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【短編小説】理工学部 福来教授

 買い被られてきた人生だった。
 丹下賢太郎は夕暮れが近づく高速道路を一路埼玉に向かって車を走らせながら、一息をつく。なぜ自分はこうもツキがないのか、もう何度自問したことだろう。なぜ周囲の人は自分のことを「優秀なんでしょ」とか「出来る人では」と思うのか、まったく分からない。しかし賢太郎は子供の頃から、なぜかそのように見えていたし、思われていたようなのだ。その後、周囲は彼がそれほどの人間でなかったことに気づき、離れていく。「メッキが剥がれたな」と言われたこともある。いや、あなたが勝手に思い込んでいただけでしょ、と賢太郎は喉元まで声が出かかるのだが、すんでのところで飲み下す。まあいい、と彼は思うのだ。あなたと関わることなんてもう二度とないからね、と。
 今回も賢太郎は上司の福来教授に面倒事を押し付けられ、一人で解決してきた。彼が勤める理工学教室と、静岡県内にあった企業との共同研究が何も成果を上げることもなくご破産になり、賢太郎が一人で尻拭いをしてきた。提供した研究資材や資料を二日がかりでマツダボンゴの荷室に詰め込み、周囲からの冷たい視線や厭味ったらしい言葉にもひたすら笑顔で答え、乗り越えてきた。いま、新東名高速を走る彼の視線の先には、夕日を浴びた美しい富士山の眺めがあった。雲ひとつない秋の済んだ空気の中、きりりとそびえ立つ富士山は出来すぎた作り物のように美しい。
「これが見えたから、まあ、いいか」と賢太郎は一人きりの車内で呟いてみる。
 途中、海老名サービスエリアに寄って食事を摂り、あとは大学がある埼玉県の鳩越市まで一人で車を走らせた。ようやくたどり着いたのは、カーナビが示していた通り、夜の八時を回ってからだった。福来教授にはすでに午前中に連絡してあり、明日の午前中に詳しい報告を聞く、と了解を得ている。賢太郎は職員宿舎の駐車場にマツダボンゴを停めて、車から降りた。とにかく尻と腰と背中がガチガチに固まっている。賢太郎は両手を夜空に突き上げて「うーん」と伸びをした。
「丹下君、丹下君、今までどこにいた! なぜ電話に出なかった!」
 いきなり暗がりから声がして走り寄ってくる男がいた。
「は、はい?」賢太郎は咄嗟に身構える。
「電話だ、電話!」声の主はさらに叫びつつ詰め寄る。暗がりから薄毛のバーコード頭が現れる。事務局長の菊池だった。
「いえ、電話はここに」賢太郎は言い、ポケットからスマホを取り出す。「あれ、充電切れだったみたいです」
「ニュースは? ニュースは聞いてないのか?」
「この車、ラジオなんてとっくに壊れてますよ。なんせ平成五年式ですよ」
「そうか、そうか、じゃあ君は何も知らないのか」と菊池は少し落ち着いたのか、声を潜めた。
「何かあったんですか? 僕は静岡から戻ったばかりで」
「福来教授がどこにいるかも知らないんだな?」
「午前中に電話で話したきりですね、その後の予定は聞いてません」
「そうか、じゃあ、聞いて驚くな、腰を抜かすなよ、夕方のニュースで福来教授のノーベル化学賞が決まった」
「え? ノーベル? ノーベル化学賞?」
「教授が雲隠れをしていて見つからない。さっきから探している」
「本当にノーベル賞ですか? イグ・ノーベル賞じゃなくて?」
「本物のノーベル賞だ!」
「じゃあ、正門前にいた何台もの車ってテレビ局かなにかだったんですか?」
 事務局長は賢太郎の背後にまわり肩を掴んで押す。「ああ、そうだ。その通り。とにかく来てくれ。対応する職員の数が絶対に足らないんだ」
 裏口から校舎棟に入り、明るい光の方に二人はとにかく進んでいく。普段ならこんな時間には暗くなっている一階の玄関に多くの報道陣が詰めかけていた。二、三〇人はいたであろうメディアは事務局長の姿を見つけるとどっと押し寄せてきた。
「福来教授は見つかったんですか?」
 何台ものテレビカメラやマイクが向けられ、菊池は再び慌てふためいたように表情を曇らせる。「すいません、すいません、まだです。見つかっていません、お待ち下さい、お待ち下さい、ただ今全力で探しておりますので。教授が見つかり次第、記者会見は執り行いますので、このままどうか、どうか、もうしばらくお待ち下さい」
 報道陣を掻き分けるようにして進む賢太郎にもマイクが向けられ、「関係者の方ですか?」と呼びかけられたが、後ろから菊池にグイグイ押され、二人は事務室の中になんとか入った。
