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【中編小説】女の操

  
 レズビアンの両親に育てられた僕は——当たり前と言ったら当たり前なんだけど——父親の存在を一切意識することなく成長した。僕の家はよそとは少し違うようだぞ、ということは早いうちに、それこそ幼稚園の頃から気づいてはいたけど、子供である僕に出来たことなど何もない。お父さんはいないのにお母さんが二人いる、というまわりの家とは違った変な状況を、何の抵抗もなく受け入れた、と言ったら嘘になるけど、泣いて喚こうが何をしようが変わることはない。長い時間をかけて自然に慣らされていった、と言うしかない。
 でも最近、僕が覚えた言葉によれば、性別には単純なオスとメス以外の役割としての男と女がある、ということだ。いわゆるジェンダーという奴さ。それによれば僕には二人の母親がいたわけではない。母親の一人の風子——いつもは風ちゃんと呼んでいる——はどちらかといえば普通の母親であり、女役だ。彼女は立ち居振る舞いや口調、服装も含めたすべてが女そのものだ。僕のことを叱るのももっぱら風ちゃんだし、甘ったるい声で呼びかけるのも彼女だ。で、もう一人の母親の紅子——以前は紅ちゃんと呼んでいたけど、最近では大抵ベニーだ——は、はっきり言って男役だ。髪はいつも短くしてるし、スカートを穿いた姿なんて一年に一度見るかどうかというくらいの男っぽい女の人だ。そんなジェンダー論で言うならまったく男として存在しているようなベニーも決して性的に倒錯しているわけではなく、「身も心も女よ」なのだそうだ。やはり僕には父親がいない。それなのに母親が二人いる。そんな家庭で十四年も過ごしたのにグレもせず、反抗もせず、まっとうな男の子として育った僕はやはりどこかおかしいのかもしれない。
 とはいうものの、今の世の中、父親のいない家なんていくらでもある。そう例えば、離婚して母子家庭になった所に母親の姉や妹が同居している家を想像してみてほしい。僕の家はほとんどそんな感じだ。何かが特別というわけでもないし、別に悪いことをしているわけでもない。だから僕はこれまでの人生で取り立てて不平申し立てをしたことはない。そりゃ二人の母親と喧嘩することはあったし、学校の成績とか、脱いだ靴が揃ってないとか、そんな下らないことで叱られる度に反発はしたこともあるけど、ひどくグレたことはない。でも、この歳になって色々とはっきりさせておきたいこともいくつか出てきた。例えばそう、僕の父親はどこに行ったの? とか。
 この場合の父親とはもちろん生物学的な意味での父親であり、はっきり言うなら精子は誰のもの? ということだ。iPS細胞を使って女性の卵子を精子化し、卵子と受精させるという技術は三年前に実現したばかりだから僕には当てはまらない。もしかして僕は、その技術が世間一般に公表される前に秘密裏に行われた実験か何かで生まれたのかも、と疑ってかなり詳しく調べたことはあった。おかげでiPS細胞と山中教授の経歴はかなり詳しくなったけど、そんなのは僕の妄想だった。こんな僕にも生物学的な父親がいる。でも、誰だ?
 はっきり言っておくけど、僕はこんなことにこだわっているわけではない。小さな頃には思い悩んだこともあるけど、今は違う。かといってどうでもいい、他人事ではない。例えば、アップルの創業者のスティーブ・ジョブズは養子として育ったけど、生みの親については「生物学的な親というだけで、それ以上ではない」と語っている。僕もそれに近いと言えるけど、精子バンクを利用しただけで、父親が誰かなんて知らない、なんて言われるのも怖い話だ。ベニーは僕の十二歳の誕生日にこんなことを言った。「お前が大人になったら話すよ」
 だからこんな話はもういいのだ。最近の僕の悩みはもっと別のこと、二ヶ月前に生まれて初めて出来たガールフレンドのことだ。彼女は名前をヒナと言って駅前の学習塾で三年前に知り合った子だった。その子と最近になって付き合うようになったのだけど、そしたら母さん達が「一度、うちに連れて来なさいよ」と言ったわけ。それで彼女がうちにきたらなぜか母さん達と気が合ってしまって、それが今になって色々と面倒なことになった。ヒナは僕の両親が二人とも女性だとは知っていた。けど母さん達の仕事はその時はじめて知って、以来ファンになってしまった。そのことを僕はヒナの母親にねちねちと言われたわけなんだ。けどこれって、僕が悪いの?
 僕の母さん達は二人ともマンガ家をやっている。二人ともというより、二人で一人、二人で一つのペンネームを使って活動している。ただそのマンガというのが君らがよく知っているようなジャンプやマガジンの奴とは違って女性向きのもの、それも大人の女性向きのマンガなんだ。もっと言ってしまえばボーイズラブというジャンルのもので女性向きなのに女の子はほとんど登場しない、男と男が愛し合うという、僕にはよく判らない内容なんだ。最近ではもうやってないらしいけど、以前は十八禁なマンガも描いていたらしい。本人たちは男を恋愛の対象として見れないのに、そんな自分たちが作っているのは男と男の恋愛ものだなんて、まったく倒錯している人たちだと思うよ。以前に風ちゃんがこう言ってた。「BLがオカズで女の子が主食なの」だって、まったく僕には訳が判らない。とはいえ、僕はそんな二人が描いた、そんな内容のマンガで稼いだお金で育てられたのだから、これについてはぐうの音も出ない。僕はレズビアンの両親が描いたボーイズラブのお金でご飯を食べ、毎晩ゆっくり眠ることが出来る。こんな親の仕組みを理解したのは小学校五年生の時、以来僕は父親がいないとかどうとかで文句を垂れるのを止めたんだ。でも、ヒナの母親にイヤミを言われた時はもう少しで怒り出すところだった。だいたい、僕だってヒナに告られたから彼女と付き合うことにしたんだ。それなのに僕の両親の素性とか、仕事の内容をあんたが僕に文句を言うっておかしくない? 言うならヒナに言えって思ったよ。
 その時は塾から家まで送ってもらっていた車の中だった。急に雨が降り出したのでヒナのお母さんが車で迎えに来てくれて、僕も一緒に送ってもらっていた。もちろんその時ヒナは「やめてよ、お母さん!」と言ったし、そのあと何度も謝ってくれた。もちろん僕も平静を装っていたし、彼女に怒ったりもしなかった。悪いのは彼女じゃないしね。でもこのことは改めて僕に色んなことを考えさせた。やっぱり僕の家、僕の家族、それに僕自身も世界から見れば異端なんだなあ、ってことさ。もちろん、ヒナと僕の間にあったことは母さん達には話してない。でも何だか、感じることがあるみたいだった。
「こないだのさ、ヒナちゃんだっけ?」と晩ご飯のときにベニーが言った。「最近どうなの? うまくいってるの?」
「いってるよ」と僕は答えた。
「誰ですかヒナちゃんて、誰ですか!」と六人で食べている晩ご飯のテーブルの反対側で望さんが怒鳴った。彼女は母さん達のマンガのアシスタントだった。もう十年くらい働いている古株でチーフ格の女性だった。通称ノンちゃん。「ちょっと待ってくださいよ!」
「あれ、ノンちゃんは知らなかったっけ? スグルにガールフレンドが出来たの」
「初耳ですよ、今はじめて知りましたよ!」ノンちゃんはいつも声が大きい。母さん達のアシスタントを長年勤めているくらいだから彼女もBL好きなのは間違いないのだろう。ただレズビアンかどうかは聞いたことがない。「ねえ、スグル君、どんな子なの? てゆうか、女の子なんだよね?」
「何で僕が男と付き合うのさ」
 知らない人も多いと思うけど、マンガ家の業界ではアシスタントにはタダでご飯を提供するのが慣例になっている。作業時間は日によってまちまちだから夕食の時間もかっちりとは決まってない。大抵七時から九時の間が多い。締切り前は朝まで徹夜なんてこともよくある。締切り前でなくても十一時ころまでみんな働いている。母さん達のマンガは月に五回も締切りがやってくるから、僕が夜中に目を醒ますと、仕事場の一階では皆が目を血走らせているなんてことも珍しくない。
「私がね、彼女の似顔絵を描いてあげたの」と風ちゃんが言った。「本当、適当にさらさらって描いただけにものなんだけど、すごく喜んでくれてね、マンガを読みますって言ってくれたの。ファンになるって」
「でも、それって」とアシスタントの一人、紬さんが言った。彼女はうちに来て五年ほどになる。「いいんですかねえ、大丈夫なんですかねえ」
「どんな内容のものかは言ってあるよ」と僕は言った。
