあるのだが、指導の腕は確か。指導というか、ちょっとカウンセリング的なところがある。やや強引に感じるところがあるものの、ルビーの素質をうまく引き出している。指導のやり方に無理矢理感がでていないところで、芝居の上手さが出ている。

 やがてベルナルド先生はルビーの歌の才能に気付き、「音大に行かないか」と誘う。
 しかし家族はルビーが音楽大学へ行くことに消極的。なぜなら家族は全員生まれつき聴覚障害だから、音楽なるものを聞いたことがない。娘が「大学に行って音楽を習いたい」と言っても、「どういうこと?」となる。
 果たしてルビーは音楽の道に進むことに、家族の同意が得られるのか……がルビー自身に課せられた課題となる。

 もう一つの問題は、「水産資源保護」で漁獲制限が課せられている……ということ。この漁獲制限に違反している者はいないか、船に海上監視員を乗せろ……という。その監視員を乗せるためのお金は、船の持ち主が払え、と。その値段が1日800ドル。一日の稼ぎよりも高い。理不尽じゃないか?
 それに「科学者の意見」と、実際に船に出て漁業をやっている人々の肌感覚も違う。科学者は「魚の獲りすぎで漁業資源の枯渇しかけている!」というが、毎日海に出ている側の肌感覚ではそんな気配は感じない。漁獲量が少ない年があっても、それは魚が別の海域や深いところに潜り込んでいるだけだ。なにより漁獲制限なんかしたら、廃業する人が出てしまう。
 この科学者と漁師の対立は実際に起きている問題で、この意見対立はなかなか埋まる気配はない。

 やがてロッシ一家を中心に、自分たちで組合を作って自分で魚を売ろう! ……ということになる。
 するとルビーもこの活動に参加することになる。なぜならルビーがいなければ家族はまわりの人の話を聞くこともできないし、意思を伝えることもできないから。

 これが原因でベルナルド先生との関係は次第に悪くなっている。
 ベルナルド先生はルビーに個人レッスンをしてくれているのだが、しかし家業のほうが忙しくなり、次第に個人レッスンに遅刻するようになる。
「やる気がないなら帰れ! 私の時間を1秒でも無駄にするな!」
 厳しく聞こえるが、これくらいきっちりしていないと音楽大学で生きていけないぞ……という指導でもある。将来苦労するから、今から時間はきっちり守れるようになれ、とベルナルド先生は言っている。音楽に限らず、仕事での遅刻は厳禁。ベルナルド先生の言い分は正しい。しかし家族の問題を抱えているから、ルビーはベルナルド先生の指導通りにできなくなっていく。

 間もなく一家に“問題”が起きてしまう。漁獲制限を守っているかどうか監視員を船に乗せたわけだが、その監視員がロッシ一家全員が「耳が聞こえない」ことに気付くと沿岸警備隊に通報してしまう。
 罰金が課せられ、さらに耳が聞こえる者を乗せないと、今後は漁に出てはならん……というお達しを受けてしまう。“廃業”の危機だ。

 家族の中で耳が聞こえるのはルビーだけ。耳が聞こえる人を雇えるだけの財力は一家にない。さあ、どうする?
 私が「強いエンタメ」と呼んでいる作品の条件に、見る側に「これ、どうするんだ?」と思わせるというものがある。この作品の場合はルビーは音楽の道に進みたい。しかし家族のために断念しなければならない……という状況が突き付けられている。
 あれ? ルビー詰んでない? 見る側に「この先、どうなるんだろう?」と不安にさせ、かつその状況に感情移入できるように誘導ができている……こういう状況を提示できるエンタメ作品は強い。ここでいかに解法を示せるかで極上のドラマを作り上げることが可能で、これができた作品はたいてい名作になる。
 さて本作はこの状況をどのように解決していくのか……。ここからは是非本編を見てほしい。