「さっきからこの通りだよ」菊池はまだ荒い息を弾ませている。事務局もほとんどの職員が居残り、騒がしく鳴る電話の応対に追われている。
「とんでもない騒ぎですね」
「ああ、そうだろう、国外からの問い合わせも多くて対応しきれない」
「教授の過去を知ればそうなるでしょうね」賢太郎は言う。他人事のように言い、騒がしい事務局の中を見回す。
「とにかく、海外からの問い合わせが多いんだ、君、英語は話せたよな」
「少しくらいですが」
「ああ、その電話もそうだ、出てくれ」菊池はそう言うなり部屋の反対に走っていった。
「ハロー」賢太郎は手許でけたたましく鳴り響いていた電話を取り上げ英語で言った。「こちらは埼玉帝国工科大学です」
「ハロー、私はカナダ国営放送のイシュケナです」受話器の向こうも英語で返す。女性の声だった。「いくつか事実確認があります。よろしいでしょうか?」
「どうぞ」
「今回のノーベル化学賞を受賞されたプロフェッサー、ケンゾー・フクライの経歴についてです。一九七六年のモントリーオールオリンピックのボート競技ダブルスカルで金メダルを取った日本人競技者も同じ名前なのですが、こちらは同一人物でしょうか?」
「イエス、そうです。同一人物です」
「ワオ、それは凄いですね」電話の女性は言う。お世辞などではなく、本心から出た言葉のようだった。「それで、プロフェッサー・フクライにインタビューは可能でしょうか、もしくは何かコメントは」
「ええと、すみません、不可能です。只今、こちらも混乱を極めておりまして」
「そうでしょうね。では、どなたか教授をよく知る方にお話は聞けませんか?」
「私でよろしければ。私は直接の部下であり、普段から教授に接しておりますが」
「それはよかった、教授はどのような人柄ですか?」
「ええ、そうですね、謙虚で丁寧な、そう禅の僧侶のような穏やかな性格の人になります。ただ仕事の面では妥協はなく、私も普段から厳しく指導されております」
 電話が終わると、賢太郎の背中を誰かがつんつんと押した。振り返る。大学院生の岡本瑠璃子だった。「丹下さん、ちょっとこちらへ」
「こちらってどこだ?」
 彼女は爪先立ちになって賢太郎の肩に手を置き、耳元で囁く。「教授の隠れ場所です」
「どこに隠れてる?」
「他の人には教えられないです。こちらへ」
 賢太郎は周囲を見回しつつ、歩き出した彼女の後を追う。事務局長の菊池も他のスタッフたちも突然の騒動に戸惑うばかりで、まったく混乱している。電話が鳴り響き、「だから教授はまだ捕まってません」と叫ぶ声が飛び交う部屋からこそこそと抜け出す賢太郎たちを咎める視線はまったくなかった。「廊下は報道陣で溢れてるぞ」
「ええ、ですのでここから」
 岡本瑠璃子は廊下には出ず、事務局長の個室につながるドアを開けて先に進む。その個室にも隣につながるドアがあった。賢太郎は初めて入る。資料室のようで棚には段ボールに詰まった書類が乱雑に押し込められている。並んだ棚には隙間がなく、びっしりとくっついていたが、岡本瑠璃子はハンドルのひとつを掴んでぐるぐると回した。棚がゆっくりと動き、隙間が開く。彼女はその狭い空間に身体を横にして入る。「こちらです」
 賢太郎も続いて隙間に入って棚の間をカニ歩きで続いた。開いたドアがあり、そこを抜けると階段が現れた。「こんな構造知らなかった。まるで忍者屋敷だな」
「この上も資料室なので、ただ繋がっているだけです」
 彼女の言葉の通り、階段を上がった先も棚が並んだ狭い部屋だった。部屋のドアを開けて廊下に出る。真っ暗だった。
「で、教授は?」
「丹下さんなら、どこに隠れていると思います?」
「クイズはよしてくれ。さっさと帰りたいんだ」
「私は丹下さんを連れてこいと命令されているだけなので」と岡本瑠璃子は暗闇の廊下で立ち止まり、振り返る。「それに考えが甘いですよ。帰ってゆっくり出来るなんてそんなことが出来るとでも?」
「そうかもな」と賢太郎は言う。「受賞が決まった時、君はどこにいたんだ?」
「ちょうど教授と二人で夕ごはん中でした。幸楽苑で」と瑠璃子は踵を返し、再び歩き出す。「今日も遅くなりそうだったので、ラーメンを食べてました。そしたら、事務局から教授に電話があって。その直後に私のスマホにもニュース速報が入って、どうやら本当みたいだなと。こんな事態、丹下さんなら予想できました?」
「いや、まさか。下馬評にだって教授の名前なんてまったく上がってなかったじゃないか」二人は廊下を端まで歩き、階段を上がる。そこから連絡通路を通って隣の校舎棟に抜ける。「で、まだなのかい?」
