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大河「いだてん」の分析【第34話の感想】 これは“国民目線”から見た二二六事件だ。

いだてんの全話感想ブログです、今回は第34話『226』の感想を書きました。

※他の回の感想分析はこちら↓

〜あらすじ〜
1936年2月。陸軍の青年将校らによるクーデター、二・二六事件が発生。閣僚らが暗殺され、田畑政治(阿部サダヲ)の勤める新聞社も襲撃を受ける。戒厳令下の東京でオリンピック招致活動を続けることに田畑は葛藤。嘉納治五郎(役所広司)とも対立するが、IOC会長の候補地視察の案内役を任せられる。熊本では金栗四三(中村勘九郎)がスヤ(綾瀬はるか)と幾江(大竹しのぶ)を前に、招致に協力するため上京したいと訴えるが──。

第34話は、前半と後半、大きくふたつの出来事から構成されている。
サブタイトルに『226』とある通り、ひとつは二二六事件である。もうひとつはIOC会長ラトゥールの来日。
このブログではそのうち、前半の「二二六事件」にフォーカスを当て、その“シナリオ構造の技巧性”について分析してみたいと思う。

1、シナリオ構造のベースとなる“4つの視点”

はじめのオープニング曲がかかるまでの開始10分間のあいだに、短く小刻みに“4つのシーン”が描かれた。いずれも2月26日の出来事である。
それがどういうシーンだったかまず復習しよう。

まず、1シーン目。
1936年2月26日、午前5時。赤坂にある田畑邸。

第34話がはじまってすぐのファーストカットが何だったかを録画を見直さずに答えられる人は少ないだろう。
それはまだ陽ものぼらぬ真っ暗闇の夜明け前。
田畑の妻、菊枝がベルギー国旗の手旗を夜な夜な制作している様子から始まる。 (その後の物語を一度見ないと何を作ってるのか初見ではわかりにくい)
それと、その背後のほうで、自宅ソファに寝そべり寝息をたてている“田畑政治”が映される。何か書き仕事でもしていたらそのままつい寝てしまった様子で。

2シーン目。
同日、同時刻。熊本。

家族が寝静まった玄関先で、これから夜逃げをしようとしている“金栗四三”が息を殺している。
「お義母さん、スヤ、許してくれ」。
書き置きを残して静かに外へ出て行く四三。

3シーン目。
同日、同時刻。浅草方面。

引っ越しの支度をしている“志ん生”一家。
雪がしんしんと降り積もるなか、夜な夜な支度を済ませて、どうにか朝に準備が間に合い、運送屋が来るのを家の前で待っている志ん生。子供達が雪の中ではしゃいでいる。

そして4シーン目。
同日、同時刻。再び、赤坂。

ここでアナウンスが初めてはいる。
「午前5時、雪道を踏み鳴らす軍靴の音が赤坂表町へ向かっておりました。」と。
隊列の軍靴が鳴らす不吉な音。
そして高橋是清邸に立ち入る将校たち。
「天誅!」の声。そして銃声。

ここでオープニングタイトルが挟まれる──。

これが4つのシーンである。
この4つのシーンは、“4つの視点”から構成されている事がわかる。
田畑の視点、四三の視点、志ん生の視点、それと事件の視点。
つまり、3人の主人公たちと、二二六。

第34話はこのあとも繰り返しこの“4つの視点”が切り替わりながら、物語は進む。
その構造をあらかじめ暗示するように、オープニングタイトルまでの短い時間でこの“4つの視点”が象徴的に提示されたわけである。

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2、“市井の人々”から見た二二六

それぞれの視点について、続きを見てみよう。

午前6時半、朝日新聞社。田畑の視点。
慌ただしい。
「号外を出すぞ、いつでも刷れるようにしてくれ」と話す緒方竹虎の声。
何かが起こったことがわかるが四方八方に当たりにいかせているが、まだ正しい情報が集まってこない。警視庁も占拠され近づけないようだ。
そこに速報が届き「岡田首相がやられたらしい」という第一報。ざわめきたつ新聞社内。
同時に内務省から「一切の記事を差し止めろ」との直電もはいる。
何かが起こっている。

