見出し画像

恋と学問 番外編その3、安藤為章「紫家七論」の思想。

◇ 画期的な源氏物語論


紫家七論(しかしちろん)は1703年に成立した源氏物語論で、作者は契沖に師事した国学者、安藤為章(あんどうためあきら、1659-1716)です。

古典研究と言えば、一言一句について細かに解釈を加えてゆく「注釈書」のことを指した時代に、為章は、まず紫式部日記の記述から作者の人物像を探って、そこで得られた成果を物語解釈に持ち込む方法を発明します。今の言葉で言う「作家論」の方法です。あくまでも作者自身の言葉から作品の真意を汲み取ろうとした本書の登場は、儒学ないし仏教の牽強付会で歪められた旧来の解釈から源氏物語を解放した点で、源氏物語研究史における画期になりました。

紫家七論が本居宣長に与えた影響は測り知れません。紫文要領という題名からして、あえて似せているに違いなく、明らかに紫家七論への「共感と反感」を意識して付けられた名前です。どこに共感し、どこに反感を抱いたかを、ここで述べる余裕はありませんが、それは両者の議論を比べることで自然と明らかになるでしょう。

以下には、紫式部の創作意図と、源氏物語の根本主題について述べた、紫家七論の核心部分(第5章と第6章)の全文を翻訳します。それは私たちの課題(紫文要領の読解)にとって必要な作業であるだけでなく、こうした古典的名著の翻訳が存在しないことによってこうむっている、日本人の文化的な損失を多少とも補填する意義があると私は信じます。

それではどうぞ。 

◇ 翻訳:第5章 作者の意図


この物語は、もっぱら人情と世相を述べて、上中下それぞれの階級のしきたりや心くばりを描き出し、恋愛を主な題材にしつつ、それについて表だって作者の評価を下すのではなく、読者によしあしを判断させている。大まかに言えば、婦人のためにそれとなく「婦人道」を教えさとしたものと言えるが、とはいえ、男子の戒めになることも多い。

いくつか例を挙げてみよう。

桐壺帝が恋の闇路に迷って、更衣を格別に愛され、人がそしるのも憚らず、後の世まで語り草にもなりそうな御様子だったのを、上達部や殿上人などを始めとして、人々の悩みの種とさせたことは、帝王として恥ずべきことであり、紫式部はこのくだりを書くことで、後世の帝にそれとなく「帝王学」を教えさとしたのだ。光源氏を特別扱いなさって、元服の儀式をはじめ、何事においても東宮に劣らない待遇にして、あげくの果てには皇位をも取り換えたいような素振りを見せていたのも、浅ましいお心ではないか。

弘徽殿は強情な性格でとげとげしく、更衣が亡くなって帝が悲しみに暮れていても、何とも思わないような女だ。この人には后が備えるべき人徳がまるでない。女御や后などの貴婦人方よ。あなた方はこのくだりを読んで、我が身を振り返るが良い。さもなければ、弘徽殿のように悪女の汚名を負うことになるであろう。

つづく帚木の巻にある「雨夜の品定め」は、まるごと女性への訓戒であり、すべての女性に読み習わせたいくだりである。

空蝉と軒端荻が囲碁に興じるありさまや、もぬけの衣などについて「見苦しい」と書いているのは、教戒の意図が明らかなものだ。その空蝉が、心を入れ替えて光源氏との関係を断とうと思い至ったのは、すぐれて貞節な心がけと言うべきであり、そこには紫式部自身が抱く理想の女性像が反映されている。

次の巻で夕顔が愛用の扇に書き散らした歌は、色っぽすぎるきらいがある。あまりにも柔和で、おっとりとしていて、儚い感じがして、重厚な所に乏しかった性格のために、夕顔は非業の死を遂げたのだ。このくだりを読む女は、浮わついた男に騙される危険に思い至らねばならない。源氏の浮気な心の慰めによって、ひとりの女が身を滅ぼしたのである。