「一人の女の子をBL好きに目覚めさせることになるのかな」ともう一人のアシスタントの藍さんが言う。彼女は今年に入ったばかりだ。「彼女の親御さんに怒られたりしてない? スグル君?」
「してないよ」と僕は言った。
 ベニーが僕をちらっと見たような気がしたけど、目を合わせなかった。
 毎日の晩ご飯の後、みんなの食器を洗うのは僕の仕事だ。五年生の頃からやらされるようになって以来、毎日続いている。免除されるのはインフルエンザの時ぐらいだけど、すっかり僕の日常の一部になっている。こんなことをやっている中学生男子なんておそらく僕ぐらいだろう。でも、逆に言うならこれだけをやっておけばもう何も言われることはないので気が楽だ、というのもある。ちなみにご飯を作るのはベニーの仕事だ。母親らしいのは風ちゃんだから意外なんだけど、実のところベニーはマンガ家と言っても原作を書くのが本業だから絵はほとんど描けないんだ。締切り間際の修羅場は風ちゃんと三人のアシスタントさんが主に働いているので、ベニーの方が手が空いているから調理担当に回っている。でも本当に切羽詰まってくると、ベニーも枠線を引くとかベタを塗るとか作画にかかりきりになる。その夜もそうだったようで、僕が夜中の十二時頃に宿題を終えてベッドに入る頃も一階の仕事場は何やら騒がしかった。朝の七時に目を醒まし、服を着替えて僕が部屋を出たところで母さん達が階段を上がってきた。
「おはよう、私たちはこれから寝るから」とベニーが赤い目で言った。
「うん、判った」
「朝ご飯は適当に食べて」と風ちゃんも欠伸をしながら。
「仕事は終わったの?」
「うん、今日の分はカタがついた。四日後に別の締切りがあるけど」
 二人は僕の横をよろよろと歩いて自分たちの寝室に入っていった。「おやすみ、気をつけて行ってらっしゃい」
「うん、そうするよ」
 一階の食堂に降りていくとノンちゃんがテーブルを前に座っていた。目はしっかり開いていたけど、何もない空間をただじっと睨んでいた。「おはよう、ノンちゃん」
「おはぁ」死にかけの人みたいな返事だった。
「コーヒー淹れようか?」
「ああ~、いや、いいです。帰ってすぐ寝るし」ちなみにノンちゃんは僕の家から歩いて二分の所にアパートを借りて住んでいる。
「でも何も食べてないでしょ、パンでも焼くから食べてけば」
「じゃあ、ついでなら頂きます」
 僕はオーブントースターに食パンを二枚放り込み、トーストされる間にフライパンを火にかけた。冷凍庫から取り出したハッシュポテトを油で両面焼き、皿に取り分けると続けて目玉焼きを二枚作った。どうにかうまく目玉が破けずに両面焼けて皿に移した所でトースターがチンと鳴った。
「はい、どうぞ」
「うわあ、感動だなあ、スグル君の手料理感動だなあ」
「別にはじめてじゃないでしょ」僕は冷蔵庫を開けて牛乳をコップに二つ注いだ。「牛乳ならよく眠れるんだっけ?」
「かたじけない、かたじけない、頂戴いたしまする」とノンちゃんは昔の侍みたいな口調で言った。
 時計を見ると学校まではまだ余裕があった。というより、締切り前はこんなことが多いから早めに起きる習慣が身についているだけなんだ。僕はパンにバターを塗りながら「あとの二人は?」と聞いた。
「奥で寝てるっす」とノンちゃんは答えた。「昼過ぎには起きて帰るんじゃないかなあ。明日は休みを貰ったから、あさってまた出てきます」
「そうなんだ、大変だね」
「いやあ、こんなもんすよ」とノンちゃんは言った。それから彼女は、うめえなあ、とか最高だなあ、とかぶつくさ呟きながら朝ご飯を食べていた。「思い出すなあ、まだ小さな頃のスグル君にプロポーズされたんだっけ。ノンちゃんと結婚するーって言ってくれたんだよねえ」
「さあ、思い出せないけど」そんなことはないけど、しらばっくれるしかない。
「そうだよなあ、ここに来て来月で十一年になるし」
「もうそんなになる?」
「来た頃は私もまだ若かったなあ、希望に燃えてたし。それがどうだ、今はもう自分の原稿なんて五、六年まったく描いてない」
「そ、そう」
「勘違いして欲しくないんですけど、ここでの仕事に不満はないですよ。先生は二人共いい人だし、給料だって悪くないし、スタジオの雰囲気もいいし。でも昔の私にはもっと野望があったんですよ。もちろん連載を目指してたし、ヒット作を世に送り出して売れっ子マンガ家になるっていう夢があったんですよ。それがどうでありましょう、このざまでござるよ」
「このざまって……」
「スグル君に言いたいのは、光陰矢のごとしってことですよ。ぼんやりしてたら時間なんてあっという間に過ぎてしまう。まだ若いからいいや、なんて努力を惜しんでたら世間から取り残されてひとり周回遅れになっちゃうんですよ。時間は巻き戻し出来ないんだから、後悔するぐらいならチャレンジあるのみなんですよ、判ってくれますかねえ」
「判ったよ、ありがとうノンちゃん」と僕は言った。「心にしっかり刻んでおくよ。でもね、ノンちゃん、その話、五回目だから」
 母さん達の心配をよそにその後しばらくヒナとの間には何もなかった。彼女とは学校が違うので会うのは塾に行っている間だけ、それも二時間ほどの塾が終わって家に帰るまでの十五分ぐらいが話をする時間だから、他所から揉め事を持ち込まない限り、何も起きやしないんだよ。それよりも、その後しばらく学校内でのほうが面倒事が続いて、僕なりに悩ましい日々だった。僕は学校ではサッカー部に入っていた。といっても公立中学のサッカー部だからたかが知れているわけなんだけど、三年生たちがそろそろ引退することになって、僕ら二年生の中から新キャプテンを選出しなくちゃならなくなった。それで先輩たちが僕のことを指名したわけ。いやあ、これはかなりの驚きだった。僕はそもそもミッドフィルダーもしくはディフェンスに入ることがほとんどだから、チームの中では目立たない存在だった。二年生でレギュラーは二人いたけど、僕は違うしね。周りの連中も僕が新キャプテンに就任することに不満はないみたいだった。そもそもキャプテンと言っても大きな権力を持っているわけじゃない。チームをまとめるとか、皆を引っ張っていくとか、そんな面倒くさいことをやらされる貧乏くじみたいなもんなんだ。だから僕が引き受けることにしたのも、僕が頑なに断って別の誰かにキャプテンを押し付けたりしたら却って皆から恨まれそうだったからなんだ。実際、まわりの連中もそれで一安心といった感じだったし、僕としてはあまり気乗りはしないけど、大切な役を引き継いだということで、背筋が伸びたような気持ちになった。でも、僕の新キャプテン就任を良く思っていない部員の存在が耳に入ってきた。
 彼は名前を東海林と言ってサッカー部の中では一番出来る奴だった。ポジションはゴールキーパー、二年生の中で二人のレギュラーの内の一人だった。というのも奴は身長が一八五センチもあって、運動神経は抜群だった。一年生の時にはバスケ部とバレー部が奴の争奪戦をしたといわれているくらいで、現に一度、体育の授業でバスケで対戦したことがあるけどまったく歯が立たなかった。一人で二十点ぐらい決めていたような気がする。彼はチームの中の嫌われ者だったわけではない。ただ少し我が強い所はあったと思うし、僕は別に彼が新キャプテンになっても文句はなかった。でも彼の方が僕に文句があるらしい。とはいえ、直接不満を言われたわけじゃないし、「あいつがお前のことをこんな風に言ってた」なんて又聞きの伝聞をいちいち真に受けるのもばかばかしい。僕は素知らぬ振りをしていたんだ。けどある時、移動教室で渡り廊下を歩いていたら東海林に呼び止められた。「ちょっといいか?」
「あんまり時間はないけど、何?」 
 彼のクラスは体育が終わった所みたいで彼はジャージ姿だった。「やっぱり一度、はっきりさせたいことがあって」
「えっと、何さ?」
「ちょっと」と彼は顎をしゃくって僕を促して歩き出した。僕は彼の後をついていかざるを得なかったわけだけど、もちろん心の中では「面倒くさいなあ」と思っていたよ。
「はっきり言っておくけど」と東海林は体育館の裏に僕を誘い込むとそう言った。「俺は別に文句はないんだよ」
「何のこと?」と僕は壁に寄りかかり言った。でも変にとぼけ過ぎても彼が気を悪くすると思って「ああ、キャプテンのことね」とすぐに続けた。
 東海林は「ちっ」と舌打ちし「文句はないけど気に入らないわけ。お前、少しも真剣じゃねえもんな」
「それは違うけどなあ、俺も真面目にやってるよ」 
 東海林は身を翻して右手の手のひらを僕の頭の上の壁に、バチンと叩きつけた。「ぜんぜん、そうは思えねえ!」と吐き捨てるように言った。