午前7時、熊本。四三の視点。
美川君のカフェに立てこもる四三。
駅に着くと駅長が「暴動が起きて東京は大混乱」と言ったという。「だから今日の家出は中止。今行ってもかえって迷惑がかかるけん」
美川が笑いながら返す。「まったく意気地がないなぁー金栗氏は。それが本当ならラジオで言うはずだろ?」
つまりまだラジオには事件の報道は流れていない。

午前8時、浅草方面。志ん生の視点。
志ん生家族の下に、引っ越しを頼んでいた業者の車がやっと到着する。
「遅えじゃねぇか!こっちは昼からラジオなんだ、雪のせえかい?」
「旦那、ご存知ねえんすか、兵隊が武装してクーデターってのをやっていて、大変ですよ」
これは有名な逸話で史実だが、志ん生は二二六事件の勃発を“遅刻してきた運送屋から聞いた”と書き残している。
何かが起こっている。

そして午前8時55分頃、再び朝日新聞本社。
田畑の視点。

号外の準備を進めて情報整理をしている新聞社内に、突然、反乱軍が突入してくる──。

※※※

“4つの視点”のうち、すっかり4つ目の“事件の視点”が無くなり、3人の主人公たちの姿が代わる代わる描かれるが、困惑しているばかりである。事件の中心がまったく見えないのだ。

仮に、大河ドラマの舞台が戦国時代だった場合、主人公の多くは戦国武将で、戦況における中心人物である。戦がどう転ぶか、和平交渉がどう進みそうか、主人公の視点とともに視聴者も追う。戦の状況が見えないなんてことは、ない。

しかしどうやら、いだてんはそうではない。
オリンピックにおいては中心的存在である主人公たちであるが、日本近代史の大きなうねりの中では、まぎれもない“市井の人々”である事件や事変の“外側にいる人”なのである。
強いて挙げると田畑は新聞記者なので一般人よりは政界財界軍隊の情報から近いと言えるが、それでも所詮は一般人。
「何かが起こっている事はわかっても、何が起こっているのかはわからない」し、その“大きなうねり”に抵抗する術なく翻弄されるがままである。

“中心ではなく外側からの視点”。
ここには、いだてんの“大河としての挑戦的な試み”があると思う。

我々視聴者は、二二六事件の概況を知識としては知ってはいるが、同時代の民間人から見た時に、これほど得体の知れない恐怖感を与えていたとは体感できていなかったはずだ。
歴史の教科書にたった1行で書かれた出来事の裏側にも、いつも市井の市民がいることを考えさせられる。想像力が問われる。

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3、“事件の外側”にいる主人公たち

政府から報道規制がかけられ続け、第一報が流れたのは、事件発生から15時間後の午後8時半だったという。ラジオ放送で全国一斉に「臨時ニュース」が流される。初めて国民に“何が起こっているのか”が、やっとほんの少し説明される。

その頃、3人の主人公たちの人生も交錯する。

午後5時半、志ん生、ラジオ放送局。
志ん生が高座の出待ち準備をしているが、いつになっても開始されない。プロデューサーが声をあげる「演芸は今日は中止!お開きお開き!」臨時放送の解禁が決まった事がうかがえる。

午後8時半、四三、熊本。
四三が立て篭もりから家に帰ると、ラジオを食い入るように聴く家族の姿。四三が戻ってもまるで相手にもしてくれない。

同日同時刻頃、田畑、赤坂。
反乱軍に頭を殴られてから自宅で眠り続けている田畑。
その後ろのほうでラジオの臨時放送が聴こえている──。

※※※

まったく外側にいる主人公たち。

それと、よく考えると今回のいだてんでは、二二六事件とは、誰の首謀で、どんな目的で、どんな結末を迎えたのか、歴史的な具体的史実説明はほぼされなかった。この情報量の少なさはまさしく3人の主人公との共通項だ。

そんなことよりも、その時、多くの国民たちは、“どういう種類の怖さを感じていたのか”“町はどういう雰囲気だったのか”“暮らしにはどんな影響があったのか”、
事件の中心点よりも“その外側にいる国民たち”にフォーカスが当てられていたように思う。

庶民である国民たちが、主人公である。

それはとても、いだてんらしい、と思う。

いだてんは大河ドラマであるのと同時に、オリンピック噺だ。
“オリンピックの主人公”は、政治でも、戦争でもなく、“国民による国民のためのお祭り”でしかないのである。

(おわり)
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