また、光源氏自身も堤のあたりで落馬するなど、夕顔の死に際して気が動転しているが、これは貴公子の忍び歩きを戒めたものだ。惟光がこのような忍び歩きに同行していた罪も浅くはない。貴人の側近を務める人は、このことを肝に命じなければならない。

以下の巻々もまた、注意して読むならば、登場人物の行動と心情は鏡に写したように鮮明に、その美醜をあらわにしていて、世の戒めとなるであろう。それはもとより作者の望むところであって、源氏物語は意図もなく書かれた作品ではないのである。

なかでも、光源氏が藤壺を犯して子を生ませ、その子が後に帝王となり、光源氏が補佐役を務めたことは、まことに公家が心して読むべきくだりであり、大臣をはじめとする政治家たちの肝を冷やすにちがいない、国家を揺るがす一大事である。とは言いながら、源氏物語は創作であるから、言うだけなら罪を得るわけでもあるまい。聞く人はおのずと自らを省みるのだから、むしろ訓戒の効果をあげている。ことわざに言うところの「真綿で首を絞める」の類いである。

蛍の巻にいわく、「実在した人物の身の上をありのままに述べることこそしないけれど、善にせよ悪にせよ、世にある人のありさまのなかで、見るにも飽きず聞くにも余ることどもを、後世に伝えていきたいと思うような節々を、おのれの心ひとつには留めておきがたくて、言い置き始めたのが物語の起源である」と。これは源氏物語以前に成立した古い物語について論じているだけのように見えて、実は紫式部の執筆動機を宣言したものである。したがって、この物語をすべて虚構とばかり見るのは正しくない。

源氏物語に描かれたことはみな、その当時にあった人の身の上を述べて、そこに勧善懲悪の意図を含めたものである。この意図を知らないで、源氏物語を淫乱な書物と見る人々は、まったく読みが浅いと言わなければならない。また、華麗な歌や言葉ばかりに注目して褒めそやす人は、剣の刃物としての優劣を言わないで、ただ柄や鍔といった装飾の美しさだけを論じているようなものである。源氏物語は、言葉の華麗さと訓戒の鋭さ、つまり花と実を兼ね備えた歌書である。その道のすべてが書かれている聖典と言っても誇張ではない。

◇ 翻訳:第6章 物語の主題


冷泉院の出生の秘密(桐壺帝の息子とされているが、実際は光源氏と藤壺の密通によって生まれた不義の子であること)を、ある人は「深く詮議するな」と言い、またある人は「特別の理由があることなのだ」と声をひそめ、さらには「この悪趣味な筋書きのために、源氏物語を読んでいると不愉快になる」と吐き捨てる人までいる。これらは皆、紫式部の意図したところを知らないものと言わなければならない。私としては自説を今ここに記して、識者の判断を仰ぐばかりだ。

桐壺の巻にいわく、「源氏の君は桐壺帝が常に側に置いたので、亡き母の実家に落ち着くこともできなかった。心のうちでは、ただ藤壺のありさまを思い焦がれて、あのような人と恋をしてみたいが、似る人さえいないものだと悩みながら過ごしていた」と。このように伏線を張って、その後ついに肉体関係があったことを匂わせ、若紫の巻で懐妊を知らせ、紅葉賀の巻で御誕生、葵の巻で立太子の儀、澪標の巻で御即位となり、これを冷泉院と呼ぶ。

薄雲の巻にいわく、「夜居の僧が秘密を打ち明けて、御自身がじつは光源氏の子であることを初めて悟られたけれども、真偽を誰かに問い合わせようにも適当な人がおらず、歴史上に前例があったかどうか自ら調べようと決心なさって、ますます学問に精をお出しになりつつ、さまざまな書物をご覧になると、中国には露見しようがしまいが、淫らなことがとても多かった。日本にはまったく前例がない(原注:喜ばしいことである)。たとえあったとしても(原注:恐ろしいことである)、このように人目を忍ぶような事柄を、どうやって伝え知るすべがあろうか」と。

