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老老介護

母が歳を取った。90代半ば、相応に機能が弱る。目が、耳が、咀嚼が、運動機能が落ちてくる。
人間は生物で寿命があり、普通のこと。

歴史上どんな権力者も永遠の生命は得られなかった。脳や遺伝子を保管して、将来科学が発展する時を待つという話も聞くが、そこまでして生き続けたいという意志は何なのか。

人はそもそも生まれたいという意志を持って生まれてくるのか?生まれる前から競争を勝ち抜いて生まれてきたという。

この世に生を受けた後も真実は知らされない。
意識が明瞭で真実を見つめ、理を解する人も中にはいるのかもしれない。宗教のなかに答えが示されていると信じる人もいる。
凡夫の私には年齢を重ねてもいつまでたっても理を詳らかにするのは難しいし、ますます闇の中に沈む感覚がある。
訳がわからず生まれて、生きて、そして死ぬのかと思うと人生っていったいなんだろう?と少し考えるようになる。

自然災害で亡くなる人はきっと無念だったはずだ、と生きている者は思う。死ぬ瞬間、死ぬことを認識しただろうか。想像してもほんとうに残酷だ。
しかし死に違いはない。どんな死も死は死である。

まだ考えることが可能なうちに、生と死を自分なりに深く考えておきたいと思う。わからなくても考え続ける。

母が歳を取っていく。あんなに元気で活発だった人が。若いころは美しかったと思う。

女性は外見の老化を受け入れるのが男性よりももっと辛い。母は受け入れていないように見える。
体調如何に関わらず旺盛な食欲がある。
高齢者は「タンパク質が好きで食欲がある人」が長生きするらしい。


終わりが近づいたとしても、人がいつまで生きるのか本人にも誰にもわからない。
家族も本人も淡々と過ごすことになっている。
そのときが近いのか遠いのかも不明だが、いつか確実にやってくる。

よりよく、本人らしく過ごせるようにしてあげたいと家族は願う。しかし24時間寄り添うことは現実的に無理、夜間の1時間おきの付き添いができなくなってきた。
お年寄りに、自分でできることは時間をかけても自分でしてもらう。本人の能力を削がないよう努めてきたが。
高齢者はだんだんと感情のコントロールが難しくなり、悪態が口から出て、親身に介護している家族のやる気をなくさせる。つらくなる。きれいごとでは済まないこともたくさん出てくる。いよいよ公的援助を検討する段階に入ってきた。

公的サービスを受けるにあたって本人にも同意し協力してもらわないと難しい。なかなか難しい。高齢者は変化を極端に嫌がる。

私にできるのは、家族のために祈り、援け、母を観察して見つめること。この体験から何かを学ぶこと。冷静になること。

猫の話。
かつて暮らしたねこたち、死ぬときに教えてくれたことがいっぱいあった。
彼らはどんなに苦しくてもそのときそのときを精一杯生きていた。苦しいから早く死なせてとは言わない。僕が死んだらああしてこうして、お墓はどこへ、などと一切言わない。つらいよつらいよと鳴かない。しかし私の心にどれだけ多くのものを残してくれたか。動物たちは全く潔い。

人間がもし動物以下でないのなら、生と死を落ち着いて見つめていきたいし、受け入れていこうと思う。

自分も若いとはいえない。
そのうえ家族が年老いていくことに混乱している。
体は動かないし白髪も皺も増えたけど、私は今がいちばん楽しい。
若いときは若いときの苦しさがいっぱいあったもの。歳を取ることは大変だけど、いいこともある。

母のことを考えると気持ちが乱れるが、母のためにできることをして、自分も今を精一杯生きたいと思う。

今日もすてきな時間をお過ごしください。
地球と宇宙にありがとうございます。

震災で被災された皆さまが、
1日も早く元の生活に戻れますように
お祈りいたします。

Have a nice time.
Take it easy❤️

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