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アビダルマ的写真論


物象化

 仏教哲学はゴータマ・ブッダが説いた十二因縁に始まる。それを考究発展した体系がアビダルマである。
 アビダルマ哲学の特徴は、その記号論的性格にある。十二因縁は時間的。それはいかにして我執が生じ、苦が発生するかの心理プロセスを辿ったものだから。それに対しアビダルマ哲学は、世界と個人の構造を鮮明にする。初期仏典の一つ『自説教』にみられる、「此れ有れば彼有り、此れ生ずるが故に彼生ず。此れ無ければ彼無し、此れ滅するが故に彼滅す」の一文が導きとなる。
 上記の一文は「此縁性」の表現として知られる。事物は対を必要とする。プラスはマイナスを、陽は陰を、AはBを前提とする。つまり存在とは「関係性」それ自体であり、事物の本性は+-0、空である。現象世界とは、関係性のネットワークが顕す幻影にすぎない。これを「マーヤー」と呼ぶ。
 ところが人間は、関係性の表現にすぎない事物を実体だと思い込む。これが物象化、「フェティシズム」である。写真においても同じ。そこに写っているのはモノではない。撮影者と対象の間に結ばれた「関係」である。

明るい部屋

 写真論の古典的名著として真先に挙げられるのが、ロラン・バルトの『明るい部屋』だ。そこでバルトは「ストゥディウム」と「プンクトゥム」という対概念を提示する。平たく言えば情報価値があるものとないものの違い。プンクトゥムは、見るものの心を「刺す」。なんの変哲もないように見えて、どこかに違和感を感じさせる「ポイント」。着飾った若い頃の母親、農夫が着た一張羅の背広、家の前で撮った写真に写る、祖母の足元のおろしたての靴。そういった、点として写り込んだ「非日常性」が見る者の心を揺さぶり、現在との懸隔を自覚させる。その事態をバルトは、「それは、かつて、あった」と表現する。存在論的ノスタルジー。写真と私との間に関係が結ばれる瞬間、時間が立ち現れる。時間とは縁起である。
 アビダルマは縁起=因果法則を考究した。そこでは、時間は未来から現在、そして過去へと流れるとされる。我々は「待ち受けている」存在である。現在の自分に応じて、世界は顕現する。世界とは、自らの自らに対する関係に他ならない。写真を撮るとき、ファインダーに覗いているのは自身の内面である。シャッターを切るとき、我々は自身と関係を取り結ぶ。

複製/アウラ

 ヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』もまた、写真論の古典。そこでは「一回性のアウラ」が問題となる。写真はコピー技術である。外界をコピーし、更にイメージをコピーする。彫刻や絵画といった「一点物」の芸術作品には、オリジナルとしての神々しさ、「アウラ」が宿る。だから古来、仏像などの聖像や聖遺物は秘匿され、限られた機会に限られた人間しか目にすることができなかった。まさにフェティッシュ。複製技術はこのアウラを剥ぎ取り、芸術を政治化する、とベンヤミンは説く。事実、共産主義芸術のみならず、ファシズムにおいても資本主義においても、プロパガンダとして広告として、イメージは政治化され複製され続けている。
 複製とは反復である。それはマテリアルな作品のオリジナリティを希釈する。後にベンヤミンは写真におけるアウラを認めたが、それによってフェティッシュは弱められる。反復されたイメージは記号化され、本質としての差異があらわとなる。アウラは自分の中にあったのだ、と。何かを見て感動するのは、その素因が自身の内にあるからだ。我々は芸術作品に自身の内面を見て感動する。アウラとは自分自身の本質的崇高さへの、畏怖の気づきに他ならない。
 イメージは複製されることで「情報」と化す。それは表象である。絶景を見て「絵画のようだ」と言い、絵画を見て「本物のようだ」と讃嘆する。我々は自身の内面を投影する。アリストテレスが言うように、「人間は模倣されたものを喜ぶ」。

結び

 仏教のみならずインド哲学において、自他の区別は錯覚である。自我は存在しない。仮象である。「我」を定立するから、「世界」が立ち現れる。それは幻影である。
 世界は宇宙の表象空間であり内部表現である。我々は一つの意識の部分である。宇宙が見る夢としての現象世界。私たちがカメラのファインダーを覗くとき、自身の内面を凝視している。「それは、かつて、あった」事態は、「私は、かつて、そこにいた」でもある。それは自身が自身に対して関係を取り結ぶことに他ならない。カメラとレンズはその契機である。

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