若菜下の巻で、柏木が女三宮に密通したことを光源氏が知って、様々に思案を巡らしている場面にいわく、「帝の目を盗んで過ちを犯した類いのことは、昔もあったけれど、それはまた事情が異なる。宮仕えする人々が、同じ主君に馴れ仕えているうちに、横糸の交流が始まり、「もののまぎれ」が多くなるのは仕方のないことなのだ。天皇にお仕えする女御・更衣といえども、この方面について未熟な人もある。節操のない人が混じって、思いがけない事件も起こるに違いないけれど、あいまいなまま過ごして確実な証拠が明るみに出ないうちは、それでも交わり続けるだろうから、露見していないだけで、少しくらいはまぎれがあるのだろう(原注:恐ろしいことである)。帝にお仕えするといっても、当初は素直に公心だけで宮仕えしていたのが、しだいに心にゆるみが生じて私欲になびき、各自が哀れを尽くして、見過ごしがたい折々の返事をも言い始め、自然に心が通い始めることもあるだろう。そうであるからには、(原注:柏木と女三宮の密通のことを)顔色に出すべきことでもないのだ」などと思い乱れるにつけて、「桐壺帝もこのように、薄々感づいておられながら、知らん顔をお作りになっていたのだろうか?だとすれば当時のことは、非常に恐ろしく有ってはならない過ちであったのだ」と。

原注:光源氏が吐露した、この悔恨の心こそ、作者が伝えたかったことである。

これらの書きぶりについて考えると、昔のことであれ、直近のことであれ、紫式部が実際に見聞きしたことについて書いたものに違いない。丁寧で執拗な書きぶりは、浅くない心から出た言葉であることを示していて、たやすく読み過ごしてはならないくだりだと分かる。伊勢物語における二条后(原注:在原業平が密かに通った女とされる)や、後撰和歌集における京極御息所(原注:元良親王と恋仲であった)、栄花物語における花山女御(原注:実質公に心を通わした。麗景殿女御や承香殿女御とも密通していたとされる)など、これらの方々は思慮が浅くて私欲になびいたのである。

しかし、幸いにして「もののまぎれ」は、この国で露見した例がないとする冷泉帝の証言は、まことに喜ばしいことだ。もし一代でも在原氏や藤原氏といった他氏のまぎれがあったならば、国の根幹に関わる非常事態であって、まぎれが幸いにしてなかったのは、日本にも中国の魯仲連のような立派な政治家がいたためであろう。(原注:平原君の史伝による)

光源氏が藤壺と密通して冷泉帝を生ませたことは有るまじき過ちであって、光源氏の淫乱の罪は重いとは言えども、皇胤のまぎれが意外な方に行ったわけではなく、桐壺帝にとっては光源氏は実の子であるから、冷泉帝は実の孫ということになり、神武天皇以来の純血は守られている。その意味では、冷泉帝もまた伊勢神宮を主宰する資格を有し、天下の民草が従うべきお方である。それですら駄目だとして、冷泉帝の後継者を冷泉帝の子ではなく、光源氏の兄である朱雀帝の子にした紫式部は、皇統の問題について大変厳格な考えを持っていたようだ。

そもそもの話、いっときの風紀の乱れと、永遠に禍根が残る「もののまぎれ」と、罪はいずれが重く、いずれが軽いと言うべきだろうか?断言は避けるけれども、臣民の一人として申し上げるならば、光源氏の罪は見なかったふりをして、天皇の系譜が思いがけないことにならなかったことを喜ぶべきなのだろう。そして、この筋書を考えた紫式部の真意を推し測るべきなのだろう。用意周到な紫式部が当時宮中に披露していた物語に、そうした意図もなしにこのような筋書を書くはずがない。この訓戒の意図に読者の注意を向かせて、「なるほどそれはそうだ」と思わせ、「もののまぎれ」が生ずるのをあらかじめ防ごうとしたに違いない。

実際問題、用心しなければ疑わしいことが起こる。先に述べた二条后などの史実を考えれば、恐ろしいことではないか。上に記した光源氏の熟慮は、みな紫式部の心と見て良く、密通事件の重大さをありありと知らせたものである。冷泉帝ばかりではない。臣下はまた、薫の君のまぎれもあわせて読んで、重々用心しなければならない。