「こちらです」
 瑠璃子はそこだけなぜか木の格子柄の引き戸になった部屋の前で立ち止まる。賢太郎は「ええと、ここは」と言うしかない。二年半前にこの大学に来た彼は、すべての部屋の割り当てなんて頭に入ってない。瑠璃子は「どうぞ、中へ」と言って引き戸をガラガラと開けた。
「茶室か」と賢太郎は言った。明るい畳の部屋が奥まで続いているが、それほどの広さではない。賢太郎が靴を脱いで上がると、部屋の隅、ふすまの影に隠れるように座っていた福来教授と目が合った。
「出張、お疲れだったね、丹下君」と福来教授は言った。あぐらをかいて壁によりかかり、缶コーヒーを飲んでいた。
「ええと、この度はおめでとう御座います」賢太郎は膝を折る。正座になってそう言い、そのまま頭を下げる。「まさか、いや、本当に凄いことですね。なんて言っていいのか、こんなことになるなんて」
「それは私の言葉だ」と福来教授は言った。もう七〇歳を超えているが異様に黒い髪は毎週の白髪染めを欠かしていないからだ。「ええ、どうしたらいいんだい、丹下君」
「どうしたらって、早く姿を現してくださいよ、こんなところに隠れてないで。事務局なんて大騒ぎしてますよ」
「うん、まだ少しここにいようかな、なんて」
「テレビの生中継まで焦らしてるんです」と瑠璃子が言う。
「ちょっと、岡本君?」
「何それ? どういうこと?」
「今はまだこの時間、ニュースをやってないじゃないですか? テレビもみんな下らないバラエティ番組ばかりで」と岡本瑠璃子は入口で立ったままふすまによりかかり、賢太郎に言った。「十時になったらNHKのニュースがはじまるじゃないですか。その生中継に合わせて姿を表せば、ばっちり注目される。そこまで計算してるんですよ」
「なるほど、さすが教授」と賢太郎は言う。「さすがです」
「うん、まあね。というかね、私もいきなりのことで気が動転して、少し落ち着きたかったのだよ」
「世界中から注目されてますよ、私も今、事務局でインドやフランスのテレビ局から問い合わせの電話を受けましたから」と賢太郎はずいっと教授に近寄る。「だって、オリンピックの金メダルとノーベル賞を受賞した世界で初めての偉業ですからね、あとあとまで語り継がれますよ」
「よしなさいって、おだてても何も出ないよ」と福来教授は言う。
「あー、そうだ、受賞の理由をまだ聞いてなかった。何が評価されたんですか?」
 岡本瑠璃子が背後から自分のスマホを差し出した。ニュースの画面だった。賢太郎は読み上げる。「えーっと、ロジウム触媒を用いた水素貯蔵化合物の開発において多大な貢献を治めたことを評価して、はあ、なるほどなるほど、ロチェスター大学のワルデマール・チェルピンスキー教授とソルボンヌ大学のアンデルス・ヤーデルード教授、埼玉帝国工科大学の福来健三教授にノーベル化学賞を贈ると、ああ、はいはい、いや、でも」と賢太郎は言う。「この分野でしたらテキサス工科大学のアルベルト・ファントレナ教授が大御所でしょう」
「知らんのか、君は。ファントレナ教授は二ヶ月前に脳溢血で死んでる」
「ではUCLAのジム・モンゴメリー教授は」
「六月にスタッフへのセクハラとパワハラと不倫がバレて追放されている」
「ははあ、つまり」
「繰り上がりだよ、私は」と福来教授は言った。「君たち、よく覚えておきなさい。ノーベル賞なんて持ち回りなんだ。業界と言うか、学会ごとにロビー活動がさかんに行われているもんなんだ。今年は私の触媒学会がうまいことして勝ったんだな。で、その中から三人てことだよ」
「でも、そうだとしてもただの幸運というわけでもないでしょう」
「いやいや、幸運だよ。だいいちオリンピックの時だって、一位でゴールした東ドイツの二人が薬物違反で失格になって、その後我々に金メダルが転がり込んできたんだ。まったく、この時も繰り上がっての金メダルだ」
「なかなかのフレーズじゃないですか、それ?」と瑠璃子が言う。
「そうか、岡本君、今の決まってたか? 私の人生はいつも繰り上がり、うん、メディア受けするフレーズかもしれない」と教授は自分の膝を叩いた。「いいね、いいね。このあとの記者会見でも使ってみよう」
「ええと、チェルピンスキー教授ですよね」と賢太郎は顎に手を当てて考え込む。「んん? それって、僕が二年前にここに来た時に、データを送ったあれですか?」
「丹下君、ちょっと」と福来教授はふいに真剣な顔になる。「ちょっと、そのことでなんだが、ええと、岡本君、席を外してくれないかな?」
