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「承和の変」は藤原氏による他氏排斥なのか

 平安時代といえば、貴族たちが陰謀をめぐらせているイメージがないでしょうか。灰原薬の漫画「応天の門」など、この時代の陰謀渦巻く政治劇が好きな人は、一定数いると思います。


「承和の変」とは何か

 平安時代に繁栄を極めたのは、言うまでもなく藤原氏(藤原北家)です。高校の日本史教科書にも、藤原氏が他の氏族を陰謀によって排斥し、権力を掌握していったと書かれています。

 例えば、山川出版社の日本史Bの教科書には次のようにあります。

 北家の藤原冬嗣は嵯峨天皇の厚い信任を得て蔵人頭になり、天皇家と姻戚関係を結んだ。その子の藤原良房は、842(承和9)年の承和の変で藤原氏の中での北家の優位を確立する一方、伴(大伴)健岑・橘逸勢ら他氏族の勢力を退けた。

山川出版社「日本史B」P68

 「承和の変」は藤原氏による他氏排斥事件の一つと、学校で習います。しかし、歴史学的にはこの見解は適切ではありません。

承和の変の背景

 承和の変は、自分の勢力を拡大したい藤原良房の思惑というよりは、当時の仁明天皇の思惑を見た方がよく理解できます。

 嵯峨天皇の譲位後、弟の淳和天皇が即位し、その譲位後は嵯峨の子・仁明天皇が継ぎました。また、皇太子として淳和天皇の子・恒貞親王が立てられました。

 つまり、順当にいけば仁明天皇は従兄弟に譲位することになっていました。仁明天皇には、自らの息子に継がせたいという思いがありました。

承和の変の経過

 842年、仁明天皇の父として国政を取り仕切っていた嵯峨上皇が崩御しました。
 仁明天皇が皇位を継承させたかった道康親王は、藤原良房の妹の子でした。恒貞親王を皇太子から廃し、道康親王を立太子することについては、仁明・良房の双方の利害が一致していたのです。

 嵯峨上皇の死の直後、「伴健岑と橘逸勢が、恒貞親王を奉じて東国で挙兵し、仁明天皇を廃位しようとしている」という密告がありました。

 健岑と逸勢は捕縛され、流罪。恒貞親王は皇太子を廃され、道康親王が立太子しました(後の文徳天皇)。

藤原氏は他氏族を排斥できた?

 以上のように、承和の変の最大の焦点は皇位の継承にありました。藤原良房が最大の受益者にはなりましたが、良房は陰謀の「首謀者の一人」と捉えるべきです。

 承和の変では他の公卿も左遷処分を受けました。その中には、藤原愛発(ちかなり、藤原北家)や藤原吉野(藤原式家)なども含まれます。一方、橘氏の最有力者・橘氏公(うじきみ)は失脚せず、後に右大臣にまで上りました。

 こうした観点から、承和の変を「藤原氏による他氏排斥」と呼ぶのは不適切といえるのです。

参考文献:坂上康俊「日本の歴史05 律令国家の成立と『日本』」講談社学術文庫

 

 
 
 
 

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