冷泉帝が「中国には淫らなことが多かった」と語っているのは、秦の始皇帝は実は呂不韋(原注:別名、文信侯という)の子であるとか、楚の幽王は黄歇(原注:別名、春申君という)の子であるといったことが、史記に書かれているためである。「読史管見」という本において、胡致堂がこれを論じて次のように言っている。

【原文の書き下し】
古の国を有(も)ち家を有つは、妾を買うと雖も、必ず其の良きを択ぶ。胡、礼儀廉恥の無きだも、尚且つ賜を盪(きよ)め世を正し族類の龐(みだ)れるを悪(にく)むなり。しかるに況んや諸侯においてをや。何ぞ羸楚、色を悦び姫を納めて其の故を疑わず、遂に大賣をして販心を生ぜしむ。是れより天下を有つ者は、蓋し呂姓なり。伯翳が宗廟、是に至りて絶ゆ。

【現代語訳】
古代の為政者は、愛人を選ぶにも細心の注意を払っていた。私は礼も知らず恥も知らない田舎者だが、そんな私でも権威を大切にし、正義が行われる世を願い、帝王の系譜が乱れることを憎むのだから、ましてや諸侯となればなおさらではないか。それなのに、どうして荘襄王は色欲に溺れて呂不韋の妾だった趙姫を迎え入れ、女の心を疑わず、ついに商売人の呂不韋が仕かけた陰謀にやられたのか。これより後、中国の帝王は呂姓となった。神話時代の帝王・伯翳から脈々と続いた系譜が、ここに至って途絶えてしまったのだ。

また、「鶴林玉露」という本において、羅大経は次のように論じている。

【原文の書き下し】
秦は六国を虎視蚕食して、六国未だ滅びすして、秦先づ滅びることを知らず。何となれば、始皇は乃ち呂不韋が子なるときは、則ち是れ、羸氏、呂氏の為に滅ぼさるる也。司馬氏、人の孤寡を欺きて之儲を奪ひ、魏の滅びて幾ばくもなくして晋もまた滅びることを知らず。何となれば、元帝は乃ち牛金が子なるときは、則ち是れ、司馬氏、牛氏の為に滅ぼさるる也。

【現代語訳】
秦は相手の隙を見ては周辺国を次々に侵略したが、周辺国が滅びる前に、自分自身が滅びていたことに気づかなかった。それはどういうことかと言うと、始皇帝は呂不韋を父とする不義の子だったので、これはつまり、羸氏一族が呂氏一族に滅ぼされたのも同然だからだ。(同じように)司馬氏は司馬懿・司馬昭の親子の時代に、魏の皇帝・曹叡の未亡人である郭皇后を欺いて帝位を奪うことには成功したが、魏が滅んでまだ日も浅いというのに、晋もまた滅びていたことに気づかなかった。それはどういうことかと言うと、司馬懿の曾孫である元帝(司馬叡)は牛金を父とする不義の子だったので、これはつまり、司馬氏一族が牛氏一族に滅ぼされたのも同然だからだ。

外国のこととは言え、聞くだけでも不愉快な話である。ましてや、日本は神が皇室に授けられて以来、万世一系の天皇が国を治め、他氏がまぎれることは全くなかったのである。今は末法の世であるから、女御・更衣のうちに軽率な者が混じって、天皇の系譜に「もののまぎれ」が生じるのではないか?源氏物語は、そのような憂慮を抱いた作者によって、諷刺の意図を以て書かれた。このように、紫式部は女ではあるけれども、気品の美しさと学問の力が合わさっていて、その高い見識は儒学の大学者に引けを取らない。

また、薫の君のことは、天道好還(因果応報)の理を示した趣で、羅大経が説いた教えに等しい。このくだりは物語の根本主題を示した箇所であるから、源氏物語を論ずる人はよく理解していないとならない。