 ここまでが本編解説。ここから感想文に入っていく。

 この作品の第1の物語が主人公ルビーの物語。ロッシ一家は全員耳が聞こえず、そのなかでルビーだけが耳が聞こえる。すると家族はルビーに頼らざるを得ないし、ルビーも家族のためになんとかしなくちゃ……となる。お互いに依存し合っている関係だ。そこに、ルビーには音楽の才能があることが判明する。ルビーは自己実現のために音楽の道に進みたい。しかしそうすると家族は見捨てる……ということになる。
 さあどうする……というのがこのドラマの核。
 第2の物語がロッシ一家の自立の物語。映画を観ていると気付くのだけど、ロッシ一家は基本的にまわりの人たちとあまり関わろうとしていない。大人になると、高校生がするようなわかりやすい差別はしなくなるけれども、なんとなく「関わるのはよそう」と避けるようになる。ロッシ一家の中でもお父さんのフランクはいつも1人でいる。フランクもまわりの人とのコミュニケーションをいつも避けている。周囲も避けているし、自分も避けている……これが聴覚障害を抱えている人の現状だ。見えない差別がそこに存在する。

 その一方で、お兄さんのレオは周りの人たちと接点を取ろうとする。漁師仲間と飲みに行く場面があるのだけど……しかしまわりが何を言っているのかわからない。みんなが笑っている、自分も笑わなくちゃ。常に口の動きに気を遣い、何気ないジェスチャーを見逃さないようにしなくちゃ……としている。大変そうだ。
 で、映画をよくよく観ていると、相手が耳が聞こえないと思ってわりと酷いこと言っていたりする。「フリーク(怪物)」とか言ってるし(日本語吹き替えではマイルドな表現になっている)。レオはなんとなくでも差別されることを察知して、攻撃する。
 そんなレオがまわりと関わろうと何をしているか……というと出会い系サイト。いつも出会い系サイトで女の子をチェックしている。一見すると「女好きな人がしそうな行動」……のようにも思えるのだけど、しかしサイトでチェックしているだけで、レオは実際に女の子には会っていない……というのが悲しい話。それでもこれは社会と接点を持とうという意欲を持っているだ、という意思表示でもある。そこでなんで出会い系サイトなのか――若い男の子なんだから、性欲を根拠に行動したっていいでしょ。

 そんな時に、漁獲制限に反対して自分たちで組合を作ろう! ……という話になる。その中心となるのはロッシ一家だ。ロッシ一家にとってはじめて「自立」の切っ掛けが生まれる瞬間だ。

 第3の物語が、忘れがちだけど、ルビーはもともと気になっている男の子についていって合唱部に入った。その恋の行方は?
 これ、途中でオチがわかってしまう。というのもルビーは圧倒的に歌が上手いのだけど、男の子のほうはイマイチ……(合唱部の人々はみんなそこそこ以上に歌が上手いのだけど、この男の子は……)。明らかに釣り合いが取れてない。
 成長していくためには、ルビーは一度故郷にあるものをぜんぶ捨てなければならない。それを描いている。

 この物語はルビーと一家がそれぞれ自立していく物語だ。お互いがお互いの関係をいかにして諦めるか……。ロッシ一家という揺るぎない結束があるわけだけど、そこからの別離・独立ができるか。ルビーという女の子の青春物語、というテーマは伝わりやすいけど、その裏に耳が聞こえないロッシ一家の自立物語というテーマが描かれている。
 ここで問題になるのは、ルビー以外は全員耳が聞こえないということ。「ルビーには歌の才能がある」……という話を聞いた時、ロッシ一家は「どういうことだ?」となってしまっている。そもそも音楽を聴いたことがないのだから、音楽の才能なんて言われてもよくわからない。母親ジャッキーは「下手だったらどうしよう」と心配している。それくらいに信じてない。娘の歌声を聴くことができないのに、どうやったらルビーの才能を信じられるか……がドラマ的な核となっている。
 これが後半のドラマ的なクライマックスになっているが、ここがなかなか凄い。ロッシ一家が合唱部のコンサートにやってくるシーンがあるのだが、ルビーが歌い始めた途端、両親の視点に切り替わる。まったくの無音。娘が舞台の上で何をしているのかもわからない。耳が聞こえない人はそういう世界観なのだ、ということを示している。それで、娘の歌の良し悪しはわからないから、まわりをちらちら見る……ということになる。