「いやです」と瑠璃子はきっぱりと言った。
「なんでだね!」と教授は声を強めた。
「なんでって、面白そうだからです。教授は私がこのあとも博士課程を収めるまで私がずっとこの教室にいるとでも思うんですか?」
「何言ってるんだ、違うのかい?」
「なんか、もうどうでもいいんです。だから、面白い方を選んでおこうと思いまして」
「丹下君、彼女は何を言ってるのかな?」
「さあ、私もさっぱりです」
「まあいい、とにかく丹下君、アレはアレしてくれたまえ」
「わかりました。アレはアレします」賢太郎は言う。「ところでそろそろ十時になりますが」
「先に局長の菊池君を連れてきてくれ。会見場もどこにするか決めなくちゃだろう。ここに報道陣を呼び寄せるわけにもいかない」
 賢太郎は立ち上がる。瑠璃子に行かせようかなとも思ったが、彼女はここから動かないだろうという気もした。賢太郎は今来た通路を戻って事務局に行き、混乱の菊池を連れてすぐに往復して帰ってきた。
「教授! こんなところに居たんですか!」と菊池は茶室に駆け上がるなり取り乱して叫んだ。「いくら探してもどこにもいないから!」
「すまなかった、すまなかった、私も正直、混乱していたのだよ。あらかじめわかっていたら、もっと堂々と構えていたのだが」
 記者会見は十時半から、場所は第一講堂ということで話がつき、菊池は戻って行く。「まさか、もう雲隠れはしないですよね」
「しないしない、しないって」と教授は言う。
「君たちも、一緒に連れてきてくれよ」と菊池は賢太郎と瑠璃子の二人を睨むように見た。「私は先にメディアの方々に伝えておくから、もし、また教授が居ないなんてことになったら、ただじゃ済まないぞ」
「済まないでしょうね」と賢太郎も答える。
 十時二十分まで、教授は茶室の畳の上に横になっていた。仰向けになったり、うつ伏せになったり、ごろごろと転がる。そうして「ああー」とか「ふああー」といったため息のような声を吐き出していた。「しばらく、まともな日常はなくなるだろうなあ」
「仕方ないんじゃないですか、どうしたって注目されますよ」賢太郎はすぐ横の畳に座ったまま言う。「教授、そろそろ時間です」
「面倒くさいなあ」
 賢太郎が腕を掴んで立ち上がらせ、靴も履かせる。ようやく歩き出した教授だが、すぐに賢太郎の耳元で囁いた。「さっきのアレのこと、わかってるよね」
「ええ、もちろん」
「君だっていつまでも不安定なポスドクのわけにもいかないだろう。今回、君が上手いこと立ち回ってくれれば、近いうちに助教のポストは準備するし、悪いようにはしないから。な、な。頼むよ、本当に」
 賢太郎はふと振り返る。暗闇の廊下で瑠璃子がなぜか睨んでいた。
 講堂の前の廊下にも報道陣が溢れていたが、学内の職員数人と賢太郎が守るように両手を広げて教授を入口まで送り出す。中に入った途端、連続のフラッシュと歓声と拍手が福来教授を包む。賢太郎はその様子を背後から眺めつつ、後ずさる。本当ならもう帰って職員宿舎の自分の部屋でゆっくりしたいところだが、そうもいかないだろう。賢太郎は講堂の後方に回り、階段を上がって中に入る。さすがに五百人は収容可能な講堂の全てを埋め尽くすほどではないが、前半分はテレビカメラや新聞記者たちメディアでいっぱいになっている。彼らが注目しているのは、今はただ一人、彼の上司である福来教授である。
「ええ、どうも、はいはい」
 そんな、なんてことのない教授の言葉にもフラッシュが焚かれていて、賢太郎は滑稽に感じてしまった。普段の教授の人となりを知っているだけに余計にそう思うのだ。賢太郎は講堂を出て事務局に入り、残っていた職員たちとテレビの生中継の画面を眺めていた。この大学からは初めてのノーベル賞なので、職員たちも皆浮足立っているし、笑顔に包まれている。しかし賢太郎は両手を上げて喜ぶ気分ではない。これからさらに面倒なことに巻き込まれるであろうことは明白なのだ。
 翌日の新聞の一面はもちろん、福来教授の笑顔だった。「快挙、金メダルとノーベル賞!」の文字が踊っている。
 賢太郎が午前十一時過ぎに研究室に入っていくと、もうすでに岡本瑠璃子の姿があった。「おはよう」と賢太郎は白衣に着替えながら言った。
「おはようございます」と瑠璃子。「丹下さんは昨晩は何時まで」
「結局、宿舎の部屋に戻ったのは夜中の二時ぐらいだったよ。俺にもコメントを求めるテレビ局がいくつかあってさ」
「朝の番組で見ましたよ。当たり障りのない、模範的な回答をする丹下さんの姿が」