 体格はまったく違うから喧嘩になったら勝ち目はない。でもそんな状況で僕が考えていたのはそれとは全然違うことだった。これはまずい、これでは母さん達の描いているマンガの中みたいじゃないか、ということだった。いわゆる壁ドンて奴さ。もしこの僕と東海林の状況を第三者の目で見たらBLマンガそのものだ。まずい、まずいぞ、もしこんな姿をその手の女子に見られたりしたら、間違いなく変な噂が広まってしまう。ただでさえ僕は好奇な目で見られているというのに! 何とかこの場を脱しなければ。
「判った、判ったよ、ショージ、俺さ、キャプテンの件は辞退するから、それでお前がふさわしいって顧問や先輩にも言うから、それでいい?」
「なんでそんなヘラヘラしてるわけ? だいいち俺、そんなこと言ってねえし!」
「判ったよ、俺は辞退しないし、先輩にも何も言わないよ」僕は弾かれたバネのようにその場から離れた。「それに御免、次の授業は生物の坂本だから遅刻出来ないんだ、御免、急いでいるんだ、また後でゆっくり話そう!」
 僕はダッシュで体育館裏から逃げた。ちょうどチャイムも鳴り始めていて急いでいたのは本当だけど、キャプテンの件とかそれよりも、誰かに見られてはいないだろうか、ということのほうが気にかかって次の生物の授業は本当に身が入らなかった。ただ単純にぶん殴られたほうがはるかに良かったよ! でもこの件は案外、あっさりとカタがついた。その日の放課後、サッカー部の練習中に東海林が僕のそばにやって来て「さっきは済まなかった。俺はどうかしてたんだ、忘れてくれ」と言った。多分、彼も何時間かして頭が冷めたのだろう。バツの悪そうな顔だった。
「気にしてねえから、全然」と僕は言った。「がんばろうぜ」
 もっと気が利いたセリフがあったんじゃないかとも思えたけど、その時の僕はそれしか言えなかった。でも結果的にそれはそれで良かったと思うよ。チームには僕と彼の二人しかいないわけじゃない。東海林は来年になってもゴールキーパーのレギュラーは決まっているようなものだけど、サッカーはチームスポーツだ。試合に勝つ、という目標が同じでも、どういうやり方でそれを目指すか、という点で意見は食い違う。エゴも出てくる。誰か一人のスーパーエースにボールを集めておけば勝手に試合を決めてくれるようなものでもない。キャプテンなんてただの調整役さ、だから僕にふさわしいんだろう。
 でも判って欲しいんだけど僕は別に「俺って特別だ」って言いたいわけじゃない。確かに僕の家族や親の仕事、そして環境はよその家とは少し違うかもしれない。けれども僕自身はそんなに目立つような存在じゃない。スポーツもサッカー部の平均的な部員だし、勉強だって塾に行っているおかげでかろうじて落ちこぼれを免れているくらいの体たらくなのさ。だけど、やっぱり僕は有名人の子供なんだなあ、と思い知らされた出来事があった。塾の帰り道、ヒナと並んで歩いている時だった。彼女が自分のスマートホンの画面を僕に見せて「これってスグル君のお母さんでしょ」って言ったんだ。
「え? どれ?」
 画面には「『真空のゼロ』製作発表会 川鍋方正、抱負を語る」と文字があって、その下に五、六人の男女がズラリと並んだ写真があった。その中で端っこにスーツを着て立っている女性は間違いなく僕の母親の紅子だった。
「うん、そうだけど、それって半年くらい前だよ」
「昨日、調べてたらたまたま見つけたの。凄いね、お母さん、あの川鍋方正君と会ってるんだ」
「そりゃあ、主演だからね。でもその時だけだよ。母さんはただの原作者だもの」
「それでね、私、この本読みたくなって買おうとしてたら、実はもう家にあったの。お姉ちゃんが方正君の大ファンだから。スグル君は読んだ?」
「パラパラと流し読みしたぐらいかな」
「先にネットで評判を調べれたら色々とあって……」
「うんそりゃあ、色々あるよね。内容が内容だから」
『真空のゼロ』はベニーの小説家としてのデビュー作でちょっとしたヒットになった。太平洋戦争末期のカミカゼ特攻隊の若者たちを描いた内容なので今までの母さん達のマンガの読者とは違う所に届いて、論争にさえなったんだ。僕はベニーがこの本を書くに至る経緯を良く知っている。そばで見ていたからね。発端は三年くらい前に母さん達が描いた短篇のマンガだった。内容はもちろんBLもので、カミカゼ特攻隊の若い男の子同士の恋愛を描いた読み切りだった。最初はベニーもまったく深い考えなどなく描いたと思うよ。でもそれが不謹慎だと言って抗議をする右翼団体があったりして、ワイドショー的な騒ぎがあった。僕は見てないけど、出版社には脅迫状が届いたりしたらしい。でも、それくらいで挫けるベニーではない。彼女はそれを機に太平洋戦争のことやカミカゼ特攻隊のことを詳しく調べ出した。鹿児島まで取材に行ったり、遺族にインタビューしたり、一時期は連載のマンガと平行してよくやったと思うよ。最初はそれこそマンガとして世に送り出そうとしていたんだけど、話があまりにも壮大になりすぎたのと、出版社の都合もあって小説として書くことにしたらしい。そんなわけで生み出された『真空のゼロ』はもうボーイズラブの要素がまったくない、感動エンターテイメント大作だった。感動大作なんて出版社がつけたキャッチコピーだから大袈裟な言い方かもしれない。でもアマゾンのレビューには「泣けました! 星五つ」なんて読者の声が並んでいたりするから、決して駄作ではないと思うよ。それで半年前に映画化されるのが決まったんだ。
「映画は確か来月公開じゃなかったかなあ」
「楽しみだね」とヒナは言った。「一緒に見にいこうよ」
「うん、そうだね」
 その夜、晩ご飯の時に僕はベニーに「あの映画だけどさ」と聞いた。「本当に来月に公開されるんだっけ?」
「そう聞いてるよ」とベニーは答えた。「この前、クランクアップしたって聞いたから、今は編集してるんじゃないかな。テレビでコマーシャルもそろそろ始まるらしい」
 その日はアシスタントさんたちはお休みの日で、食卓には三人しかいなかった。
「それがどうしたの?」風ちゃんが聞いた。
「ヒナに一緒に見に行こうって誘われたから」
 ベニーと風ちゃんは顔を見合わせた。「いいねえ、青春だねえ」
「ヒットするの? それともコケちゃう?」
「さあ、どうだかなあ。主演の男の子の固定客がいるから、そこそこヒットはすると思うよ」
 主演の川鍋方正は大人気アイドルグループ、ジェネレーションXのメンバーで、風ちゃんは大ファンだった。映画の撮影が始まってからは坊主頭でテレビに出ているのを何度か見かけたから、それだけ気合が入っているのだろう。
「あれはないの? この前の発表会みたいな奴」
「舞台挨拶のこと?」
「そうそれ。川鍋方正とまた一緒になったりしない?」
「ヒナちゃんが彼のファンだった?」
「あの子のお姉さんがそうらしいんだけど」
「私はもう表舞台には出ないよ。この前の発表会だっていやいや出させられて……」
「一ヶ所だけ出るって約束させられてなかった?」と風ちゃんが言った。「出版社の系列の映画館だけ、その一ヶ所だけでいいんで、何とかお願いしますって、強引に頼まれてたと思うけど」
「ああ、あれがあったか……」とベニーは箸を持つ手を止めた。
「本のプロモーションなんだから、愛想を振りまいてこないと」と風ちゃんはにこにこして言った。「でもそれってさすがに原作者だけじゃないよね。方正君も当然来るんだよね? 私も生の方正君、見たいなあ、会いたいなあ」
「私一人で舞台挨拶はないと思うよ。チケットは編集さんに頼んでみる。多分、四、五枚は都合つけてくれるんじゃないかなあ」
「やった、みんなで行きましょ」
 その日の夜、僕が皿を洗っている時だった。ベニーが僕の横にすっとやって来て「実はさ」とヒソヒソ声で言った。「風ちゃんには秘密にしてたんだけど」
「え? 何?」僕は言った。風ちゃんは風呂に入っていた。
「実はさ、川鍋方正君とはもう友達なんだ」
「え? 嘘?」
「友達と言っても飲みに行ったり、ディズニーランドに行くような仲じゃないよ。メール友達っていうか、ライン友達なんだ。最初に会った時にラインのIDを交換して、それ以来、けっこう連絡を取り合ってた。ほら、彼は私の書いた小説の主人公を演じるわけじゃない? この時の主人公の気持ちはどうだったんですか、先生? なんて何度も質問されてたんだ」
「凄いじゃない!」
「最近はもう撮影が終わったからメールは来てないんだけど、今度会う時、頼んだらサインや一緒に写真を撮るぐらいならオーケーしてくれると思うよ。彼、いい奴だし」