ところで、ある人から次のような質問を受けたことがある。「こんなにも優しく儚い筆致で書かれた物語を、あなたのように大げさな理屈を読み込んで論ずることは、紫式部の意図に反するのではないか」と。私はこの問いに対して、紫式部本人の言葉を引用しながら、次のように答えた。

源氏物語の「雨夜の品定め」にいわく、「なぜ女だからと言って、公私を問わず世にある出来事について、まったく知らずに過ごし、物を思わないでいられようか。わざわざ学問を習ったり学んだりはしないけれど、少なからず特徴があるような人についての話が、耳にも眼にも止まることは、普通に生活していれば多く経験するものだ」と。

紫式部日記にいわく、「人というものは、おおらかで、少し心がのんびりとしていて、落ち着いているのを基本にしてこそ、その人の品位というものが深く感じられて、安心して付き合うことが出来る」と。

また、源氏物語の始めには、光源氏と藤壺の密通事件のことを、繊細な優しい筆致で書いておきながら、終盤に至ると、とても恐ろしく有ってはならぬ過ちであると厳しく断罪している。

これらの言葉は、緩急をあわせ持つ作者の心が言わせている。他にも、物語に登場する女性たちの婦人としての徳を示した優しい書きぶりと、日記の中で、赤染衛門・清少納言・和泉式部など、当時の女流作家たちを批評した手厳しい文章とを見比べれば、紫式部の心のありようが分かるはずだ。重厚で複雑な魂を持った女である。

こうした心で書かれた物語であるから、単に優しく儚いものと決めつけて読む人は、紫式部の本当の意図を知らず、源氏物語の本当の主題を探らないで、ただ華麗な歌と言葉に惹かれているだけなのだ。たしかに主題は理屈が強いけれども、物の言い方が安らかに、儚く、艶っぽく、優しく書き流していることは、「これぞまさに女の筆」と言うべきもので、しかも名人の手による文章である。

かの寂蓮法師が「恐ろしい猪も〈ふすゐのとこ〉と読めば哀れである」と言っているのも、ここに思い合わすと良い。そうであるからには、歴代の先行研究も、解釈の大体においては正確であり、文脈を取り違えてはいないのだ。先に述べたように、この物語は「婦人道」についての聖典であり、「歌道」についての至宝であることは間違いない。

このように答えると、先の質問者は満足そうに頷いた。

◇ 紫家七論の魅力と限界


為章が伝えたかった内容は本文に明らかで、さらに付け加えることはありません。彼は作者の執筆動機が勧善懲悪による訓戒だったと考え、源氏物語の根本主題は「もののまぎれ」、言い換えれば「不義の子の誕生」にあるとみなした。そして、罪を犯した光源氏の晩年に、柏木と女三宮の密通事件が起きたことは、因果応報の思想を表現したものと見た。要約すれば、それだけのことです。

為章の独創性は、「不義の子の誕生」という、長大な作品における1コマの場面に過ぎないものに、物語の中心軸としての地位を与えたことにあります。源氏物語とは何か?父の後妻を横恋慕して奪い、不義の子を生ませた男が、はるか年下の男に己の妻を犯され、不義の子を抱える物語である。為章によってこのように整理された途端、とらえどころのなかった物語が、突如として「カラマーゾフの兄弟」風の父子の愛憎劇になり、現代文学の名に値する骨格を備えた作品であるかのように見え始めたのです。

為章という人は、こうした天才的な着眼点を持っていたわりには、そこから凡庸な結論しか導き出せなかった点で、特異な人でした。旧来の解釈と、宣長が行った全く新しい解釈の、ちょうど中間に位置する人でした。勧善懲悪の描写を通じて読者に訓戒したのだと言われ、さらに、古来の注釈も大筋では間違っていなかったとまで言われては、唖然とするほかはありません。作家論という斬新な方法と、「不義の子の誕生」という優れた着眼点が、結局は世俗の価値観に回収されてゆく。そのさまを目の当たりにして読者は戸惑います。

・・・宣長もその一人でした。


書誌情報:
秋山虔[監修]『批評集成・源氏物語◆第一巻◆近世前期篇』ゆまに書房、1999年

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?