「この先しばらくはこの騒ぎに巻き込まれるだろうなあ」
「ところで教授は? 今日は出てきますかね?」
「いや無理だろう。あちこち挨拶回りだったり、祝賀会だったりで、ここに戻るのは何日か先のことじゃないかな」
「そうですか」と瑠璃子は少し思いつめたような顔になる。「じゃあ、お聞きしたいんですが、昨日教授と話されていたアレをアレしてっていうのは何なんですか?」
「秘密だよ。勘弁してくれ、言えるわけなんてない」
「私だってここの研究室に来て一年半です」と瑠璃子は椅子をくるりと回して、賢太郎の方を向く。長い脚を組み、鋭い視線を向けた。「どうせ研究に不正があってとか、それを黙っててくれとか、そういうことでしょう?」
「ははっ、ご明察だな、その通りだよ」
「あれ? あっさり白状するんですね?」
「俺も一晩考えたんだがな」と賢太郎は言った。明け方まで悩んだ自らの身の振り方のせいで、ほとんど寝ていない。「実のところ、俺はもう今のこの時点で詰んでいるみたいなものだ。教授はしらばっくれて逃げ切る気かもしれないが、そんな教授にどんな職を斡旋してもらったところで、それは不正で得た職だから、留まれるわけはない。かと言って教授のお膳立てを断るのも無理だろうしな」
 瑠璃子はふいに椅子から立ち上がる。賢太郎に詰め寄り、勢いがつきすぎたのか、両手を賢太郎の胸に置いた。そして真剣な声で「ちょっと丹下さん、いいですか? ちょっと、外へ」と言い、今度は賢太郎の手首をむんずと掴んで歩き出した。
「何、何、何だっての」
 研究室のドアを空け放ち、そのまま廊下を進んでいく。屋外に出て、校舎棟の間、人気のない花壇の前でやっと離した。「もしかしたら、部屋の中に監視カメラや録音機が仕掛けられてるかもしれないじゃないですか」
「まさか。いや、教授ならするかも」賢太郎は言う。「心当たりでもあるのかい?」
「ないですけど、用心のためです。とにかく、詳しく聞かせて下さい、その不正っていうのを」
「話してもいいけど、そうなると君も一蓮托生だぞ。あとで私は知りませんでした、なんて言えなくなるけど、それでもいいのかい?」
 瑠璃子ははっとした顔で動きを止める。俯き、なにかぶつぶつと呟いていたが、決心をしたのか口元を結び「いいです、聞かせて下さい。大丈夫です」と言った。
「今回のノーベル化学賞だが、本当ならテキサスのファントレナ教授が一人で貰うべきものなんだ。それで誰からも文句はなかっただろう。それくらいに大きな貢献をしている。うちの教授も二十年くらい前からチェルピンスキー教授やモンゴメリー教授なんかと一緒に共同研究をしていたことはしていたが、貢献度なんてたかが知れてるな」
「で、不正というのは?」
「焦るなって。問題なのはその水素貯蔵化合物の耐久度だな。十年経過した時点でも劣化率はわずか七〜八パーセントなんてデータを出したのが、だいたい二年前かな。それが嘘っぱちってわけ。データを改竄したんだよ、教授の命令でこの俺が」
「でも検証している研究機関もあるんじゃ」
「耐久度そのものはあるんだよ。ただ経年劣化が激しい。これは本当に十年間時間をかけて調べないと分からない。だから教授もバレないつもりなんだろう」
「いや、でも、ニュースではこの研究のおかげで水素社会が到来するとか、トヨタが何兆円もかけて設備投資するとか、新幹線も水素タンクを積んで走るから架線がなくなるとか、そんな薔薇色の未来が来るみたいな報道をしてますけど、それが・・・」
「ああ、まったくのデタラメ」
「うわああ」と瑠璃子は言いつつ両手を上げてその場で踊るようにステップを踏んだ。「最低じゃないですか、それって」
「でもそれがあの教授なんだよ。ナチュラルにそういうことをする。バレなきゃまあいいだろうと不正もする。いやあとで、ちょっとミスっちゃったごめんごめん、で済むだろうという甘い見通しで、データを盛る。そのくらいは平気でする。ただ人当たりがいいから、なかなかそういう卑怯なところがバレない」
「ああ確かに。秀吉じゃないですけど、人たらしですよね」
「君の方も昨日から様子がおかしかったけど、何があった?」
「私もそりゃあの教授に思うところはありますよ。何度も話してますけど、私、テレビ局の局アナの最終試験にまで残ってたんですよ。それをあの教授が強引に誘うものだから、そっちを蹴ってこっちに来たのに、今考えるとどうしてそんなことしちゃったのか、まったく解らない。本当、タイムマシンで戻ってあの時の自分をぶん殴りたい」
「まあそうだよなあ」
