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【小説】雨が降らなければ

曇り空から雨粒が落ちる前に、目的地にたどり着ければと思っていたけれど、あいにく、途中から電車の窓に斜めの水滴が付き始めた。

僕ははす向かいのビジネスマンが小さなため息をつくのを聞いた。そちらを見ると、その人はスマホを見ていた。なんだ、雨に対してじゃないのか。でもあまりにもタイミングがよかったせいか、僕はその人に微かな親近感を感じた。僕らは同じ時に、ため息をつくようなものを目にしたんだ。

自分の指先が震えているのを感じる。今水の入ったボトルでも持ったら、中の水が揺れるだろう。しかしそうしなければ周囲にはわからないほどの微かな震え。それは僕には十分に大きな震えだった。突然恥じらいを感じて、両手をジャケットのポケットに入れてみたけれど、肘が左右に突き出てしまって、隣の乗客に当たりそうだったのでまた手を出し、腿の間に手のひらを合わせて挟んだ。そして、震えることの恥じらいを思った。恥じらうことなんかじゃない。僕はただ、これから初めて行く場所に向かっているから少し緊張しているだけなんだ。

次の駅に着くと、老婆が乗り込んできて一番端の空いている席に腰かけた。彼女の手はしわしわで、震えていた。震える手を伸ばして銀色の手すりにつかまり、背筋を伸ばしてまっすぐ前を見ている。僕もあんな風にしっかりしていなくては。指先の震えくらいで、自分にしかわからない震えくらいで恥じらっていてはダメなんだ。僕はその老婆に尊敬を感じた。

しかし次の駅で、老婆は降りて行った。僕から老婆へと伸びていた尊敬の糸が、しまったドアに挟まれてぷつりと切れた。糸は電車の床に落ち、だんだん色を薄めていって、消えた。周囲を見回してみても、他に自分から何かを、繋がりを伸ばせそうな相手は見当たらなかった。皆僕ではなく、僕と共有する何かもなく、むしろ僕とは正反対に見えた。唯一、はす向かいのビジネスマンだけが、ため息のタイミングによって僕と繋がっていた。

もうすぐ、目的の駅に着く。どんな場所で、どんな人なんだろう。いろいろな想像が頭の中を駆け巡り、嫌な未来を映し出す。その自分の想像に憂鬱さを感じ、僕ははす向かいのビジネスマンの方を見た。彼は相変わらずスマホを見ていた。眉間にしわを寄せている。

目的の駅のひとつ前に着いたとき、ビジネスマンはふと立ち上がって降りて行ってしまった。同じように、繋がりの糸はドアに断ち切られ、床に消えた。僕は独りになった。急に心細くなって、両手をぐっと握った。

目的の駅に着き、その改札を出ると大勢の人が行きかっていた。僕は独りだった。何か、自分一人でなくなる方法は無いだろうかと見回してみても、誰もいないし、何もなかった。自分の体重を自分の足首だけで支えることに不安を感じる。誰かと繋がりが持てるなら、少しは楽なんだけれど。雨の中を歩いた。雨は僕と周囲とを余計に遮断し、僕を独りにした。

僕にはわかっていた。自分は独りであることしかできないのだと。この世界に、自分のために生きてくれる人などいないことも。誰しもが自分のために、せいぜい身近な誰か数人のために生きるのであって、僕のためじゃない。だけど一方通行の繋がりだけなら感じられる。想像の産物でもいいんだ。

雨さえ降っていなければ、僕はそう思った。そう思いながら、目的の場所のドアの前に立った。ガラスに映る自分の姿なんて、見たくなかったのに。

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