「それ凄いよ、ヒナも喜ぶと思うよ」
「スグルの株が上がっちゃうな」とベニーは僕の肩を小突いた。
 突然だけど、子供と大人の境界ってどこにあると思う? 法律的には成人年齢は十八歳になっているけど、そういった社会的な決まりと別に子供はどんな瞬間に大人になると思う? これは僕の個人的な意見だけど、どうやったら男と女の間に子供が出来るか知った時、がそうじゃないかと思うんだ。僕の場合、その時とは小六の夏休みだった。そしてそれは僕にとっては、とてつもなく大きな疑問が生まれた瞬間でもあった。僕の小さな頃の写真はアルバムが本棚に挟んであったから、取り出して良く見ていた。その中で、まだ赤ん坊の頃の僕は風ちゃんに抱っこされて風ちゃんのおっぱいを飲んでいた。生まれて二日目の写真ではベッドに横になる風ちゃんの周りに、生まれたばかりの僕やベニー、ベニーの両親に風ちゃんの両親も揃った写真もあって、誰もその写真にキャプションをつけてくれないけど、意味する所は明らかだ。つまり僕は二人の母親の一人である風ちゃんから生まれた。すると疑問が浮かんでくる。僕にとってベニーとは何だ? もしベニーが子宮内で精子を作り出す特殊能力の持ち主なら、僕は紛れもなく二人の間の子供だろう。でもそうじゃない。だから正直に言うと、その疑問が生まれて以来、僕はベニーとの間に溝を感じるようになった。絶対に悟られないようにしているし、例のスティーブ・ジョブズの言葉だって僕には心強い。でもそのことはベニーも感づいてはいるんだ。父親が誰かは教えてくれなかったけど、僕は戸籍上風ちゃんの私生児になっていることを説明したのはベニーなんだ。僕の法律上、生物学上の母親は風ちゃんで父親は不明。ベニーは風ちゃんのパートナーで同居人で共同ペンネームを使って活動するマンガ家の片割れで、僕からすれば赤の他人かもしれない。でもやっぱり僕の母親の一人なんだ。僕は間違いなくベニーと風ちゃんの二人に育てられた。その過去はどうやったって消しようがないし、消すつもりもない。でもある時、意外な形で僕は父親の名前を知ることになる。本当に思いもしなかった時と場所で。
『真空のゼロ』の劇場公開が近づき、テレビでコマーシャルが流されるようになった。ネットのレビューサイトを見るとすでに試写を見た人たちによるレビューが書き込まれていて、おおむね好評だった。中には星一つをつけていたり、「まったくの駄作!」と罵っている人もいたけど、そんなのはほんの少数で、星五つ、四つが大勢を占めていた。そんなのを読んでいたら僕の期待も高まってきた。
「じゃあ、これがチケットね」とベニーがある日、僕に封筒を渡してきた。
「舞台挨拶の?」
「それだけじゃない。映画の後にトークショーもある。ヒナちゃんのお姉さんの分も入れて三枚渡しとけばいいかな」
「凄いよ、絶対に喜ぶと思うよ」
「大勢の前に出るのって慣れてないからさ、母さん、バカなことを言うかもしれないけど、まあ、みんなで笑ってくれよ」
「それは問題ないよ。だってヒナたちの目当ては母さんじゃないし」
「そうだよな」とベニーは笑った。「あと、前にサインとか、写真とか、オーケーみたいなことを言ったけどさ、向こうのスケジュールっていうか都合で、それは当日にならないと判らないと思うんだ、だから黙っておいてくれない?」
「そうだね、そうするよ。それがなくても大喜びだと思うけどね」
 チケットの裏に書いてあるスケジュールによれば映画が始まる前に主演の川鍋方正とヒロイン役の宮藤芳佳、原作者のベニーと映画監督の四人が登壇して舞台挨拶があり、四人はそのまま観客と一緒に映画を鑑賞し、見終わってからまたステージに上がってトークショーをする、という内容だった。オークションサイトをチェックしたらチケットはプラチナ化していて、五万、六万という値段にまで釣り上がっていた。塾の帰りにチケットをヒナに渡すと、彼女も一瞬ポカンとした顔をして「え? 嘘?」としか言葉が出てこなかった。
「全部で三枚あるんで、お姉さんにも渡しておきなよ」と僕は言った。「それとも一枚は余計だった? 二人だけで行きたかった?」
「そんなことないよ、お姉ちゃん、凄く喜ぶと思うよ、気絶するかもしれない」
 気絶はしなかったけど、半狂乱にはなったようだ。その日の夜、ヒナから電話が掛かってくるとすぐにお姉さんに代わり「ありがとう、本当にありがとう」ってことを五十回は言われたと思う。僕は好きな芸能人とかアイドルとかほとんどいないから、そこまで赤の他人に入れ揚げる気持ちが良く判らないんだけど、相手は人気絶頂のアイドル、テレビを点ければコマーシャルも含めて日に何度も顔を見る有名人だから、仕方ないのかもしれない。さらにベニーのコネで直接会うことが出来たりしたら本当に気絶するかも、と少し心配になった。チケットは全部で四枚あった。風ちゃんも当然、来る気まんまんだったけど、その日、日曜は翌日に締め切りを控えていて、仕事場から抜け出すのは厳しい状況だった。諦めかけていた所、ノンちゃんたちスタッフが「二時間くらいなら大丈夫ですよ、行って来てください」と言ってくれたので、後半のトークショーの部分だけ見に来ることになった。当日の午前、ベニーは珍しくドレスを着て化粧もばっちり決め、慣れないハイヒールなんて履いて、出版社が寄越した迎えの車に乗って出かけて行った。僕がヒナたちと待ち合わせしていたのは駅前のマクドナルドで、そこで僕はヒナのお姉さんにお昼を奢ってもらい、さらにお礼を言われた。ヒナのお姉さんとは以前ちらっと会ったぐらい、興奮して喋りまくる彼女にはすっかり圧倒された。ヒナなんかずっと「お姉ちゃん、落ち着いて」と言っていたぐらいなんだ。今日のトークショーのチケットは一般に販売されたものではなく、雑誌の読者プレゼントだったようで「ハガキ百枚くらい書いたのに、一つも当選しなかったのよ!」と怒りを込めて語るのだった。お昼を食べ終えてマクドナルドを出る頃にはようやくお姉さんは落ち着いてきていたけど、電車に乗って映画館に向かっている時にベニーからメッセージが届いた。
「方正君に了解をとったよ。トークショーのあと楽屋に来てくれれば特別にサインして写真も撮らせてくれるって」
 僕は「判った、伝えとく」とだけ返した。でもすぐには二人に話さなかった。混んだ電車の中でそんなことを伝えて気絶でもされたらたまったものではない。目的の駅に着き、ホームに降りたところで僕は二人に「ちょっと待って」と言って引き止めた。
「どうしたの?」とヒナは言って怪訝そうに僕を見た。
「もうちょっと待って」僕はまわりから人がいなくなるのを待った。「実は今、母親からメッセージが届いて……」
 悲鳴のような金切り声がターミナル駅の真ん中で響いたものだから、近くにいた駅員がそばにやって来て「どうかしましたか?」と聞いてきたくらいだ。きっと痴漢の被害にでもあったのだろうと疑っていたのだろう。「えーと、実は……」と僕は言いかけたけど何と言って説明したらいいのやら見当もつかない。
「御免なさい、大丈夫です、お姉ちゃん、喜びすぎちゃって」
「そうですか、お気をつけて」駅員は去って行った。
「サイン貰えるなら色紙を買わないと」
「色紙なんて安すぎる」とお姉ちゃんは涙を拭いながら言った。「そんなものよりも、そんなんじゃなくてもっと、そう、写真集! 写真集に書いてもらう!」
「時間ならまだありますよ」
 僕らはそのまま駅ビルの中に入っていき、本屋を目指した。日曜日だからなのか駅ビル直結のデパートの中は大混雑で、僕は二人を見失いかけた。本屋にたどり着いてからも二人はどれにするこれにすると悩んでいてなかなか決められない。ジェネレーションXが二十冊近くも写真集を出しているのが問題なんだけど。
 二人を待つ間、僕は通路の壁により掛かっていた。すると本屋の向かいにスポーツ用品店があるのに気づいた。店先のワゴンにサッカーボールが山盛りに積まれて安売りされているのを見て、僕は思いついた。それまで僕は川鍋方正のサインが欲しいなんて思いもしなかった。別に僕は彼のファンじゃないしね。でもこれなら記念になると思ったんだ。
「どうしたの? 何を買ったの?」やっと写真集を買って現れたヒナが僕が手にしている袋を見て聞いた。
「サッカーボール。これにサインして貰おうと思って。これなら部屋に飾っておけるし」
「あ、それ名案」とお姉さんが言った。「方正君もサッカー部だったし」