「それだけなら、まあ、いいですよ。でも何で教授が私のことをそんなに強引に残れって命令したのかと言うと、教授が政府の有識者会議とかに名前を連ねてるからじゃないですか。女性が活躍する理工系社会の実現に向けて、どうたらこうたらとかいう政府の機関にいるから、ただそのために女性の私が大学院まで進まされたんですよ。教授の小さなプライドのために私が生贄になったんじゃないですか」
「生贄は言いすぎだろう。別に弱みを握られて脅迫されたわけでもないだろう?」
「脅迫されたほうがまだ諦めがつきます。でも、そうじゃないからこんなにも腹立たしくて、許せなくて、こんちくしょうってなっちゃうんです」
「わかったような、いや、わからないな」と賢太郎は言う。「じゃあ、君はこの教授の不正をばらして復讐しようってわけだ」
「いえ、そこまでは」
 瑠璃子は声の調子を落とし、表情を曇らせた。賢太郎もふうっと一息つき「まあ、昼にしようか」と言って歩き出す。瑠璃子も「そうですね、お腹が空きました」と呟き、あとに続いた。
 いつもランチを食べる大学周辺の店は皆、混雑していた。第三候補の牛丼屋まで席が塞がっていたので、中華料理のデリカテッセンで中華丼の弁当を買って大学に戻ることにする。正門を過ぎて歩いていく二人を、若い警備員が追いかけてきて呼び止めた。「あの、福来教室の方ですよね」
「はい、そうですが」賢太郎は足を停め答える。
「福来教授にお会いしたいという方が見えてるのですが」
「取材でしたら、事務局が担当だからそっちに聞いてくれれば」
「いえ、取材じゃなくて、教授のお知り合いの方とのことです」そして警備員は正門脇の警備室を指差す。「あちらにいる方です。ちょっと、我々では埒が明かないので話だけでも聞いてあげてくれませんか」
「はあ、まあ、いいですけど」
 警備員に連れられ、年配の男が二人の前に来る。警備員は「では、よろしく」と言い、走って戻っていく。面倒事を押し付けられたようなものだが、教授の部下であるとはこういうことだろう。賢太郎は妙な納得の仕方をしながら、薄汚れた服装の老人を前に「どうも」と会釈をする。
「失礼ですが」と老人は言う。「福来君とはどのような関係で」
「私は福来教室のポスドクです」君付けか、なら同級生か何かだろうか、賢太郎はそんなことを考える。「平たく言えば教授の部下ですね」
「私は伊達航一郎と申します。私が福来君とどんな関係かと言うと、これを見てもらうのが早いでしょう」
 そう言って老人は写真を差し出した。二人の若い男が並んで笑っている写真だった。賢太郎が手に取ると瑠璃子も顔を寄せる。綺麗なブレザーを着て胸には日の丸のワッペン、そして首から金色のメダルを下げている。一人は明らかに福来教授だった。半世紀前かもしれないが面影はある。そしてもう一人は今、目の前にいる老人に間違いなかった。
「モントリオールオリンピックのダブルスカル!」賢太郎と瑠璃子は声を揃えて言った。
「ええ、そうです」老人は言う。「もう五十年前になります」
「伊達さん、せっかく来ていただいたのですが、教授は今日はこの大学には来ていなくて、おそらくしばらくは顔を出さないかと」
「そうなんですか」
「別に隠しているわけではなくて、本当のことで」と賢太郎は言う。「なにかご用件があったわけですか?」
「どうでしょう、用があるといえばあるし、ないといえばないのかも」と老人は伏し目がちに言う。背の高さはそれほどではないが、肩幅があり、がっちりした体格だ。ボート選手らしいのかもしれない。「福来君にはもう何十年も逃げられ続けていて、昨日、彼の名前が急にニュースで大きく取り上げられたものだから、ついやって来てしまいました。いったい何をしてるのか」
「あ、あの!」と瑠璃子が身を乗り出して言う。「もしかして、伊達さんて福来教授に恨みがあるわけですか? 私は教授の教室の大学院生なんですが、もう、普段から教授には恨み骨髄なんです。もしよろしかったら、詳しく話を聞かせてもらうことは?」
「おい」と賢太郎は瑠璃子を睨む。「言い過ぎだって」
「でも、本当のことですよ」
 そして二人は伊達を見る。老人は黙って俯き、そして上目遣いに二人を見た。ただそれだけ、決してイエスと言ったわけではないが、ノーとも言っていない。もうそれだけで、老人が腹に溜め込んでいる想いの重さがどれだけか計り知れるというものだ。「じゃあ、こちらに」と瑠璃子が伊達老人を促し、校内に歩き出す。
「教室じゃまずいですよね」と彼女は賢太郎に聞く。
「隠しカメラがあるかもとか言うのは君だけだが」