 感想文の途中でも書いたけれども、私が「強いエンタメの条件」と呼ぶ作品というものは、見る側に「この先どうなるんだろう?」と不安にさせる作品のことだ。そういう気持ちにさせるには、まずその物語中の登場人物に高いハードルが設定されていること。この作品の場合は、ルビーは歌の才能があってその道に進みたい、しかし家族は耳が聞こえず、ルビーの才能を信じてくれない。それだけではなく、「耳が聞こえる者を船に乗せないと、今後漁に出てはならん」というお達しまで出されてしまう。ルビーは家族のために歌の才能を諦めなければならない。家族も生活していくためにルビーを必要としている。この時点で「あ、詰んだな」という状況になっている。
 もちろんこれだけで名作にはならない。強いエンタメの条件その2が、「感情移入」できること。登場人物達の気持ちが伝わって、「同情する」という感情になっていること。
 この両方が満たされているから、『コーダ あいのうた』は名作と呼べるだけの条件を得ていると言える。

 この作品が評価されたもう一つのポイントは、聴覚障害者の「性」をきちんと描いたこと。この作品ではかなりあけすけにセックスの話題をしている。これが実際の聴覚障害者の人たちに響いた要素。映画やドラマでは、障害者を描くとき、批判を恐れて極端な聖人君子に描かれがちだ。それが障害者から見ると「去勢されている」と映ってしまう。「自分たちとは関係ない」という気分になるそうだ。
 障害者達だって普通に性欲はあるし、セックスはしたい。でも世間では言葉にしないが――「障害者なんだからセックスは諦めろ」……障害者たちはそう言われているような気がする。事実として、障害者たちはたいてセックスの対象外にされている。それがどうしても社会から疎外されている感じがする……という。最近は聴覚障害者や視覚障害者に対し、そこまで露骨な差別はないけれども、実際には“障害者を恋愛の対象外にする”という差別をやっている(というか「障害者の話題もするな!」という差別もやっている)。
 それで、レオは熱心に出会い系サイトをチェックしている。これもレオが社会に関わろうという意思を持っているため。ただ、実際の女の子には会ってない……というのが悲しい事実だけど。
 この映画ではあまりにもあけすけにセックスの話題をするので驚くけれども、そういう背景があるから、あえてセックスを話題にしている。まあ露骨すぎるんでビックリするけども。

 ただ一個だけこの作品にも難点があって……というのもカメラが美しくない。一つ一つのシーンが印象に残らないんだ。
 シナリオ良し、テーマ良し、演技良し、ロケーション良し……それぞれが100点のできなのだけど、決定的な弱点がカメラ。画面が美しくないから、いいシーンなのに世界観に入り込んでいけない。その世界観を信じることができない。
 シナリオ100点、演技100点、ロケーション100点……それくらいのクオリティは出ているのだけど、ただ一つ、映像の弱さがマイナス点。

 さて、最後のシーン。主人公ルビーは家族に向けて、あるハンドサインを送っている。この作品の手話はほとんど字幕でフォローされているのに、この場面だけは説明がない。
 答えを言うと、「I really love you」。
 この場面は、「答えを知って見るんじゃなくて、感じて」という場面なので、こうやって答えを描くのは野暮ってやつだけど。それに、この作品はロッシ一家は耳が聞こえない、人の声が聞こえない……という物語で、最後のシーンはあえて逆をやっている。私たちはロッシ一家の手話がわからない。それがロッシ一家の気持ちだ……と。わからない状態で「なんだろう?」と考えながら見るのが正解。だからここで答えを書くのはやっぱり野暮。まあ、書いちゃうけどね。


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