 初耳なんだけど、そこは黙っていた。駅から映画館までは十分ほど、歩行者天国の真ん中を歩いて目的地にたどり着くと、上映開始の三十分前にも関わらず人で溢れ、映画館に来たというよりコンサート会場に来たかのような雰囲気で、僕は少し意表をつかれた。テレビカメラが十台近くロビーをうろうろしていたし、飾られた花輪はまるで誰かの結婚式みたいに派手派手しい。ベニーがいつになくお化粧をしていたのも判った気がした。
 映画館の中も超満員で冷房が壊れているんじゃないかというくらいの熱気で僕は気分が悪くなりそうだった。ただ風ちゃんの分の僕の隣の席が空いていたので、風通しが良かったのが幸だった。当たり前だけど、お客のほとんどは川鍋方正が目当ての若い女の子だった。司会者のお姉さんに促されて四人がステージに出てきた時は本当に悲鳴のような声が響き渡って、僕は正直、頭がくらくらした。ステージの上の四人、主演の二人はそれこそ芸能人のきらびやかさで包まれていたけど、ベニーはさすがに一般人がなぜか紛れ込んでしまった感が拭えなかった。ただ横の映画監督は白髪の冴えない風体の男の人なので、ベニーが一人痛々しい見た目にならなかったのは救いだろう。ベニーも司会のお姉さんに質問されて少し喋ってはいたけど、変におどおどしていなかったのはほっとした。ただ「今回、一番よかったのは方正君とメル友になれたことですね」と言ったものだから、会場からブーイングのような悲鳴が湧き上がったのは、あちゃーって感じだった。僕は内心「みんな安心して。僕の母さんは若い男の子には興味がないから」って思ったよ。
「では、そろそろ上映時間になります」司会者が言った。
 ステージ上にいた四人はそのまま階段を降りて最前列の席に並んで座った。僕らがいたのは五、六列目だった。ベニーと川鍋方正が顔を見合わせて何か喋っているのが見えたけど、場内はすぐに暗くなった。
 ヒナには流し読みをしただけ、と言ってあったけど実は『真空のゼロ』は何回も読み返してストーリーはほとんど頭に入っていた。今ここでネタバレをするわけにはいかないから映画の内容を詳しく説明はしないけど、原作通りというわけではなく、いくつもの改変がしてあった。上映時間の問題なんだろう。でもそれは内容をぎゅっと凝縮するような効果があったと思う。カミカゼ特攻隊がテーマなんだから当然、最後は悲劇的な結末だった。でもただ悲しい終わり方ではなく、未来に繋がるようなラストだったので、僕は感心した。ちょっとうるってきたのは本当だ。まわりからはすすり泣く声ばかりだった。ヒナもお姉さんも大泣きだった。だからエンドロールが終わって場内が明るくなった時も、まだ湿っぽい空気がどんよりと淀んでいた。僕が最初に強く拍手をし、すると周りもつられて拍手が湧き上がり、それは長く続いた。
 上映後のトークショーでは映画監督とベニーの二人がよく喋っていた。当時のことを詳しく知るために遺族にインタビューして回ったこと、現代の価値観を押し付けるのではなく当時の人々の考え、空気感などを考えながら執筆したことを静かに語った。映画が始まる前の熱狂が消え、しんみりとした館内だったからだと思うけど、若い女の子たちもベニーの話を黙って聞いていた。さらに映画監督が、そんな当時の空気感を出すための苦労話を語っている時、僕の横の席に風ちゃんが滑り込んできた。
「ごめん、道が混んでて」と風ちゃんは言った。着飾ったベニーとは大違いの、普段の仕事場のままの服装だった。「もう終わりそう?」
「わかんない。トークショーが始まって二十分ぐらいかなあ」
「映画はどうだった? 良かった?」
「良かったよ、みんな泣いてたよ。星五つだよ」僕は言い、風ちゃんを見た。汚れたジーパンに毛玉の浮いたネルシャツ。「でも、これから川鍋方正に会うんでしょ。そんないつもの恰好でいいの?」
 風ちゃんははっと息を飲んで自分の身体に手を当てた。気づいていなかったみたいだ。
 トークショーも終わり、映画館のロビーで待っている間も風ちゃんは「まずった、失敗した、すっかり忘れてた。こんなひどい恰好で方正君に会いたくない」と俯いていたけど、「向こうはそんなの気にしませんよ」とヒナたちに励まされて、なんとか気を取り直した。混雑した人の向うから家に何度か来たことのある編集者の女性が現れ「どうぞ、こちらです」と案内してくれた。
 関係者以外立入禁止のプレートが貼ってあるドアをくぐり抜けて奥に入って行ったけど、そこもまだ大勢の関係者でごった返してた。その奥でいつになくドレス姿のベニーはすぐ判った。年配の偉そうなオッサン数人に囲まれて朗らかに笑い、手のひらをひらひら動かしていて、さっき見ていたステージの上とはまた違った姿のベニーだった。僕が背伸びをして手を大きく振るとベニーも気づいた。
「やあ、いらっしゃい」とベニーはヒナたち姉妹に言った。
「今日はどうも有り難うございます」二人はペコペコ頭を下げて言った。
「ちょっと待ってね、彼、今向うで話してるから、呼んでくるね」
「は、は、はい!」
 ベニーはまた大勢の中に分け入って行った。三十秒ほどして再び姿が見えた時、後ろには川鍋方正が笑いながら歩いて続いていた。ヒナたちが「ひゃああ」と声のような悲鳴のような息を漏らした。僕らの目の前にやって来た川鍋方正は人気絶頂のアイドルというより、別世界の人間みたいだった。背後にオーラを纏っていたとも言えるし、彼の所属する芸能界という異空間がずるっとはみ出してきて一瞬だけ僕らを包み込んだ、そんな感じだった。彼は満面の笑みでヒナたちの差し出す写真集にサインをし「うれしいな、僕もこれ気に入っているんだよね」と初対面の相手にもかかわらず愛想を振りまき、僕のサッカーボールにもすらすらとサインをし「先生にはお世話になっています」と言った。ただ、あまりにも普段着の風ちゃんのことは怪訝そうに見たけど、「ごめん、私のパートナー、仕事場から抜け出てきたから」と説明されて「ああ、はい」と言って納得した。
「申し訳ありません、先生のマンガはまだ読んだことがなくて」
「いいんです、若い男の人が読むようなものじゃないんで」と風ちゃんは言い、映画のパンプレットにサインをして貰っていた。ツーショットとはいかなかったけど、川鍋方正を真ん中に囲んで皆で写真に収まり、彼は再び満面の笑みで「先生、じゃあまた次回作に出させて下さいね」と言い、去って行った。ヒナとお姉さん、それに風ちゃんは魂が抜かれた人みたいな放心状態で、立っているのもやっとだった。でも僕はそのあともベニーの後ろをくっついて回って、映画監督とヒロイン役の宮藤芳佳にもサインを貰った。もちろんサッカーボールにね。
「あとでベニーもサインしてよ。そしたら完成するから」と僕が言うと「今するよ」とベニーは僕からボールを引ったくってさらさらとサインをし、すぐに返した。実の母親にサインを貰うなんて変な気分だけど、僕としてはこれでコンプリートっていう気分だった。
「えっと、時間は大丈夫かな」とベニーが風ちゃんに聞いた。
 風ちゃんはまだぼんやりしてたけど「ノンちゃんが七時までに帰ってきてくれればいいですよって言ってくれて……」と言った。
「じゃあまだ時間あるね。みんなでご飯食べていこう。私はまだ挨拶する人がいるし、荷物も取ってくるから先に外で待ってて」
「一階の入口のところにいるよ」僕は言った。
 僕はまだどこか夢見心地の三人を先導して控室を出て歩き出した。風ちゃんもヒナもお姉さんも気の抜けたような表情で、まるで足が地に着いていなかった。風ちゃんなんてエスカレーターを踏み外して本当に転びそうになってたな。一階のホールに着いても、三人とも放心状態のまままったく回復していない。ヒナのお姉さんが一番の重症で、涙をこぼしながら写真集をしっかりと抱き締め、にやにやと笑って「うっうっー」とずっと唸っていた。何だか見てはいけないものを見てしまったような気分だった。
「お待たせ」
 ベニーの声がして見上げると、エスカレーターを降りてくる所だった。その時、僕は妙なものに気づいた。チケット売場から上のフロアに通じるエスカレーターの側面にベンチがあって、そこにずっと座っていた男がすっくと立ち上がった。変だな、と僕は思った。まるで僕の動きを注視していたみたいに感じたんだ。男はヤンキースの帽子を被り、黒縁の眼鏡をかけていた。脇にはキャンプに持っていくような大きなトートバックを抱えていた。僕がその男を見たものだから、一瞬、目が合ったような気がした。でもすぐに視線は外れた。男は横に歩き、エスカレーターから誰が降りてくるのか伺うように見上げた。そしてトートバックに手を入れ、すっと引き出すと、その手には大きなナイフが光っていた。
「ベニー!」