「あんなところ落ち着かないですよ」瑠璃子は校舎棟からグラウンドに向かう通路に足を進める。日当たりのいい東屋がいくつか並んでいたが、そこでランチ中だった数人の学生が席を立ち戻っていくところだった。
「ちょうどよかった、ここで」
 三人はコンクリートのテーブルを挟んで座る。「すいません、私たちお昼がまだだったんです。話しながらでいいですか?」
「どうぞ」と伊達は言う。肩に下げていたバッグからサーモスの水筒を取り出し、テーブルに置いた。
「もし言いにくかったら、別にお話しにならなくてもいいのですが」と賢太郎は言いつつ中華丼の包みを解く。
「そうですね、どこから話せばいいのか」と伊達はサーモスの蓋を空けてひとくち飲んだ。「私たちが金メダルを取った時、マスコミなんかはこう言ったもんですよ、モントリオールの奇跡って。まあ確かにボート競技では後にも先にも日本からメダルなんて出ていない。それだけ、世界の壁は厚いってことなんです。そもそも日本では人気がないですが、海外では競技人口も多くて、人気スポーツなんですよ、ボートって」
「すいません、あまり詳しくなくて」
「私たちは大学の同じボート部で、同級生でもあって、二人のレベルもそこそこ高くて、ペアを組むにはまあ、ぴったりだったんですね。大学の三年頃には日本では敵なしになっていました」と伊達は言う。淡々と半世紀前の思い出を語るその口調にはまだ恨みや憎しみの感情はなかった。「しかし、今も言いましたが、世界の壁はとてつもなく高い。日本代表として国際大会にも何度か出ましたが、せいぜい二回戦敗退、準々決勝敗退、そんなレベルでした」
「はい」と賢太郎は言う。
「あれ」瑠璃子が言う。「なんだか話が見えてきたような」
「いや、黙ってなよ」
「そこで福来君がある提案をしてきた。ちょうどオリンピックの三ヶ月前くらいです。あることをしようと。いや、それをしているのは別に私たちだけではない。世界では当たり前のように行われていることをしようと。いや、当時の共産圏の選手なんかにはかなり浸透していたあることを。そう、モントリオールの時も一位になった東ドイツの選手は禁止薬物の使用が見つかって失格になりました。しかし、私たちはさらにその対策をしていたんです。つまり薬物を使ってもそれをマスクする、見つからないように隠す薬物を使ったんです」
「こっちもインチキかよ!」と賢太郎は立ち上がって叫んだ。「まったくこっちもインチキだったのかよ!」
「丹下さん、丹下さん、落ち着いて」瑠璃子が賢太郎の白衣の裾を引っ張って座らせる。
「こっちも?」伊達老人は言う。
「ええと、すみませんこちらの話です。どうぞ続けて下さい」
「初めは私も有頂天でした。なんと言っても憧れてたオリンピックの金メダルですからね。しばらくは調子に乗っていました。なんせ体操やバレーボールと違って、ボート競技のメダリストは日本に私たちだけですから。私も地元の高校で教師をしながら、ボート部を立ち上げて教えたりもしていました。今となっては、私にそんなことをする資格なんてない、と思うのですが、当時はまだずうずうしかったんですね」と伊達老人はサーモスの蓋を空けて飲み物を喉に流し込む。「しかし、だんだんと良心が傷んできたんです。こんなズルをして金メダリストだなんて、自分が許せなくなってきた。それで、四十歳頃に一度、福来君に連絡して金メダルを返上したい、と打ち明けたこともあるんです。もちろん、反対されましたけど」
「でしょうね、そうでしょうね」と瑠璃子が言う。「自分からそんな悪事を白状するような人じゃないもの。良心が痛むとか、教授から一番かけ離れた言葉ですよ」
「世の中には色んな考えがあることは認めます。勝つことが絶対だ、どんな手を使っても勝たなければ意味がないんだ、そういう人もいるでしょう。しかし禁止薬物を使って、さらにそれがバレないクスリも使って、そんなことをして勝ってどんな意味があるんでしょう。私はその後も福来君に何度か会おうとしました。しかし上手いこと理由を付けて逃げられ続けました。ええ、この三十年ばかり」
「私も不思議でした。どうして教授がボート協会の偉い地位に就いてないのか。教授の性格なら絶対にボート協会の理事なり参事なり、上の役職を我が物にしてブイブイ言わせてるのが当然なのに、何故そうしていないのかが不思議だった。そういうことだったんですね」
