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【歴史のない日本伝統6】時間規律を守る日本人

右翼は低偏差値であったり歴史を知らないのに「日本の伝統が大事だ」とすぐに云う。しかし右翼が強調する伝統や歴史観などウソだらけで伝統性など乏しいものばかりだ。

今回は時間規律の歴史のなさを説明する。
時間厳守マインドも明治政府によってつくられたものだった。

「日本人は欧米人とは違い時間をきっちり守る、古来から続く日本の伝統だ。」というのは歴史を知らないアホな右翼やスピの格言の一つであろう。こういうアホとは付き合わない方がいい。

西洋では産業革命の影響で18世紀には機械の指導時間に合わせて働くシステムができあがっていた。19世紀には交通網も発達し列車の定時運航の影響で時間厳守という概念があったと考えられている。

しかし日本では明治初期まで時間規律の概念は存在しなかった。江戸時代までの日本の時刻制度は中国考案の不定時法であった。

1日を昼と夜に分けてそれぞれを6等分にしていた。1スパンが約2時間でありこれが一刻であった。ただ日が昇る時から沈むまでの長さは日ごとに異なるし季節によって大きな差があった。一刻の長さは毎日微妙に違い同じ朝五ツ(8時ごろ)であっても冬至と夏至では1時間半以上の差があった。

時計を持っているのは江戸で暮らす一部の大名だけで一般庶民は近隣寺社が鳴らす鐘の音だけが時間を知る術だった。

江戸では城内の和時計を利用し決まった時刻に太鼓や鐘を鳴らし役人たちはこれらを合図に政務時間を判断した。農民は寺の鐘や太陽の高さなどを目安に水を汲みに行く順番などを決める。

同じ地域や職種の人々がその共同体のなかで規律や体系をつくった。個々人の時間感覚は発達しなかった。遅刻という概念もなかったと想定されている。

明治に入り神仏分離令が発令された。廃仏毀釈で多くの寺が廃絶させられた。こうして地域の時間の目安となっていた寺の鐘がなくなる。

1872年(明治5年)に鉄道が開通し運行の本数が増えていった。定時運行・時間厳守が鉄則となった。時間を守らないと大事故につながるからだ。翌年に改暦がなされた。太陰暦から太陽暦となり不定時法から定時法となり各地に時計塔が建設されていった。

明治に導入された西欧流の学校制も日本の時間厳守化の追い風となった。

江戸時代の寺子屋は年齢も学力も違う生徒を一人ひとりの進度に合わせていたが欧米では同学年の児童を同じ教室に集めて時間を区切って教えるシステムであった。

この変化を徹底させるために明治初期の学校では授業開始の5分前に校門を締め切る事を定めた。

これが未だに続いている5分前精神である。

また学校と同時に設立された軍隊も時間の意識に影響を与えた。軍隊は戦争作戦を遂行する事が目的となるため時間を決めて一気に行動する規律やプログラムが導入された。

この流れを踏まえて1886年(明治19年)ごろには分刻みの時間規律が全国導入される事となった。明治時代になり約20年で時間規律で動く近現代日本人像(=社畜バカ)が完成した。

大正時代以降に工場ではアメリカ人のエンジニアであるフレデリックテイラーの科学的管理法が紹介されるようになった。

これは1日で作業完了する仕事量をノルマとして設定するなどした。能率を徹底した管理手法である。

こうして様々な職場で時間節約が唱えられるようになり次第に家事や教育など日常生活の場に染み込んでいった。鉄道の時間厳守は第1次世界大戦から第2次世界大戦の間には1分単位で運行管理をしていた。

(結論)

「日本人は真面目で時間を守る国民」の実態は自然や諸藩的な伝統とは完全に断絶したものだった。

富国強兵路線を徹底した大日本帝国が西洋合理政策によって官製的につくりだしたものだったのだ。

「組織に追従して時間を守る日本人像」そのものが近代官製的なものなのでこれを良しとする風潮は辞めた方がいいでしょう。「日本は外国と違って素晴らしい」自民族中心路線に乗っからない事こそ真っ当な歴史観の継承なんですよね。

■参考文献
『日本人が大切にしてきた伝統のウソ』オフィステイクオー 河出書房新社

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