 僕は無我夢中で叫んだ。それから三十秒のことはまるでアクション映画の一シーンのように感じられた。何もかもがゆっくりと動き出した。もどかしいくらいに。でもそれは違う。僕の頭が高速で回転していたからそう感じたんだ。ベニーはエスカレーターを降りて僕らに向かって歩いてきた。僕は「うしろ、よけて!」と叫んだけどベニーは「え?」という顔で立ち止まった。男がベニーの後ろからナイフを手に駆け寄った。僕はすでに走り出していたけど、どうやったって男のほうが近かった。だから後のことはほとんど無意識の行動だった。僕は手にしていたサッカーボールを床に落とし、力いっぱい蹴った。もちろんナイフを弾き飛ばすつもりだったけど、ちょっと上にずれて男の顔の横に直撃して、男はバランスを崩しよろめいた。ベニーはやっと後ろを見た。男が間近に迫っていた。ベニーは顔の前で腕を交差させ「きゃああ」と叫んだ。男とベニーはほとんど同時に倒れこんだ。
 僕は次に何をしようとか一切考えないままベニーに走り寄った。倒れた男の頭を蹴り上げてやろう、とそんなことがふと浮かんだ。でも僕の横を追い抜かして行った黒いスーツの姿がいくつもあり、ナイフの男はあっという間に数人の男に床に抑え込まれていた。「確保、確保!」「現行犯、確保!」そんな怒鳴り声があたりに響いた。
「ベニー!」
 僕は叫びながら駆け寄った。彼女の手首あたりに赤い血がべっとりと付いていた。付いていただけじゃない、だらだらと流れ出ていた。ベニーは床に倒れたまま顔をしかめ、自分の右手を見ていた。「救急車、早く救急車……」僕はうわ言のように呟くことしか出来なかったけど、黒いスーツの男がやってきてタオルのような布切れでベニーの手首をしっかりと縛って止血してくれた。ものの十分ぐらいで救急車は本当にやってきた。ベニーは立ち上がり、自分の足で歩いて救急車に乗ることが出来た。切られたのは手首だけだった。
 救急隊員に支えられて歩きながらベニーは「私はいいから」と僕に言った。そして顎を振った。そこでやっと気づいたけど、風ちゃんも床にへたり込んで顔を覆っていた。「私はいいから」とベニーはまた言った。「病院から連絡するから、風ちゃんを頼む」
「そうする。あとで行くから」と僕は言った。
 僕と風ちゃんが病院に着いたのは二時間後だったけど、すぐにはベニーに会えなかった。看護婦さんが説明してくれたところによれば、動脈の一部が切られていたので緊急手術で縫合し、今はまだ麻酔で眠っている、とのことだった。ヒナたち姉妹にはもちろん先に帰ってもらっていたし、僕らも風ちゃんが落ち着くのを待ってたりしたから晩ご飯は食べていなかった。僕は病院の待合室を一度抜け出してコンビニでサンドイッチを買い、すぐに戻った。
「はい、何も食べてないでしょ」
「忘れてた」と風ちゃんはため息とともに言った。「そうだ、ノンちゃんにも帰れないって言っとかないと」
「それは僕がしといた」
「そう、ありがとう」
「というより、ノンちゃんから電話が入ったんだ。ネットの速報で流れたんだってさ。すごく心配してたよ。大丈夫とは言っといたけど、帰りも遅くなるって」
 僕らがサンドイッチを食べていると待合室の壁に掛かったテレビで九時のニュースがはじまり、冒頭のニュースは「『真空のゼロ』の作者、切りつけられる」だった。その直後から知り合いや親戚関係からいっせいに電話が、僕や風ちゃんの携帯に次々に入り、とても対応し切れなかった。風ちゃんはその場でブログを更新し、「ご心配かけてます、大丈夫です」とタイトルを打った。
 やっと看護婦さんに案内されて病室に入った時もベニーはまだ眠っていた。「麻酔はもうすぐ切れると思いますよ」と看護婦さんは言い、部屋を出て行った。病室は個室で壁際にはソファーもあったから一晩くらいなら泊まれそうだった。僕がそう言うと「私が泊まるからあなたは帰りなさい、明日、学校でしょ」と風ちゃんは言った。
「風ちゃんだって、明日締め切りでしょ」
「今回は穴を開けても許されると思うの。だってこんなトップニュースだもの」
「トップニュース?」とベニーが言った。「本当、それ?」
「起きたの?」
「ああ、起きたの、かな。全身麻酔されたのなんか初めてだから、何だか、すがすがしい朝って気分じゃないね」
「もう夜の十時だよ」僕は言った。
 電動ベッドのボタンを操作し、背もたれを起こしてベニーは半身を起き上げらせた。右手は肘まで包帯でぐるぐる巻きになっていた。ベニーは僕のことを頭から足までまじまじと見て「スグルは怪我してない?」と聞いた。
「僕は大丈夫、何ともないよ」
「警察の人には何か聞かれた?」
「少し、少しだけだよ」僕は言った。「だって自分たちも見てたんだから」
「そうだな」
「脅迫されてたの?」
「ううん、そうといえばそうだし、違うといえば違う」ベニーは傷ついていない左手で頭を触り、指で髪を梳いた。「はっきりした殺害予告とか、爆破予告とか、そんなのはなかった。ただ不気味な手紙は出版社に送られて来ていたんだ、それこそ三日おきにとか。ただ手紙の文面が巧妙ですぐには脅迫とはとれないようなものだったらしい。「あなたが地獄に落ちるところを見てやる」とかそんな感じで。私も直接は見てないんだ。でも、今回、映画会社にも同じ奴から手紙が届くようになったんで、警察に相談して警備を強化するってことになってたんだ」
「頭のおかしな奴で無罪、なんてことにならないよね」
「さあ? どうだか」
 犯人のことを先に言っておくと、無罪にはならなかった。責任能力ありと判断されたんだ。おまけに去年、アニメの声優を脅迫して有罪判決を受け、執行猶予中だったことから、今回のと含めて七、八年はシャバに出てこないのは確実だった。犯人は結局、右翼でも左翼でもない、思想的な背景は何もない男だった。きっと何かの電波でも受信したんだろう。
「今回は本当、スグルに助けられた」とベニーは言った。「救急車の中で本当、そう思ったよ。スグルがいなかったら私の命はなかったろうなって」
「そんな大したことはしてないけどね」
「もう子供扱いは出来ないって思った。だからあのことを話すことにするよ」
「あのこと?」
「お前の父親のことだよ」
「それは大人になったら話すって」
「だからだよ」とベニー。「それとも心の準備が出来てないか? 止めとくか?」
「そんなことはないよ」
 ベニーは風ちゃんを見て「いいよね」と同意を求めた。風ちゃんはこくりと頷いた。
「お前の父親は私の父親だ」とベニーは言った。
「え? それって?」
「判りづらい言い方だな、私の父親、お前が爺ちゃんと呼んでいたのが実は父親にあたる人なんだ」
「生物学的に?」
「そう、生物学的に」とベニーは言った。「でも勘違いするなよ。風ちゃんとの間に肉体関係はないからな。精子の提供を受けて体外受精させたんだ」
「言い出したのはお父さんで」と風ちゃんが言った。「はじめは私もびっくりして、何言ってるんだろうって思ったけど、すぐに考えは変わったのよ。だって紅子と血の繋がりがある子供を生むことが出来るんだから、むしろありがとうって思ったのよ」
「じゃあ待って、僕とベニーは」
「お前は私から見れば、腹違いの弟ということになるな」
「弟……」
 ベニーの父親、爺さんというのは僕が六歳の時に事故で亡くなっていた。もちろん可愛がってもらった記憶はあるし、買ってもらった服や玩具はまだとってある。でも小さな頃からベニーと爺さんの仲があまり良くないのも感じていた。爺さんは駅前にあったキャバクラの経営者で、ある日、キャバ嬢たちと河原でバーベキューをしていた時に、川に落ちたキャバ嬢の子供を助けようとして深みにはまり、溺れて死んだ。子供は助かったけど、お酒を飲んでいたのに川に飛び込んだ爺さんは帰らぬ人になったということだ。僕は立派な、英雄的な行いだと思わなくもないんだけど、ベニーはよく「おっちょこちょいのクソジジイ」なんて悪態をつくから、少なくとも自分から爺さんのことを話題にすることはなかった。ずっと知りたかった父親のことを教えてもらっても、不思議と僕は平静だった。感情的になんの盛り上がりもなく、落ち着いていた。実の父親がもう死んでいて会えるような人じゃない、というのもあるし、他人かもしれなかったベニーとの間に血の繋がりがあったのを知ってほっとしたっていうのもある。
「だからベニーは嫌いだったの?」と僕は言った。「爺さんのこと嫌いだったでしょ?」
「あんまり友好的な関係じゃなかったな、それこそ私が子供の頃から」とベニーは伏し目がちに言った。「私の父親は、まあ変人だったからな。堅物で、厳しくて、子供のことを縛る親とは違ってその正反対だった。理解しすぎて、物分かりが良すぎて、気味の悪いところがあった。こんな言い方判りづらいかもな」
