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『翠』 25

 甘い物が食べてみたいという母の意向で、原宿通りから少し歩いたところにある『サン フランシスコ ピークス』というパンケーキ店で、遅めの昼食をとることになった。母が頼んだのは、〝パンケーキwithミックス&ホイップクリーム〟で、わたしが頼んだのは、〝パンケーキwith自家製ソーセージである。スィーツ系ではない、塩気のある生地があとを引く味わいの、食事系のパンケーキで、それと合わせて食べるソーセージも絶品だった。母からは一口分けてもらったのだが、母の食べていた〝パンケーキwithミックス&ホイップクリーム〟も、薄焼きのパンケーキ生地の上に、イチゴやべリー、バターなどがトッピングされており、絶妙に飽きのこない味だった。あまり甘い物が得意ではないわたしにも、無理なく食べることができた。

 アメリカンな雰囲気の店内には、黒を基調にした内装に、レンガと木目調の装飾が施されており、色とりどりのアンティークランプが吊されていた。窓際のカウンター席には、休憩中のサラリーマンだろうか、真剣な面持ちでパソコンと向き合っている。全体的に女性客が多く、プチ女子会をしているのか、2、3人組の女性客がランチを楽しんでいる。わたしたちが案内されたのはテラス席で、さすがに冬場ということもあり、窓は開放されていなかったが、全面ガラス張りということもあり、比較的混雑した店内のわりには、意外と開放感があった。

 パンケーキを食べ終え、ティータイムにと二人分のドリンクを注文した。わたしが『抹茶ラテ』を注文し、「甘い物食べたあとだから、逆に苦いモノがほしくなった」と母が、『ホットアメリカーノ』を頼んだ。

「陽菜ちゃんも、来年には受験でしょ? 今のうちから進路とか考えてるの?」

 唐突に母から尋ねられ、口に運びかけた抹茶ラテを、一旦テーブルに戻した。

「んー、まぁ、どこに行くかまでは、ちょっとまだ考えてないけど、一応、都内の高校にしようかなって思ってる……。え? なんで?」

「んー……、いや、とくに〝なんで〟ってことないけど……、どうするのかな? って思って……」

 どこか含みのある母の言い方に、

「ふーん」と相づちを打ち、一度、テーブルに戻した抹茶ラテを、あらためてすすり直した。

「ってことは、もし受かったら、今の家から通うの?」

「一応、そのつもりだけど……」

「ふーん」

 こちらの出方を窺うように、今度は母が同じように相づちを打つ。コーヒーを一度口に含み、

「だったらさ、私のところから通ったら?」

 と、見計らったように、不意に提案してくる。

「え? いいの?」

 とつぜんの母からの提案に、思わず、こちらがきょとんとなる。

「うん。べつにいいけど……」

 平然とそう言い放つ彼女の発言に、

「え? でも、お母さん仕事忙しいんじゃないの!」

 つい動揺して、早口になる。

「うん、まあ、そうなんだけど、陽菜も、もう再来年には高校生でしょ? 一人で何でも出来るでしょ?」

 どこか投げやりな言い方をする放任主義な母らしく、突き放しているような物言いのなかにも、上手く言えないが、そこはかとない愛を感じられた。

「んー、まあ、そうだけど……」

「あ、そうだ!」

 何かをひらめいたのか、急に母が甲高い声を上げる。

「な、何?」

 驚いて反射的にそう反応すると、

「あ、ごめん」と、一言、謝ってから、

「あのさ、何だったら、今のうちから私のマンション、ときどき使ったら?」

 と、さらに突飛な提案してくる。

「へ?」話が飛びすぎて、思考が追いついて行けない。

「いや、だからさ、今うちから私のマンション使ったらいいじゃん。私も来月から出張増えるし、ほとんど家に居ないこと多いから……。ていうか、あの家じゃ勉強に集中出来ないでしょ? だったら、陽菜が使いたいときに、いつでも使っていいから、私の部屋で勉強したら? んで、頃合い見計らってさぁ、高校進学と同時に、私のところに来たらいいじゃない?」