「ただし私も卑怯と言うか、小心者と言うか、自分一人では返上できなかった。福来君からどんな報復をされるか分からないから。なので、自分が死んだら事実を世間に公表して、金メダルもIOCに返上するよう、遺書を託しているんです。甥に一人優秀なのがいましてね、司法書士の事務所をやってるのがいるんです。その甥っ子に託してあります。私が死んだら、この封筒を開けろと書いたものを」
「ええと、では、オリンピックの時の真実を知ってるのは、教授と伊達さんだけですか? 他に知っている人は?」と瑠璃子は聞く。
「いないですね。託してある封筒の中には当時あったことを詳しく書き残していますが」
「証拠はあります?」
「直接の証拠ではないですが、彼から届いた手紙は封筒に一緒に入れてあります。今回のことはお互い墓場まで持っていこう、と書いてありますから知らぬ存ぜぬでは済まないかと」
「伊達さん、実は今回の教授のノーベル賞も実はインチキをしているんです」と瑠璃子が一気に言う。
「おい」と賢太郎は制する。
「どうしてです? 伊達さんだってこうして真実を話してくれたんだから、こちらも真実を伝えるべきじゃないですか?」
「いや、そうだけど、そうかもしれないけど、余計な負担だろう」
「ノーベル賞も不正?」と伊達老人は小さく笑う。「なんだか、福来君らしいなあ」
「それで伊達さん、死んでから真実をバラすんじゃなくて、生きているうちに教授を告発するつもりはもうないんですか?」
「そうですね」
「そりゃ報復されるかもだからだよ」
「いえ」と伊達老人は言う。「自分が死んでからなんて卑怯ですよね。だって不正をしたのは彼だけじゃない。私も同じくらい同罪なんです。死んでから真実を打ち明けるなんてそんなのはズルすぎる」
「では?」
「考えを改めます」
「こういうのはどうです?」と瑠璃子はコンクリートのテーブルに両手を置き、腰を浮かせて言った。「今すぐに真実を訴えるのではなくて、教授の幸せの絶頂の、まさにいい気になってるちょうどその時に台無しにしてやるってのは。ノーベル賞の授賞式は十二月にスウェーデンでありますから、そのタイミングに合わせて世間に真実を公表するんです。大騒ぎになりますよ」
「ははっ、そりゃあ痛快ですね」
 瑠璃子は賢太郎にも視線を送った。「丹下さんも分かってますよね?」
「え? え? 俺も?」
「だって丹下さん、自分がこのまま被害者ポジションで済むとでも思うんですか?」
「え?」
「教授の不正ですが、本当に十年後まで分からないですかね?」
「いや今回ノーベル賞で注目されたから、精度の高い検証が入るだろうな。五、六年後、いや三、四年後くらいには不正がバレる可能性はあるかも」
「じゃあ、その時にあの教授がすいませんでした、私が不正をしました、なんて頭を下げると思いますか?」
「うん・・・」
「自分は知らない、部下のポスドクが手柄が欲しくて勝手にやったことだって言いますよ。絶対にそう言いますよ。あの教授のことだもの、絶対に絶対に絶対にそう言って、言い逃れようとするのは間違いないですって。首を賭けてもいいくらい」
「ああ・・・」と賢太郎は言う。「そうだ、そうだろうな。だから俺は今朝から気分が悪かったのか」
 頭の隅にあったけど、はっきりとは見えていなかったものが、瑠璃子の言葉によって見えてくる。もう詰んでいる、どころではない。地獄の淵がすぐ足許だ。あとひと押しされれば、地獄に真っ逆さま、そんな際どいところまで追い詰められている。どうしてだろう? きっとそれはデータを書き換えろと教授に命令された時、断らなかったからだ。当時はまだ教授の部下になったばかりで、今ひとつ教授の人となりを理解していなかった。それに自分の意識も低かった。深く考えずに教授の悪巧みに加担してしまったから、今の自分がいるのだ。なぜあの時、はっきりと拒否しなかったのか、タイムマシンで過去に遡って、自分をぶん殴りたい気分だ。教授が適当でいい加減で、気分屋で軽薄で、ナチュラルに不正に手を伸ばすお調子者だからではない。自分の中に何も芯がなかったから、今こうして追い詰められている。
「丹下さん、覚悟を決めましょう」
 と瑠璃子は言う。
「ああ、そうだな」と賢太郎は呟き、立ち上がる。東屋から足を踏み出し、少し歩いてまた戻る。瑠璃子と伊達老人がじっと自分を見ていた。
「丹下さん、大丈夫ですか?」
「ああ、覚悟は決まったよ」と賢太郎は言う。そしてふうっと深く息を吐いた。「まったく、やれやれだぜ」

                          (了)

 

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