「うん、よく判らない」
「でもそれよりもっと、腹立たしいことがあって、これは風ちゃんにもまだ話したことはないんだけど……」
「え? 無理に話さなくても」と風ちゃんは言った。
「いや、いい機会だから二人に話しておくよ。これは川で溺れたすぐ後のころ、実家の遺品を整理していた時に見つけたんだ。父親の部屋の押入れの奥から、ダンボールに入った大量のポルノビデオやDVDが出てきた。全部、レズビアンものだったよ。百合マンガも山ほど出てきた。それで思い出したんだ」ベニーは左手で顔を覆った。「私がまだ子供のころ、たまたま家にあったマンガを手に取って読んだんだ。それは百合マンガだったよ。当時はなんでそんなものがあったのかまったく判らなかったけど、それで私は女と女が愛し合う世界なんてものがあるのを知ったんだ。本当は違うと思いたい、それがきっかけで女の子に目覚めたなんて違う、そんな性質は私の中にもともとあったものだと信じたい、でも違うみたいなんだ」
「……」
「私が子供のころに読んだのはそれ一冊だった。普段からそんなものが家にごろごろしていたわけじゃない。でも、父親がたまたま隠し忘れたものなのか、それとも故意でやったものなのか、今となっては判らない」ベニーは左手で自分の太股をバチンと叩いた。「つまり、私の父親は、今の私たちが男と男の恋愛を喜んでいるように、女の子同士の恋愛に興奮するような変態だったんだ。それだけじゃなくて、自分の娘がそういう指向を持つように仕向けたかもしれないド変態だったんだ。だから風ちゃんに自分の子供を産むのなら二人の仲を認める、とか言い出した時、顔には出さなかったけど、心の中ではにやりとしていたんだろうな。そう考えると、私は未だに父親のことを許せない気持ちがふつふつと沸いてくるんだ」
「でもそれは僕には関係がない」と僕は言った。
 ベニーは顔を上げ、穏やかな顔で僕を見た。風ちゃんが横から僕の服の袖をぎゅっと握った。
「ベニーは許せないかもしれないけど、僕にしたらそんな爺さんだったからこそ僕が生まれたわけで、ありがとう、としか言いようがないよ。ベニー、いい機会だからさ、その許せない気持ちは今捨てたら? だってそんな父親の変態的な願望によって生まれた子供のおかげで、今日のベニーは命が助かったんでしょ。今日を限りに許せないなんて気持ちを捨ててさ、ありがとうお父さん、おかげで助かった、って思うようにすれば」
「まったくだ」とベニーは言った。「まったくスグルの言う通りだ」
「それにさ、僕はもう十四歳なんだ。この歳まで二人のことを母さんだと思って育って来たんだよ。二歳や三歳ならともかく、今さら変更はきかないよ。ベニーは腹違いの姉さんなんかじゃないよ。ベニーも風ちゃんも二人とも僕の母さんだよ、これからもずっと」
 ベニーははっとした顔で僕を見た。それから口元を弛めて「ありがとう」と言った。「触らせてくれないか?」
 僕は風ちゃんと入れ替わってベニーのすぐ横に行った。ベニーは左手を伸ばして僕の頬を触り、頭をくしゃくしゃに撫でた。風ちゃんが僕の背中から抱きついてきた。そのまま背中に顔を押しつけてぐすぐすと泣いていた。
 ベニーは結局、三日間入院した。手術そのものは大掛かりではなかったけど、血管や神経に後遺症は残ってないか、詳しく調べる必要があったみたいだ。もちろんしばらく右手は使えないし、リハビリに通う必要もありとのことだった。連載を一回休ませてもらい、翌日の締め切りがなくなった風ちゃんは毎日病院に通っていた。三日目の夕方、僕は学校から帰ると退院するベニーを迎えに車で向かった。もとから風ちゃんは免許を持ってなかったから、ノンちゃんに運転を頼み、一時間ほど先の都心の病院に向かった。でも渋滞に巻き込まれたりして時間がかかり、三十分くらい遅れて病院のエントランスに車を寄せると、すでに玄関先のベンチにベニーと風ちゃんの二人が並んで座っていた。
「悪いねノンちゃん、運転手なんか頼んじゃって」後ろの座席に乗り込みながらベニーは言った。
「そんなそんな、全然構わないっすよ」とノンちゃんは言った。「それより先生、怪我の具合はもういいんですか?」
「二週間は安静にしてろっていわれたのかな」ベニーの右手をぐるぐる巻にしていた包帯はだいぶ薄くはなっていたけど、肘から指先までしっかりと覆われ、三角巾で肩から右手を吊っていた。
 車は家に向かって走り出した。帰りの道は空いてるかもという僕の思惑は外れ、行きと同じように渋滞していた。しばらくずっとのろのろ運転だった。
「仕事のことだけど」とベニーがノンちゃんに話しかけた。「原作の方はさ、今まで通りキーボードを使えば書けなくはないよ。左手だけでキーを打つからかなり遅くなるけど、まあ、大丈夫だと思う。でも、あとベタを塗ったり、消しゴムをかけたりするのはしばらく出来ないから、みんなの負担が少し増えると思うんだ、悪いけど」
「そんなの平気っすよ、みんなで頑張って乗り越えますよ」
「いい機会だから仕事場を全部デジタルに変えようかしら」と風ちゃんが言った。「今どき完全アナログなマンガ描きなんて化石級でしょ。ノンちゃんのお友達とかどうなの?」
「確かに知り合いのアシスタントの仕事場はかなりデジタルっすね。でもまだアナログの人もいますよ、二、三割くらいで」
「ふうん」と風ちゃんは言った。
「まあ、それは今決めなくてもいいよ」とベニーは言った。
 僕は助手席から、すぐ隣で車を運転するノンちゃんの横顔を見ていた。三日前のベニーの告白を聞いてから気になることがあったんだ。実の父親の爺さんが死んだのは約八年前、そしてノンちゃんは「ここに来て十一年になる」と言っていた。ノンちゃんは間違いなく爺さんと会っていたことになる。いや、僕も二人が一緒にいる場面が記憶の片隅に残っていた。
「ねえ、ノンちゃん」と僕は言った。「ノンちゃんはさ、僕の父親が誰か知っていたの?」
「え? え? どうしたんですか? いきなり何を言い出すんですか?」
「実は三日前にベニーに教えてもらったんだよ。それで、ノンちゃんはもう知っていたのかと思ってさ」僕は言い、後ろの席のベニーに聞いた。「ノンちゃんには教えてあったの?」
「いや、さすがにスタッフの人には誰も話したことはないよ」
「聞いたことはないですよ、でも」とノンちゃんは言った。「多分、この人だろうなあっていう想像はしてましたよ、正解かどうかは知らないっすけど」
「ええ? 言ってみてよ」
「いいんですか?」
「いいよ」とベニーと風ちゃんの二人が言った。
「スグル君のお父さんは紅子先生のお父さんでしょ」
「ああ、なんだ、知ってたんだ」
「正解ですか?」
「うん、正解だよ」と僕は言った。「なんでそう思ったの?」
「ええと、何でかって言うと、スグル君がまだ二、三年生の頃だと思うんですけど、なんかの時にスグル君が居間にあったソファーに腰掛けながら、「まったくやってられねえなあ、畜生め!」と言いながら座ったことがあって、その言い方や仕草が死んだ紅子先生のお父さんにそっくりで、ああ多分、そうなんだろうなあと」
「なんだそれ」僕は言った。
「さすがノンちゃん」とベニーが言った。「ナイス洞察力」
「でもこのことはスグル君が大人になるまで秘密と聞いてましたけど……」
「うん、そのつもりだったよ」とベニー。「でも今回、スグルに直接助けられたし、色々と頼りになる所を見せてもらったんで、もう今までみたいに子供だと思うのはやめることにしたんだ」
「はあ、そうなんですか」
「そうなんだよ、ノンちゃん」と僕は言った。「だからさ、ノンちゃんも僕のことをもう子供扱いしないでくれよ」
「は、はあ」とノンちゃんは言った。「はい、そうですね」
 なぜかノンちゃんはそれっきり黙り込んでしまった。しばらく無言で車を運転していた。五分ぐらい、静かなまま車は進み、渋滞に巻き込まれた所で、誰かがぐずぐずと鼻をすすり出した。誰かと思って見るとノンちゃんだった。ノンちゃんが動かない車のハンドルを握ったまま目に一杯の涙をため、鼻をすすっていた。
「ど、どうしたの、ノンちゃん!」
「い、いや、すみません、本当にすみません」ノンちゃんは両手で涙を拭った。でもそれではとても足らなそうだったので、僕は足許のティッシュの箱から四、五枚抜き取って隣のノンちゃんに渡した。
「ごめん、ノンちゃん、僕、変なこと言った?」
「いえ、スグル君は悪くないんです」とノンちゃんはティッシュで鼻をかんだ。「なんだか昔のことを色々と思い出してたら悲しくなっちゃって。私が大好きだった、可愛い、可愛い、ショタのスグル君がもういないんだと思うと、無性に悲しくなって、泣けてきちゃって……」