 そう言いうと、バッグの中から何やらとりだし、おもむろに渡してくる。

「だから、はい、これ!」

「え? 何これ?」

「なにって、見れば判るでしょ。私のマンションの合鍵よ」

「え? ほんとに貰っていいの?」

「いいもなにも、最初からそのつもりだったし……。そもそも、いつか陽菜に渡そうと思って、ずっと前に作ってたんだし、それが今日になったってだけ……。ほんとはもっと早く渡してあげようと思ってたんだけど、陽菜も友だちと離れたくないって言ってたし、私の独りよがりだったらどうしようって思って、そんな余計なことばかり考えてたら、なんだか渡しずらくなっちゃって……」

 長年ずっと母と暮らしたいと思っていた。

 その夢がこれから叶うのだと想像するだけで、今の段階で顔がニヤけそうになった。

 自然と気持ちが高揚した。

 どうかすると嬉しさのあまり、涙がこぼれて来そうだった。

 その涙を堪え、

「お母さん。ありがとう……」

 そう声を振り絞り、母から合鍵を受け取った。

「なに言ってんの。私はこれからも、ずっと陽菜の母親なんだから、そのくらい当たり前でしょ。そんな〝ありがとう〟とか寂しくなること言わないでよ……。陽菜がいいならだけど、私はいつでも待ってるから、中学卒業したら、私の家においで、そんで、また、一緒に暮らそう……」

 母に買って貰った服も、もちろん嬉しかったが、それより以上に、母の口からその言葉を言われたことが嬉しかった。意外なタイミングで言われたのもあるかもしれないが、わたしにとって、どんな高額な贈り物より、最高のプレゼントだった。

 胸が締め付けられるよう言葉だった。

 肺に溜まった息を吐き出さないと、まともに呼吸ができなかった。

 苦しいけど、嬉しい。

 嬉しいけど、胸が痛んだ。

 心地良くて、嬉しい痛みだった。

「ほんと、ありが……と……。お母さん……」

 長年抱えていた孤独感や不安から、一気に開放されたような気がした。

 母が出て行ってから、ずっと不幸だと思っていた。

 まさかこんな日が来るとは、思っていなかった。

 少しでも気が緩んだら、堪えていたモノがこぼれてきそうだった。

「大事にするね……」

 そう口にしたとたん、今まで我慢していた感情が一気に押し寄せてきた。

 堰を切ったように溢れ出した涙で、目の前が滲んだ。

「え? なに? まさか、泣いてるの?」

 とつぜん泣き出すわたしに、母が動揺する。

「ちょっと陽菜ちゃん、なにも泣くことないでしょ? 合鍵、渡しただけだよ〜……」

 わたしを宥めようと、母が慌てて頭を撫でるが、一向にその涙がおさまらない。人前だとわかっているのに、涙が溢れて止まらなかった。悲しくて泣く経験なら幾らでもしたことはある。ただ、その反対は初めての経験だった。

 この瞬間、人は嬉しいと涙が出るんだと、心の底から思い知らされた。なんとなくニュアンスだけは、ドラマや何かの演出で知ってはいたが、ほんとに自分自身が、嬉しくて涙を流すことなんてあるわけないと思っていた。自分がうれし涙を流していることが信じられなかった。

「だって、嬉しくて……」

 何事かと周囲の客の目が、こちらに一斉に集まり、次第に店内がざわつきはじめる。

「ね? 陽菜ちゃん。泣かないで……。ほら、お母さん、ここにいるから……。どこにも行ったりしないから……。これからはずっと一緒にいられるよ! ちゃんと陽菜とのことも、考えてるから! 安心してイイんだよ……。お母さんが頼りなくて、ごめんね……。ずっと陽菜につらい思いばかりさせて、ほんと、ごめんね……。」

 母の声はどこか懐かしく、優しさに包まれていた。子どものころと何一つ変わっていなかった。今にも泣き出しそうな母の声に、思わずこっちの涙腺が緩み、さらに拍車をかけて涙が溢れた。それにつられるように、母も一緒になって、もらい泣きをする。わたしを宥めたいのか、一緒に泣きたいのか、その異様な光景に、周りがドン引きするのが、なんとなく感じとれた。

「ごめんね……、ごめんね……」

 と、繰り返す母の言葉が、いつまでも耳に残って離れなかった。俯いているせいで、そのとき母が、どんな顔をして泣いていたのか、はっきりとは判らなかったが、頭を撫でられる感触だけが伝わってきた。

 こんなに嬉しいのは、生まれて初めてだった。

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