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“信じる者は救われる”を信じる人が救われる

少し前に、わたしの好きなスピリチュアルヒーラーさんが言っていた。

「ワークに来た人の中で、言われたことを素直に実行できない人は何も得られない」

その“ワーク”というものは具体的には何かはわからないけれど、何にでも当てはめられる。
何かメンタル面で改善したいと思ってカウンセラーさんの所へ行って、どうしたらいいか具体的に教えてもらったのに「何でそんなことしないといけないんですか?」「効果はどれくらいありますか?」なんて疑ってばかりで実行に移せない人は、結局いつまで経ってもそのまま、またはもっと悲惨な状態になるであろう。

わたしの友人にも、とにかく医者にだけは行くものの「治るなら(治療を)やるけど、実際どのくらい効果があるのか」と一生唱えている男がいた。
それはやってみないとわからないし保証なんてない、そもそも自分が自分を変えようとしないくせに(生活習慣のせいなのに)全部人頼みだし、そもそも信頼もしていないじゃんと、側から見てそう思っていた。


昨晩、彼と話していた時に、ちょっと似た感じの事を言っていた。
何か起こった時に、それをどう捉えるかで人生って全然違うものになる。それを、「たまたま起こった」のか「運命」と捉えるかでも意味が全然違う。

わたしが必要としていた特殊な形のドライバーを、彼がその後たまたまクリスマスパーティーのプレゼントでもらった時「運命だ!」と思ったそう。

それを、「何でこんなものプレゼントに選ぶんだよぉ!」と面白くするのもよし、運命とするも良し、「いらないし」と思うも良し。

もちろん、全部を全部そう捉える必要はないけれど、その感情を持つことでの豊さや感謝や希望を持てるという意味での「心持ち」が全然変わってくる。


少し話はズレるけれど、もう一歩踏み込んで、
このような自分が「運命」と感じた出来事を誰かに話したとして
「そんなの偶然だよ」と、(口には出さないが馬鹿な事言ってんじゃねーよ風に)言う人、いますよね。その人達も、捉え方が素直ではないですよね。

↑こちらにも書いた、病気になった人に対して「悪い事をしたからだ」と言ったわたしの友人もそう。
カルマを信じていて、悪い方にばかり目を向けているタイプかも。


だから、奇跡とか運命とかは、疑わずに、且つ自分を信じていないとまず訪れない。

彼に↑この話をしたら、
(異国の地で出会った日本人同士でした会話で、「また会いましょうね」と言ったけど、連絡先も交換してないし、会えないのは分かっているけど、その意味は「他の日本人でもよくしましょうね」という恩送りで捉えている)

「いや、会えるんじゃない?」と。

彼は、わたしの一歩も二歩も先を歩いているというか、人と人との繋がりに信念を持っているし、スピリチュアルとかそういう言葉は使わないけれど、わたしのエンパスがかった感覚も分かってくれるし、普通にそっちの人とも会話ができると思う。

引きも強いし、第六感も本人が気づいていないだけでめっちゃ働いているんだと思う。それなりの経験もしているので余計に本人の良い意味での“思い込み“が更に良いものを惹きつけるのかもしれない。

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