「だから、そういうの止めてってば!」
 事件直後の騒がしさは一週間もすれば収まった。でも影響は残った。僕のまわりでも、母親が全国ニュースに登場したりしたわけで、前よりもいっそう好奇の目が向けられることになった。今まで僕の母親たちが何をやっているのか知らなかった奴まで知ることになり、僕は校内でもちょっとした有名人になった。上級生の女の子が廊下でいきなり「先生のファンなんです」と話しかけて来たこともあったな。そんなのはましな部類で、詮索されたり、陰口を叩かれたりと色々あった。けどそんな周囲のゴタゴタは毅然としてれば屁でもないことは学んだ。何を言われても「だから何?」と言い返せば済むことが大半だと判ったんだ。本当、下らないよね。
 三年生に進級すると僕がキャプテンになったサッカー部が本格的にスタートし、チームはなかなかのまとまりをみせた。僕はセンターバックにポジションが固定され、すぐ後ろのキーパーの東海林とホットラインを組むことになったわけだけど、それが上手くはまったんだ。三年になった時にクラス替えがあり、僕と東海林は同じクラスになって以前よりも接する機会が増えて、コミュニケーションが取りやすくなった。今まで取っ付きにくいなあ、と思っていた彼も実はそんな気難しい性格でないことが判ったんだ。
『真空のゼロ』は結局、その年の邦画ランキングの第二位になってかなりのヒット映画になった。映画のおかげでベニーの原作もよく売れたらしい。本屋さんでは今でも店頭で平積みにされているし、順調に版を重ねて、母さん達の今までの本——もちろん以前の本は全部BLマンガだけど——の中では最大のヒット作となった。となると出版社の人たちも黙っているわけはなく「先生、次回作もぜひ」なんて盛んに声をかけられているらしい。
「じゃあ、書けばいいのに」晩ご飯の時に僕は言った。
「そうなんだけど、ハイじゃあ書いてと言われて書けるようなものでもないんだよ」とベニーは言った。「これを書かなきゃいられない、書けないくらいなら死ぬ、というくらいの情熱を持てるようなテーマがね、今はこれといってないんだよ」
「先生、聞いていいですか」食卓の反対側でノンちゃんが片手を上げて言った。「この前の『真空のゼロ』はボーイズラブ的な要素がなかったじゃないですか? 次回作もそんなBL抜きじゃないと駄目なんですかねえ」
「うーん、そのへんは何も言われてないけど、多分、BL成分を入れたら「そういうのはマンガの方でお願いします」って言われて断られると思うんだ」
「ひどいですね」と紡さんが言った。「マンガを馬鹿にしてますね」
「私、『真空のゼロ』の登場人物でBL妄想しましたけど」藍さんが言った。
「そんなの私だってしましたよ!」とノンちゃん。
「書きたいテーマなんてある日、急にぽっと天から落ちてくるように自分の中で芽生えると思うんだよね」とベニーは言った。「だからそれまでは、BLマンガの原作書きで私は充分だと思うんだ。それが私の本職だと思ってるし」
 まだ右手が完全でないベニーの箸から食べ物がぽろぽろとこぼれ落ちて食卓に散らかった。ベニーの横に座った風ちゃんが一つ一つ指でつまんで口に運んでいた。
 そんなわけで僕の周囲は落ち着きを取り戻した。と、思った。本当にそう思ったんだけど違った。大違いだった。その直後に、僕にとってこの何年かで体験した中でもっともひどい、本当にとんでなくサイテーな出来事が待ち受けていたってわけなんだ。ああ、本当、思い出したくもないんだけどね。発端は僕らのサッカー部の交流戦だった。市内にある七つの中学校のサッカー部が、土日の二日間で総当たりリーグ戦を行い、順位をつけるっていう毎年恒例の行事があって、なんと僕らのチームは五勝一分けで優勝してしまったんだ。一番の功績は東海林の活躍だった。どの試合でもスーパーセーブ連発で相手チームのシュートをことごとく防いでいた。僕は本当、こいつ将来はJリーガーになるんじゃないかと心底思ったくらいだ。交流戦が行われたのは市営の陸上競技場で、その数百人収容の観客席にふと目をやった時、どこかで見た顔があるのに気づいた。席はまばらに埋まっている程度だったけど、試合中も、試合が終わって引き上げる時もそいつはスタジアムの最上段の隅っこに座っていて、首には大きな双眼鏡が下がっていた。かなり離れていたので顔まではっきり見えたわけじゃない。でも僕は「どこかで見た奴だな」とずっと思っていた。表彰式が終わって現地解散になったのだけど、僕がスタジアムの裏のトイレで用を足して出てくると、反対から出てきた女の子と鉢合わせになった。三年生になってから同じクラスになった女の子で名前は服部といった。でも実はまだ話したことはなかった。彼女は首から双眼鏡を下げていた。
「あれ、ええと、服部さんだっけ? 応援に来てくれたの?」
 彼女はひどくびっくりした表情で立ち止まり、すぐに下を向いてしまった。「う、うん」と呟くとすぐに小走りで逃げるように行ってしまった。最初、僕は彼女のことを東海林のファンの一人だと思っていた。何といっても彼は背が高くてイケメンで目立つ存在だったから、下級生の女の子の間でファンクラブが結成された、なんて話も耳に入っていた。服部もそんな東海林の追っかけの一人だと思ってしばらくは何とも思っていなかったんだ。その後、放課後にサッカー部の練習をしていると校舎のかげに立ってじっとこっちを見ている彼女に気づいたり、クラスの中でもふと僕が顔を上げると彼女と目が合ってすぐに彼女が下を向く、といったことが何度もあり、どうも彼女は僕のことを見ているのが判ってきた。気のせいだ、と言われればそうかもしれないけど、クラスの用事があって何度か話し掛けた時なんか、もじもじしてすぐ下を向いたりする、そんな恥ずかしがる仕草は、一年ぐらい前に僕に告白してきたヒナと同じような感じだったから、まあ、なんとなく判ってきたんだ。ある日、放課後サッカー部の練習も終わって帰ろうとしていた時、また僕を見ていた彼女と目が合ってしまった。僕はもう決着をつけるべきだな、と思って彼女に駆け寄りながら「服部さん!」と呼び止めたんだ。何といっても僕はヒナといい感じで付き合っている。ヒナは学校が違うので僕にガールフレンドがいるなんて知らない奴の方が多い。彼女はまた逃げようとしていたけど、呼び止められたものだからびくりと立ち止まった。僕はやっと追いついて「あのさ」と言った。「あのさ、服部さんてよく俺のこと見てるよね、あの、俺の勘違いだったら悪いんだけど」
 彼女ははにかむように俯き「ごめんなさい」と小さな声で言った。「ごめんなさい、聞きたいことがあって……」
「ええと、じゃあ、答えるけど」
「ここだと恥ずかしいから……」
 彼女は僕の先を歩いて体育館の裏の物陰に入った。確かにここなら人の目を気にしなくていいし、そもそもかなり遅い時間だから校舎に人影はあまりなかった。ごめん、僕には付き合っている彼女がいるんだ、だからごめんね、そう言えば済む話だと思ってたよ、その時の僕はね。でも違ったんだ。彼女は伏し目がちに、僕を伺うようにチラチラ見ながら「あ、あの、私、前からスグル君に聞きたいことがあって……」とやっと絞り出すように言った。
「うん」
「あの、実は去年、私、東海林君と同じクラスで……」
 え? 東海林?
「何ヶ月か前だけど、体育の後、私、当番で用具を片付けてたら、たまたま見ちゃったの。ちょうど今のこの場所で、スグル君が東海林君に告白されている所……」
「いや、それはちが……」
 そしてやっと彼女は顔を上げて僕を見た。恥ずかしがるような、喜んでいるかのような、楽しくて楽しくて仕方がないという表情。それはまるでいつも晩ご飯の時に、ベニーや風ちゃんが、ノンちゃんや紡さんや藍さんが、どのマンガが面白い、どのキャラとどのキャラの組み合わせがいいなんて楽しそうに話している時とまったく同じ顔だった。彼女はそんなうるうるに潤んだ目で僕をじっと見据えながら、さらに続けて言った。
「ねえ、スグル君と東海林君て、付き合ってるんだよね?」
 ああ、本当に勘弁して欲しい。正直、止めて欲しい。心の底からうんざりなんだ。
 だから、そんな目で僕を見るな!
                 
                          (了)                        

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